「見てみなよ。ほら、綺麗な満月だね」

「僕はもっと佐伯さんと会いたいし、話したい」

 そう言って僕は佐伯さんの瞳を見つめたわけだ。

 ……と、ここまでは良かった。我ながら照れずにストレートで男らしかった。人の目をあまり見れない僕が、佐伯さんの瞳をちゃんと見つめて言い切ったのだ。すごい。


 でも、このあとが問題だった。


「先輩。それってどういう意味ですか……?」


 小さく呟いた佐伯さんは耳を赤くして恥ずかしそうに身をよじり目を伏せたのだ。その様子を見た瞬間、僕にかかっていた魔法は解けてしまった。突如押し寄せた気恥ずかしさの突風が、この身に纏っていた男らしさの外套をほろ酔い気分もろとも一気に吹き飛ばしたのだ。残ったのは自尊心すら無くしたひ弱で哀れな童貞ボーイの痩身である。


 赤面である。僕はなんという恥ずかしいことを口走ってしまったのか!?


 我に返れば、照れと恥ずかしさで顔から火が出るようだった。むしろ出た。目の前の七輪を焼いているのは僕の顔から出た炎だ。きっと。

 こんな公衆の面前(しかも焼肉屋)でキザったらしいセリフを吐いて、佐伯さんを辱めてしまった。火照る顔面、回らない舌。慌てて取り繕う言葉は痛々しいほどにうわずった。


「い、いや。その。違うぞ。色々と小説のこととかも話したいし、僕の小説についても君からアドバイスとか貰えたら……嬉しいし、そういう意味で言ったのだ。えっと……他意はない、他意はないぞ!」


 あとはいつものアレだ。しどろもどろだ。わたわたと言い訳をしながらバタバタと手を振る。顔が熱くなって自分が何を話しているのかもわからない。もう雰囲気はぶち壊しだ。沈黙を恐れ手当たり次第に言葉を放る様は、醜いあひるが水面をあがく姿よりも滑稽であった。


「あの……」と佐伯さんが無駄口を撒き散らす僕の言葉を遮った。


「な、何?」


「他意は……本当にないんですか?」


 パーカーの袖口から指先だけを出した状態(萌え袖ってやつだ)で口元を隠した佐伯さんが上目遣いに言う。


「そ、それは……」


 ごくり、と唾を飲む。一瞬の沈黙。そりゃ、会って小説の話をしたいというのは事実だけど、それだけじゃない。いろんな話をしたいし笑顔を見たいし、もっと仲良くなりたいし、付き合いたいし、毎日会いたいし。つまり、他意は……。他意は! ありまくりだ! 男らしく言うべきだ。ストレートに。初恋パンチはストレートだ! わかってる。そんなことは百も承知だ。勇気を出せっ。漫画だってゲームだって映画だって、もちろん小説だって、ここぞって時には、主人公は勇気を出さなきゃいけないのだ。わかっているんだ。頭では。

 ……だけど、僕は。


「ははは、無いよ。ないない。ほら、それより肉をもっと頼もうではないか」


 ……僕は意気地なしだ。どうしようもないボンクラだ。美樹本さんに言われた通りの情けない男なのだ。自分の思いを吐露することで、せっかく築き上げてきた彼女との関係性が崩れることが、無性に怖くなったのだ。


 佐伯さんは「そうですか」と小さく呟いて、ほんの一瞬だけ寂しそうな顔をしたけど、そんなの僕の見間違いかもしれないというくらい、パッと、けろっと、一瞬で表情を変えた。


「ふふ、なーんだ。それなら佐伯に任せてください! なんたって丸川の最終選考まで進んでいるのです。将来有望な新人さんですからっ! ビシバシとアドバイスをしちゃいますよ」


 明るく元気よく、いつもの調子で佐伯さんは言う。あまりにいつもの調子だったので、逆にその真意を測りかねるくらいに。


「とはいえ、結局受賞には至らなかったし。うーん、もっと面白い小説を書かなきゃダメなんですね……。えへへ。終わったことをくよくよ悩んでも仕方ないですけど、悔しかったなー」


 ポロっと本音をこぼした佐伯さんだけど、すぐに、「お肉お肉~」と誤魔化すようにヘンテコな鼻歌を歌いながらメニューを開いて、その顔を隠した。メニューを覗き込む佐伯さんの表情が見えなくなる。僕は俯いて唇を噛んだ。

 今日は佐伯さんを励ますために来たはずだった。それなのに、勝手に気持ちが高ぶって、勝手に空回りして、勝手に……。

 結局はなんの勇気も出せなくて。

 なんて意気地のない男なんだろう。


「先輩……」


 メニューで顔を隠したまま、佐伯さんが言う。


「佐伯はすぐに期待しちゃうアホな子なんです。昔からそうでした。丸川の賞も、もしかしたら大賞が取れるんじゃないかって夢みたいなことを思ったり、他にも色々……取らぬ狸の皮算用ってヤツですよね、えへへ。あんまり期待しすぎるとあとが辛いのに、期待して落ち込んで、そんな繰り返しです。だから、先輩も私に期待を持たすようなこと、言わないでくださいね」


 表情は伺えないけど、どこか寂しそうに佐伯さんは言った。僕は喉がつっかえたみたいに口ごもってしまって、何も言えなかった。言うべき言葉は、絶対にあったはずなのに。

 でも、佐伯さんは初めから僕の返事などは求めていなかったのか、すぐに店員さんを呼んで、色々と注文しはじめてしまったので、もう何か言葉を放つタイミングはなかった。

 僕は自分自身の不甲斐なさに情けなくて、悔しくて、胸がいっぱいだった。


「んーっと。あっ、先輩は何か注文したいものありますか。冷麺とか食べませんか。シェアしませんか」


 注文の最中、メニューからひょいと顔を出す佐伯さん。いつもと変わらぬ佐伯さんの声。いつもと同じ愛らしい仕草。僕は佐伯さんの言葉に曖昧な笑顔で頷いた。佐伯さんの注文を聞き終えて店員さんが戻っていく。僕は目を伏せジョッキを煽る。


 世の中にはカップルってのが沢山いて、大学にもバイト先にも恋人がいる奴が沢山いて、僕の親だってなんだかんだ恋愛をして結婚をしてるってのに、なぜ僕は上手く恋愛ができないのだろう。皆は恥ずかしがらずに好きな人に好きと言えるのか?


「どうしたんですか。先輩。なんだか元気がない様にお見受けしますが?」


 覗き込むように僕を見る佐伯さん。


「いや、なんでもない。問題ない」


 こんな意気地なしの男を彼女はどう思っているのだろう。


 佐伯さんは何事もなかったようにニコニコして僕にいろいろなことを話してくる。好きな小説が映画化したけど、あまり面白くなかったとか、好きな作家がSNSで炎上していてショックだったとか、そんないつも通りの他愛のない話。コロコロと表情を変えて、楽しそうに話す佐伯さん。そんな笑顔に触れると、僕の固まりかけた表情もほぐされてしまい、注文した品が運ばれてくる頃には、さっきの一件が何事もなかったように軽口を叩いたりしてしまう。


 これでいい。僕は彼女とこうして楽しく仲の良い先輩後輩として関わっていられたら満足だ。幸せだ。

 そう自分に言い聞かす。もし、告白なんかしてフラれたら、もうこんな風に会うことなんてできないんだ。だからこれでいいのだ。これでいいのだ、と。

 だけど、僕はもう、自分の心の奥底に今まで気づかなかった感情がびっしりとこびりついていたことに気づいてしまった。表面だけをかき回しても気づかない焦げ付いたシチューみたいな苦い感情のダマ。これが恋心なのだ。

 気づいてしまったら、意気地なしの僕だって無視は出来ない。「告白なんかしないでいいよ。今のままで充分に楽しいだろ」と僕のいつもの弱虫な心は言っている。なのに、今日、突然胸の奥から湧き出るように現れた今まで見たこともなかった奴が、二十数年間付き合ってきた僕の愛しい弱虫を押し退けて、囁くんだ。


「これでいいのか? お前は本当にそれでいいのか? 何もしなければ、佐伯さんはいつか知らない男のものになるぞ。いいのか?」


 よくは……ない。

 よくなんか、ない!


 僕が一番、佐伯さんを想ってるんだ。誰にも渡したくないんだ。


「なら、言うべきことは一つだろ?」


 奴はほくそ笑む。


 わかってる。わかってるんだ。でも、それでも、うまく言葉が出てこないんだ。圧力鍋の中でいくらシチューがグツグツと煮えたぎっていても、火の止め方も蓋の開け方も分からないお子ちゃまにはどうすることもできないんだ。頭の中だけなら、いくらでも素敵な言葉は出てくる。自分で書いた小説の主人公だって、男らしくストレートに告白をしてる。なのに、現実世界の僕は悶々としているだけで、告白の一つもできないのだ。情けない。自分が本当に情けない。


 くそ!くそ!

 僕は意気地なしの情けない男なのだ!


 表面だけはいつもと同じように佐伯さんと冗談を言い合って笑い合い、お酒もまわったけど、それでも心は冷えていた。



 なんとか勇気を持って佐伯さんに想いを伝えたいと心は叫んでいるのだけど時は無情に過ぎていく。終電の時間をきちんと計算して食事を終え、お会計を済ませ、焼肉屋を出ると外の空気がやたら新鮮に感じた。都会の空気なんて綺麗なわけはないのに。


「じゃ、帰りましょうか」佐伯さんが言う。このまま帰ってしまっていいのか、僕は伝えたい言葉があるはずなのに。でも、不甲斐ない僕は何も言い出せない。心にしこりを感じながらも、ほろ酔いで楽しげに歩きだす佐伯さんの後を追って駅に向かって歩きだす。春休みの時期だからか深夜でも商店街は若者が多い。佐伯さんは慣れたもので、人通りの多い道を避け、近道でもある脇道に入った。

「一人だったらこんな時間に通りたくない道ですけど、今日は頼れる先輩が一緒なんで」といたずらっぽく笑う佐伯さんだったが、深刻な顔をしてた僕に気がついたのか、


「どうしたんですかー? 怖い顔してー」と酔った体をぴょこぴょこ揺らしながら近づいてきた。


「元からこんな顔だよ」と、うそぶいて慌てて表情を緩める。いつの間にか身体が強張っていた。まったく、こんなにカチコチになってたら、素直に告白もできないよ、と自嘲気味にため息をつく。やっぱり、僕に恋愛なんて無理なんだ。きっと日にちが経てば何事もなかったように、またいつも通り佐伯さんへの想いもコントロールできるようになるだろうし、あせって告白なんかするのはやめよう。

 そう思い、強張った肩をほぐそうとストレッチがてら首を動かすと、雲の切れ間から月が浮かんでいるのが目に入った。まだ春先の澄んだ夜空に浮かぶまんまるの満月は、ため息が出るほど綺麗だった。


「綺麗だなぁ……」


 何の気なしにポツリと言葉がこぼれた。


「え……?」


 佐伯さんが立ち止まる。


「見てみなよ。ほら、綺麗な満月だね」


 空を指差して、雲の切れ間から覗くまんまるなお月様を見上げて……、ハッとする。僕は意識せずに、例の夏目漱石の愛の言葉を口走ってしまっていた。


 慌てて佐伯さんの横顔を盗み見る。どうだろう。佐伯さんは「月が綺麗」と言われる意味を知っているだろうか。佐伯さんはその細い顎を少し上げて夜空を見上げていた。月明かりに照らされた彼女の横顔は絵画のように美しかった。このまま、ずっと見ていたいほど。


 大通りの喧騒が遠く聞こえる。街灯に照らされた佐伯さんは満月を見上げたまま聞き取れるかどうかの囁くような声で、


「……死んでもいいって思えるくらい、綺麗ですね」と言った。あまりに突然のことだったので、よく聞き取れなかった。


「え、ごめん。なんて……?」


 僕が聞き返そうとすると、佐伯さんは顔を赤らめ、


「な、なんでもないですっ」と顔を伏せて、そそくさと歩き出してしまった。慌てて追いかける。


「なんて言ったか聞き取れなくてっ」


「別に大したことは言ってないですっ。気にしないでください」


 佐伯さんは振り返ることもなく、ずんずんと歩いて行ってしまう。


「待って、待って。 ちょっと、佐伯さん」


 駆け足で追いかける。


「終電来ちゃうんで」


 嘘だ。まだ終電まで二十分以上余裕があるはずだった。


「だから、ちょっと待ってよ」


 引き止めようと思わず佐伯さんの手を掴む。立ち止まった佐伯さん。


「な、なんですか」


 うつむいたまま振り向きもせずに佐伯さんは言った。


「な、なにって……その」


 直球な質問に言葉を詰まらせてしまう。なんて言えばいいのだろう。またも言葉が出てこない僕。少しの沈黙の後、うつむいたままの佐伯さんは震える声で言った。


「さっきも言ったように、佐伯はすぐに期待しちゃうアホなんです。勝手に期待して、勘違いしちゃうアホなんです。だから、発言には注意していただけると、いらぬ誤解を生まずにすむと思います……」


「佐伯さん……」


「すみません。わたしなんかが偉そうに……」と尻つぼみに押し黙った。

 なんて言えばいい。僕は彼女になんて言えばいいんだ。ダメだ。考えるな、考えたらまた言葉が出てこなくなる。今言うべきことはなんだ。ひとつだけ、今、佐伯さんに伝えたい言葉はひとつだけなんだ。伝えたい言葉にちゃんと向き合わなきゃ。


「佐伯さんっ!」


 上ずる声で叫んだ。おしゃれな言葉なんていらないんだ。僕の気持ちをただ、伝えるべきなんだ。小さく息を吸って、そして、


「す、す……、好きだっ!!」


 情けないほど、つっかえながら僕は叫んだ。


 薄暗い夜道。月明かり。細い手首を掴んだまま、佐伯さんの後ろ姿に震える声で叫んだ。時が止まる。高鳴る心臓の鼓動。佐伯さんの身体が震えているのが掴んだ手から伝わってくる。しばしの沈黙。人通りのない道。

 佐伯さんがゆっくりと振り向く。僕は手を離す。小柄な佐伯さんは切り揃えられた前髪の下、赤い眼鏡の奥の瞳を潤ませて黙って僕を見上げる。じっと僕の目をみて、言葉を待っている。今にも泣き出しそうな佐伯さんの顔を目の前にして、僕は照れと気恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら、なぜか踏ん反り返っていた。


「び、びっくりしたか。突然こんなこと。でも、それは、アレだぞ。さ、佐伯さんが可愛いのがいけないんだぞ。いつもニコニコして、ボディタッチとかも多いし、ず、ずるいぞ。好きになっちゃうだろ」


 そっぽを向きつつも、佐伯さんの顔をチラチラ見て、黙って聞いている佐伯さんの表情に、心を乱されながら、自分でも何を言い出してるのかわからない状態で、言葉を続ける。


「そ、それと高校時代から佐伯さんは僕が読書家だと思っていただろうけど、僕が小説を読むようになったのは、佐伯さんと仲良くなりたかったからなんだぞ。し、知らなかっただろ。わ、わはは。佐伯さんともっと話がしたいって思ったから本をいっぱい読んでたんだ。本を読むたびに佐伯さんに感想を言いたくて、僕の感想を聞いて佐伯さんが何を言うのかが楽しみだったんだ。どうだ? 笑っちゃうだろ。佐伯さんがまだ読んでない本を読むために古本屋を巡ったりしたし、家で読書をしてても、いつも佐伯さんのことを考えていた。だから、佐伯さんが小説を書いていて、それを読ませてくれたのも凄く嬉しかったし、えっと……、も、文句あるか?」


 体温が上昇してる。暑い。火照る。バカだ。なんで、威張ってるんだ。頭がオーバーヒートして、もうわけがわからない。くそ。かっこ悪い。喧嘩腰みたいな言葉を放って、本当にダメな男だ。


 だけど、僕の言葉を聞き終えた佐伯さんは、瞳を潤ませたまま「ふふっ」と微笑んだ。


「先輩はきっと言葉に頼り過ぎなんですよ」


 優しい声。心がむず痒い。


「そ、そうかもしれんな」開き直ってまたまた踏ん反り返る。

「小説の中だと、うまいこと告白シーンも描くことができたのだが、こうして実際に告白するというのは、その……て、照れるな」


 言うべきことは言ってしまい、ある意味では緊張も解けていた。もうアレだ。まな板の鯉だ。あとは佐伯さんの気持ち次第だ。くそ、もっとかっこよく告白したかった。いつも僕はダメだ。ダメ人間だ。ボンクラ野郎だ。


「じゃあ、そんな照れながらも愛を告白してくれた先輩に、佐伯から、お返事をしたいと思いますけど、いいですか?」


 佐伯さんは涙を溜めながらも、僕をちょっと小馬鹿にしたみたいに微笑んでいる気がする。くそ、もういい。フラれるならフラれてやるちくしょー。ヤケだ。


「お、おう。気にせずやってくれ。佐伯さんのことだ。素敵な小説のような綺麗な言葉のナイフで一思いにやってくれ」


 カチンコチンになり、心臓はバクバクで、もう何が何だかわからないけど、告白した以上返事は聞かねばならない。聞きたくないけど、聞かねば。眉間にしわを寄せ、目をつぶり腕を組む。


「死ぬんですか、先輩」と佐伯さんはくすくす笑う。


「死んだようなもんだ!」


 吐き捨てる。目をつぶり、耳をすます。一秒、二秒。怖い怖い。ああ、やっぱ告白なんてしなきゃよかった。ううう。


 永遠のような数秒。


 そして、ふわりと、そよ風が吹いたかと思うと、僕の頬に柔らかい何かが触れた。


 突然のことに驚き目を開けると僕の頬に唇を寄せた佐伯さんの横顔があった。


「……うぇ!?」


 飛び退く僕に佐伯さんはいたずらっぽく笑ってこう言った。


「言葉じゃなくても、愛って伝えられるんですよ。先輩」


 照れたように微笑む姿は、いつもより、もっと魅力的だった。


「っということは、えっと、つまり……なんだ」


 頭が混乱し慌てふためく僕の手を両手で包むように握ると、佐伯さんは小さな声で囁いた。


「私も先輩のことがずっと好きでした……」






 ☆ ★


 ……それから。


 わざわざ言わないでもわかると思うが。佐伯さんと僕は付き合うことになった。

 週に一回はデートをして、図書館に行ったり、漫画喫茶でダラダラしたり。


 大好きな女の子が隣でニコニコしている。

 それだけで僕は幸せだった。一緒に本屋さんに行ったり、映画館に行ったり。この世の春が来たのだ。恋は素晴らしい。


 季節は移り変わり、春が過ぎ、夏が訪れた。手を繋いで歩いた。公園でキスをした。その先は……、まだだったけど、佐伯さんの大学最後の夏休みには旅行に行く計画を立てた。人生はバラ色だ。


 その間、ライリーコンテストの結果が出た。僕は残念ながら入賞は果たせなかった。佐伯さんは残念がってくれたけど、隣に佐伯さんがいてくれるだけで僕は満足だった。僕はもう小説なんか書かなくたっていい。佐伯さんがそばにいてくれれば。


 佐伯さんはどんどん可愛くなった。それに、一生懸命に小説を書いては僕に進捗を報告してくれる。「先輩も何か書かないんですか?」と毎度聞かれるけど、曖昧に笑ってお茶を濁している。


 小説を書くのは気力、体力、想像力とメンタルもフィジカルも大変なのだ。


 今は小説をよりも、佐伯さんと愛の物語を紡いでいこうと思うのだ……。



 




 〜完〜








「……って、何をまとめに入ろうとしてるんだ! ぱおーーん!!!」


 窓ガラスをぶち破って、ヘンテコな奴が僕の部屋に飛び込んできた。


「うっわー!うわー! びっくりした!」


 突然、背後で窓ガラスが割れたので驚き飛びのく僕。


「びっくりしてんじゃないよ!ビガンゴだよ!」


 現れたのは見覚えのある象人間。長い鼻を天高く伸ばし、目を吊り上げた青い象人間。


「び、ビガンゴさん!? 」


 驚き飛びのき、とりあえずパンツを穿く。


「そうだよ、ビガンゴだよ!! バイトお疲れ様! 帰ってきてソッコーエロサイトってどういう神経? で、賢者タイムでキモいポエム? 引くわ! ドン引きだわ! ってかね、 君ね、充電期間だなんだって言ってたくせに、何を恋人を作っていちゃいちゃしてんだよ! 君は楽しいだろうけど、見てるこっちはそんなのちっとも面白くないんだよ。小説を書け! あと、早くそのエロ動画を消せ!」


 女性の桃色の裸体が映し出されていたPC画面をビシッと指さされて、僕は慌てた。


「ビガンゴさん。 なんなんですか? 突然!」


「なんなのもクソないよ!! 君はねぇ。ライリーコンの結果が出るまでは、インプットの時間に費やして、結果が出たら新しい小説を書くって言ってたじゃないか。もう夏になっちゃうよ! 何が『佐伯さんとの愛の物語を紡いでいこう……』だよ! 片腹痛いわ!!」


「は、恥ずかしい! 盗み聞きするなんてひどいや!」


「じゃかましい! 君は小説で商業デビューするのが目標じゃなかったのかい」


 にじり寄るビガンゴさん。ギランとタレ目サングラスの奥の瞳が光る。


「そ、そうでしたけど、佐伯さんとお付き合いも出来たし、とりあえず今は小説はいいかなぁって……」


「ぱおーーん!!!」


 ラッパでも鳴らしてるのかっていう咆哮。やめてやめて、夜中だよ! また隣の部屋の人に壁パンされちゃうって。


「小説を書かないというのなら、契約破棄と見做すよ?」


 僕を睨んだビガンゴさんが言う。


「……契約破棄とは? なんでしたっけ」


「おいおい、忘れているなよ。神様であるビガンゴとの約束を破るのなら、それ相応の罰を与えるということだよ」


「何ですかそれ! そんな約束してませんよ! 聞いてませんよ!」


「君と最初にあった夜に伝えたよ! まぁ君は随分と泥酔状態であったけどね」


「ぜ、全然記憶にありません!」


「そう言うと思って……」ごそごそと背中のあたりを弄ったビガンゴさんは一枚の紙を取り出した。


「ほら、見てごらん。契約書だ。ちゃんと君の名前が書いてあるだろう?」


 目の前に突きつけられたのは……まったくもって記憶にない書類だ。だが、確かに僕の名前と僕のものらしき指印がある。


「確かに僕の字だ……けど、泥酔状態の人に契約をさせるなんてずるいですよ! ビガンゴさん!」


「知らないよ! 別にビガンゴが飲ませたわけじゃないよ。初めから泥酔状態だったじゃないか。ともかく、契約は契約だ。小説を書かないのなら、君には人間を辞めてもらう」


 急にビガンゴさんの影が濃くなった。間抜けな見た目のビガンゴさんなのに、その身体から湧き上がる雰囲気が黒く重たい。闇のオーラを纏うようなビガンゴさん。


「わ、わけがわかんないですよ! 嫌ですよ」


 あわあわと後ずさりをするのだが、不思議な力に身体が支配されたように、僕の体は動かない……。


「空飛ぶ絨毯も、変身ベレー帽も、作家ナビサングラスも手に入れているから、君には無限煙管にでもなってもらおうかな……」


 ふふふ、と不気味な笑みを浮かべるビガンゴさん。なにそれ、突如のホラー展開。聞いてない、聞いてない。聞いてないよ!


「ちょっと! まったまった! うそ!うそ! まって、ビガンゴさん! 話を聞いて!」


 ありったけの声で叫ぶ。


「ちょうど今から書こうとしていたんですよ! ビガンゴさんたら嫌だなぁ、早とちりだなぁ。困ったさんなんだからぁ」


 引きつった笑いを浮かべて弁明する。ビガンゴさんは無表情のまま、


「……本当かい?」と訊いてくる。


「まじっす、まじっす。ほんとっす。さ、さぁ書くぞ、今度こそ書籍化目指して本気で書いちゃうぞ」


 冷や汗を垂らす僕をじっと見つめてから、ビガンゴさんは鼻で笑った。


「ふーん。なら良いんだよ、ビガンゴは。君が小説を書くことをやめないというなら、いくらでもアドバイスするからね」


 ビガンゴさんが指をパチン、と鳴らすと僕の体はふっと軽くなった。よ、よかった。ひとまずピンチは脱出だ。

 

「は、ははは。頼もしいですね。これからもよろしくお願いします」


 ビガンゴさんの恐ろしさを垣間見て、ドキドキである。


「ウンウン、ならまたこの部屋に厄介になるよ。さ、頑張って小説を書こう! 君ならできる! 小説家になろう!」


 ビガンゴさんは楽しげにそう言って「ぱおーん」とまた鳴いた。


「なにが、小説家になろう! だよ……」


「なにか言ったかい?」


「な、なんでもないです! 頑張ります! 頑張って小説家になります!」


 直立不動で答えると、ビガンゴさんは満足そうに頷いた。 



 せっかく、佐伯さんと恋人になれて、幸せな日々がまっていると思ったのに、当分、僕の生活はこの象に引っ掻き回されるみたいだ。憂鬱だ。これじゃ佐伯さんを僕の家に停めることもできないじゃないか。夏休みは僕の部屋であんなことやこんなことをしようと思っていたのに。がっくしだよ。


 泣きたい気分になりながら、割れた窓のガラスを片付ける。夏の訪れを予感させる夜風を浴びていると、スマホにメールが届いた。佐伯さんからだ。


『先輩っ! 外見てください。月が綺麗ですよ!』


 僕の状況などなにも知らぬ佐伯さんからの無邪気なメッセージ。なんとなく心が和む。ま、人生、悪いことばかりでもないし、頑張っていこうかな。


 そう思いながら、返信の文字を打ち込んだ。



『本当だ。死んでもいいくらい綺麗だな』と。







【小説家になろう!】 


 〜完〜

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【小説家になろう!】 ボンゴレ☆ビガンゴ @bigango

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