第3話 エイベルとアーデス

その時、家の戸が開いて誰かが出てくるのが見えた。その人物はメルとアーデスの存在に気がつくと、こちらに駆け寄ってきた。


 黒いローブをまとった生真面目そうな四十代ほどの男性だった。口元に蓄えられたヒゲは丁寧に手入れされており、どこか紳士的な男性でもある。


 あの人はもしかして、とメルが考えていると、アーデスが嬉しそうな声をあげた。


「ご主人様!」


 ご主人様。つまり、あの人物がこの日記帳の著者・エイベル・ドラモンドということになる。しかし彼はとっくの昔に亡くなっているはずだ。つまり今メルとアーデスの目の前に現れた彼もまた、魔法で作られた幻影なのだろうか。


「アーデス?」


 エイベルは自分を感極まった様子で見上げる灰色の猫を見て驚いたように足を止めた。


「アーデス、君なのか?本当に?ありえないはずだ……」


 エイベルはしばらく信じられないといった表情をしていたが、「そうか、そういうことか」とつぶやいて少し寂しそうな笑顔を浮かべた。


「アーデス、ありがとう。私に会いに来てくれて」


「ご主人様、ああ本当にあなたなのですね。もう一度会えてよかった。これは一体どういう魔法なのです?死んだはずのあなたとこうして言葉を交わせるなんて。」


 アーデスの最もな質問にエイベルは答える。


「私は死ぬ前、この日記帳に幻影の魔法と思念体の魔法をかけたんだ。幻影の魔法はその名の通りこうして幻を見せる魔法。そして、思念体の魔法は自分の思念の一部を物体に移す魔法だ。私は死ぬ前、不治の病にかかり、最後はろくに話すこともできなかった。死ぬ前に君に伝えたいことがたくさんあったのに。それが嫌で、死ぬ直前にこの日記帳に思念を一部移した。魔法で移された思念は、たとえその持ち主が死んでいても一度だけは、現世にいる相手とその思念体の持ち主である死者が会話する架け橋となる。だから私は、死ぬ前に伝えたかったことを伝える手段としてこれを君に残したんだよ。」


 エイベルはそこで一旦言葉を切ると、しゃがみこんでアーデスの頭を優しく撫でた。


「魔法を扱えるものがこの日記帳を手にした時に、私が生前かけた魔法が発動するように仕掛けておいたんだ。君がちゃんと見つけ出して触れてくれて良かった」


 それからエイベルは、メルの方へ目を向けた。


「ところでアーデス、このお方は?」


「ご主人様、彼女はメル・アボット様でございます。ご主人様の日記帳が保管されていたリヴレ王国王立図書館の図書館司書。彼女のおかげでわたくしはこうしてあなたの日記帳を探しあてることができました」


 アーデスの説明を受けると、エイベルはメルの元へ歩み寄り紳士的な動作でメルの手を取った。


「アボットくん。ありがとう。私とアーデスを引き会わせてくれて」


 エイベルの口調は心の底から感謝している人のそれであった。


「いや、私はそんな、大したことはしていませんよ。」


 あまり面と向かってお礼を言われた経験に乏しいメルは、恥ずかしそうに俯く。


「いえいえ、そんなことはございませんよ。アボット様。私はあなたのおかげで、安心して次の生へ飛ぶことができる。」


「え?」


 アーデスの意味深な言葉に、メルはハッと顔を上げる。


「どういう意味ですか?次の生とは」


「我らマギーシャは九つの命を持ちます。つまり我らは死してのちも必ず8回までは前世と同じ自分の体で生まれかわり、また人生を歩むのです。しかし残念なことに、前世の記憶は引き継がれない。大昔のマギーシャは前世の記憶も引き継いでいたようですが、魔力の薄れた今日のマギーシャでは、記憶までは受け継ぐことができないのです。つまりこのまま天へ行ってしまえば、わたくしはご主人様のことを知らない自分となって生き返ってしまう。ご主人様の最期を見届けるまでは、そしてわたくしに残してくれた日記を読むまでは、次の生へ行くことなどできなかったのです」


「じゃあ、あなたは。あなたもすでに、死んでいるの?」


 メルは驚きを隠せずに少しかすれた声で目の前の猫に問うた。アーデスは頷く。


「はい。今のわたくしは霊体にございます。」


 メルは深呼吸すると、アーデスとこれまで交わした会話を思い出しながら気になる箇所を重ねて尋ねた。


「でも、あなたはご主人が亡くなってから魔力猫マギーシャの里へ戻ったと言っていたわ。それから何年か経ってからご主人のご子息から日記が残っていることを知ったって」


「ええ。その通りです。しかし、わたくしは全てをあなたに語ってはいませんでした」


 そう言うと、アーデスは長くなりますがと先に断りを入れて、滔々と語り出した。


「わたくしは、ご主人様よりもほんのわずか先に死にました。そして未練を残したまま次の生へ歩むのが嫌だったわたくしは、霊体のままこの世にとどまりご主人様の死を見届けたのです。その時すでにご主人様がわたくしのために日記帳を残しておいてくれていたのは知っていました。しかし、わたくしが先に死んでしまった。その日記帳も葬儀の間にどこかへ行ってしまい、わたくしは方々を探しました。でも見つからなかった。悲嘆に暮れたわたくしは霊体のまま魔力猫マギーシャの里へ戻りました。せめて、ご主人様がわたくしに残してくれた日記帳だけはこの目で見たかった。それから長い年月を、次の生への歩みを拒絶しながら、霊体のままぼんやりと過ごしていました。どれだけの月日を経たかもわからなくなった頃です。霊体が見えるマギーシャと出会ったのは。その者に言われたのです。もう次への生を拒絶し続けるのも限界だと。

 その言葉で、もうダラダラと霊体のまま現世に留まり続けられないと悟ったわたくしは、ならばその時が来るまでにご主人様の日記を何が何でも探してやろうと思い立ったのです。そうしてわたくしは久しぶりにご主人様と過ごした家に立ち寄った。そこにはご主人様の子供の子供の子供……くらいの世代の人が暮らしていました。その中でたまたまわたくしが見えたものが教えてくれたのです。曽祖父の日記帳は残っていると。それから十年かけてようやく今日見つけたのです。しかしまさか、あのマギーシャにもう限界だと言われて十年保つとは思いませんでした。あのマギーシャが見誤ったのか、もしくはわたくしが頑張ったからかはわかりませんが。しかし、それでも霊体のままこの世に留まり続けるのも最近ではきつくなっていたのは事実です。本当に限界がくるまでに、この図書館にたどり着き、さらにわたくしが見える図書館司書がいたことは素晴らしき幸運であります。きっとわたくし一人ではこの膨大な書物の中からご主人様の日記帳を探し出すのは非常な困難を極めたことでしょう。だからわたくしは、あなたに感謝してもしきれないのです」

 

 アーデスは語り終えると、メルの足元へ猫らしくすり寄ってきた。メルはしゃがんでアーデスの顎の下を撫でてやる。するとアーデスは気持ちよさそうに目を細めてゴロゴロと喉を鳴らした。その手触りは生きた猫そのもので、霊体とは思えない。


「それではアボット様、少し失礼いたします」


 満足するまでメルに撫でられてから、アーデスは小さく会釈するとエイベルの元へ駆け寄っていった。アーデスはエイベルの腕にぴょんと飛び乗る。


 ここからは魔法使いと使い魔の時間だと思い、メルは邪魔しないように少しその場から離れた。

 

 エイベルとアーデスが会話する様は、仲良き無二の親友のようだった。単なる魔法使いと使い魔の関係を超えた友情がそこにはあった。二人が最期のひと時をどんな言葉を交わし合ったのかまではメルにはわからない。だが、きっと生前伝えられなかったこと、話し足りなかったことを言葉に変えて互いに紡ぎあっているのだろう。メルは遠くからその光景を眺めながら、彼らがいつまでもああしていられたら良いのにと思った。だが、時は永遠ではない。


 やがて、強い風が吹いて草原を彩っていた花の花弁が空へ舞い散った。それらはメルの視界を覆い尽くす。メルはあまりの花弁の量に思わず目を閉じた。そして次に目を開けた時には、そこは夕暮れの色に染まる日差しが窓から差し込む書庫に変貌していた。いや、変貌したというよりは、元の場所にメルが戻ったというべきか。そして、メルの足元には開いたままになっている日記帳と、その日記帳を見つめるアーデスの姿があった。


「アーデス?」


 メルが名を呼ぶと、アーデスはハッとした様子で顔を上げた。


「あなた、体が」


 今アーデスの体は淡い光を放っていた。心なしか透けているようにも見える。アーデスはそんな自分の体をまじまじと眺めると、微笑んだ。


「アボット様。わたくしはもう行かねばならないようです。次の生を歩む時は、きっとあなたのことも覚えてはいないでしょう。しかしまたいつか、出会う時があったならば、その時はどうかわたくしに声をかけてください。前のあなたを知っていると言ってくだされば、わたくしは喜んであなたの友になりましょう」


 その言葉を最後に残し、アーデスの体は光に包まれて消えていった。メルはしばらくその場に立ちすくんでいたが、開きっぱなしになった日記帳をそっと拾い上げた。


 パラパラと日記帳をめくっていくと、最後のページにエイベルの描いたものと思われるアーデスの絵があった。さらにその下には「先に逝った友に贈る」という文字が記されている。

 

 どういう流れを経て、この日記帳がこの図書館に流れ着いたのかは、きっとこの日記帳だけが知っている。長い年月を経てようやく役目を果たし終えた日記帳は、なんだか誇らしげに見えた。


 メルは日記帳を閉じてから表紙についた埃をサッと払うと、元あった場所に日記帳を戻した。それから受付係の仕事を随分サボっていたことに気がついて、足早にその場を立ち去っていった。

 



 

 

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図書館司書メル・アボットと喋る猫 藤咲メア @kiki33

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