祖母の死と江戸川乱歩賞最終選考
4月になってすぐ、老人ホームから連絡が来た。祖母が熱を出し、なかなか下がらないという。
これまでにも何度かそういうことがあったので、最初はあまり深刻に考えていなかった。しかし、一週間経っても一向に下がる気配はなく、食欲もなくなっていると報告が来た。
不安なまま4月8日を迎えた。
その日は外出の用事があった。帰ってきてX(ツイッター)で乱歩賞と検索してみると、川瀬七緖さんが「今日は江戸川乱歩賞の予選会です」とつぶやいていた。
乱歩賞は一次、二次と順番に発表せず、最終候補作と同時に予選通過者が公開される。なのでいきなり電話待機になるのだ。
ここ数年、乱歩賞の予選会は4月の第二木曜日だったので今年は11日だろうと予想していた。今回はだいぶ早い。そわそわした気分で待っていると、夜7時過ぎに電話が鳴った。
僕の「陽だまりのままでいて」が江戸川乱歩賞の最終候補作に選ばれた、という電話であった。
すぐ母と弟に報告すると、僕より派手に喜んでいた。
これでカクヨムのコンテストを除けば最終候補は5回目。しかし過去、最終選考では酷評気味の選評ばかり書かれている。思ったほどにはテンションが上がらなかった。
週末になると書類が送られてきた。二重投稿はしていないという誓約書やその他諸々の文章を書いて返送する。そこでようやく実感が湧いてきた。
だが、その翌日になってまた老人ホームから電話があって高揚感は消え失せた。
祖母がほとんど話せない状態になってしまったという。
感染対策をしているので一度に二人までしか面会に行けない。母と親戚のおじさん(母の弟)、僕と弟で別れて面会に行った。
普段の面会は基本的に母だけが行っていたので、祖母に会うのは久しぶりだった。元から小柄だったが、子供のように小さくなっていた。一方で顔にしわやシミはなく、綺麗なものだった。
ぼうっとしている祖母に呼びかけたが、返事はもはや何を言っているのかわからない。必死でしゃべろうとしている姿があまりに痛々しく、僕は思わず泣いてしまった。ようやく聞き取れた言葉は「先生、すみませんねえ」というもので、どうも僕と弟を医師と勘違いしているようだった。
これは老衰。だから、診療所の先生に診てもらうことしかできない。母はそういう判断を受け入れた。
そして4月14日。
もう人数制限はかけないから、みんなで見守ってあげてくださいと言われた。日中は親戚のおじさんを含めた四人で祖母のベッドを囲み、励ましの言葉をかけた。祖母はずっと眠っている。もう声なんて届いていないのかもしれない。それでも呼びかけ続けた。
昼になっていったん帰り、落ち着かない気分で午後を過ごした。夕方、母が老人ホームに電話をかけると、変化なしの返事があった。
祖母は頑丈な人だった。あの人がそう簡単に死ぬはずがない。なんだかんだで持ち直すはずだ。
そう思って寝る準備を始めた、午後10時20分頃のこと。
老人ホームから、「呼吸が止まりかけている」と電話が来た。
僕たちは大慌てで着替えて車に飛び乗った。
老人ホームへ駆け込むと、祖母は昏々と眠っており、数十秒に一回、「はっ」と思い出したように息を吐くということを繰り返した。
このエッセイで書いた通り、僕たちは認知症に苦しめられてきた。祖母に消えてほしいと思ったこともある。だが、簡単に整理できる問題ではない。
この世にいるのといないのではまったく違うのだ。
じりじりとした時間が過ぎていった。
次の呼吸を待っていたが、祖母はいつまで経っても息を吐かなかった。
もう少し待った。何も変わらない。
「介護士さん呼んでくる」
母が部屋を出ていき、介護士さんを連れてきた。その人は祖母の手首で脈を取ったあと、もう一人別の介護士さんを呼んできた。
二人は、祖母の手首と首筋にそれぞれ指を当てた。
「22時48分、心肺停止を確認」
その言葉が静かに告げられた。
僕たちが到着してから10分もしないうちの出来事だった。
その直前から僕はもうボロボロ泣いていたのだが、ますます涙が止まらなくなった。
「ばあちゃん、みんな来るまで待っててくれたんだねえ」
母が穏やかに言うものだから、感情がぐちゃぐちゃになってしゃがんだまま立ち上がることもできなかった。
長い介護生活は苦しかった。しかし、あの時間があったからこそ喪失感が膨れ上がる。昔は本当に仲のいい家族だった。一緒に笑って食卓を囲んでいた思い出も遠い昔になってしまった。
翌日、葬儀社の協力を得て祖母は家に帰ってきた。
本当に小さい体で、敷いた布団の半分くらいしか埋まらなかった。
93歳。きょうだいや同級生は大半が先に旅立っており、呼べる人がほとんどいない。なので近親者のみで葬儀を行い、大きな会場は使わないことになった。
母と親戚のおじさん主導で手続きは進められていった。
自宅での葬儀になるので、先に告別式をして、そのあと火葬する流れだ。
僕と弟はお寺へ住職を迎えに行き、通夜、葬儀の席でお経を上げてもらった。この時、住職が「口の中が乾くから」という理由でお経を上げながらアメの包みをバリバリ破き、口に入れたのは参加者の中で悪い意味で話題になった。
亡くなった夜から3日後、告別式が終わると出棺になった。棺もやっぱりだいぶ余裕があった。
斎場で最後の見送りをして、祖母の体は炉の中へ消えていった。
出てきた骨はとても細く、少なかった。
僕は3年前、この斎場で父の火葬にも立ち合っている。それだけに、祖母がどれだけ小さかったかを実感した。
しばらくは一日朝夕、遺影と骨箱の置かれた祭壇に向かって手を合わせた。
あんなに喧嘩をしていたのに、態度を変えたみたいで落ち着かない気分ではあった。しかし生前のことを引きずっても、もうどうにもならないのだ。
慌ただしく時間が過ぎていき、4月25日になった。
江戸川乱歩賞の最終候補作が公式発表される日だ。電話で6作残ったことは聞いていたが、誰がとは聞いていない。
発表されて即名前を確認した。
同時に、三次選考で落ちた作品の講評も読む。
一番上の講評が作者のペンネームを批判しており、見た瞬間に「あっ、これ燃えそう」と思った。
そしたら予想以上に炎上してしまった。
せっかく最終選考に残れたのに、嬉しさはたちまち消えた。飛び火を恐れてビクビクしていたくらいだ。
同時に職場の冬季休業も終わり、シーズンが始まった。
僕は去年の体調悪化を理由に、今年は出勤日数を減らしてもらっている。それでもゴールデンウィークはどうしても手が足りず、大連勤することに。まあ、選考会の5月9日までは仕事をして雑念を追い払っていた方がいい。
と、働きつつも3月に書いた中華風連作ミステリ「
乱歩賞に出した作品には自信がある。あるが、もし落ちた時のことを考えたらリカバリーできる態勢は作っておかなければならない。
今年の乱歩賞最終選考会は例年より早い。そのおかげで、5月10日締め切りである日本ミステリー文学大賞新人賞の締め切り前に結果が判明するのだ。
最終結果待ち状態で応募するのはなあ……と思っていただけにこのスケジュールは非常にありがたい。乱歩賞を獲れたらこれを受賞第一作とすればいいので、推敲も無駄にはならない。
「月鶴楼殺人事件」は非常にシンプルなタイトルだが、最後まで読むとこのタイトル以外ありえないということがわかるようになっている、はずだ。
ゴールデンウィーク連勤中も推敲を続けたが、選考会が迫ってくるとさすがに集中できなくなった。
5月9日。運命の日。
仕事は休みだった。読書でもしようかと思ったものの、そわそわして何も手につかない。諦めて昼寝をしながら夕方を待った。
選考会の終了予定は午後6時頃で、当落に関係なく電話が来る。
そのはずだったのだが、まったく電話が鳴らなかった。
まあ、今年は6作で選考委員も7人だから長引くよな。頭では理解しているが早く結果が知りたくて仕方がない。
落ち着かないまま待ち続けると、7時を過ぎた頃に電話が鳴った。
――来たっ! と、すさかず受ける。
相手はこちらの名前を確認したあと、言った。
「わたくし、江戸川乱歩賞事務局の者でございます」
その言葉を聞いた瞬間、続きを待たずして落ちたことを悟った。
受賞したなら、僕は仕事相手になるのだ。だったら個人名を名乗るはず。名乗らないのはそういうことだ――と勝手に決めつけていた。
予想通り相手は「いま選考会が終了いたしまして、雨地さんの「陽だまりのままでいて」は残念ながら落選となってしまいました」と申し訳なさそうに告げた。
「そうですか……」と答える以外になかった。
6月の『小説現代』に選評が載るから、評価はそこで確認してほしいと言われ、僕は了承した。
短い通話が終わると、僕はこたつの向こうにいた弟に「終わったわ」とだけ言った。母は夕方からの仕事に出ていて不在だった。弟は「マジかあ。珍しく自信満々だったのにな……」と見るからに落ち込んでいた。
だが、僕に落ち込んでいる暇はない。
すぐにパソコンを起動し、「月鶴楼殺人事件」の最終チェックを開始した。日本ミステリー文学大賞新人賞の締め切りは明日。今日のうちに応募してしまえ。
そう思ったのだが、重要人物の背景描写が手薄に思えて、加筆に時間を取られた。あれこれ迷っていたら夜の11時。
受賞していたら明日は東京で記者会見だったのになあ。それがなくなり、いつも通り出勤しなければならない。僕は朝に弱いから0時前に寝ないと翌日の不調がひどいことになる。
応募は締め切り当日にする。割り切って寝た。
そして仕事へ行き、職場で乱歩賞の結果を確認した。2作受賞と知ってわりと納得した。70回記念だし景気よく出すのではないかと思ったのだ。余談だが同じ日に本格ミステリ大賞が発表され、非常に面白く刺激的だった青崎有吾さんの『地雷グリコ』が受賞したことはとても嬉しかった。
帰ってくると先に入浴と夕食を済ませ、午後6時半から最後の推敲に取りかかった。
仕事中に思い出したことがある。前回の日ミスの選評で湊かなえさんが、ある候補作に対して「読者の想像に委ねるにも、想像を促す最低限のエピソードが必要です」と書かれていた。僕の作品も同じミスを犯している気がしたのだ。
それを帰ってくるまでに頭の中で整理した。説明だけで飛ばしていた出来事をちゃんとエピソードとして書いて、その人物の性格に説得力が出るよう直した。
そんなことをしていたら午後9時を回ってしまった。
あらすじは先に用意しておいたので、応募要項に違反していないか何度も確認して、どうにかWeb応募することに成功した。
日ミスへのリカバリーまで含めて、ようやく乱歩賞の戦いが終わったという気がした。
祖母の容態悪化から始まった4月。乱歩賞、日ミスと戦った5月上旬。
これだけの出来事が1ヶ月半のあいだに起きたのだから、本当にくたびれてしまった。
でも、少し休んだらまた小説を書くだろう。
ストックも1本残っているし、その応募先も探す。
創作の火が燃え尽きることはない。
しかし、またこのエッセイの完結が先延ばしになってしまったのはつくづく残念である。
とある作家志望者が七転八倒しながらデビューを目指す話 雨地草太郎 @amachi
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