余章

11

 ただ今、帰りました。霊廟の天井に、若い女の声が反響する。

 応える者はない。が、受け止めるものはある。戸口の正面に鎮座する石碑と、左右に配置された一対の墓標。いずれも手入れが行き届き、花も供えられて、誰かの詣でた痕跡があった。

 ここに来るのは初めてではない。都へ上るたびに訪れて、二つの墓に祈りを捧げてきた。母の墓は入り口の左側のほうだが、必ず右側の墓にも手を合わせるようにと教えられている。

 両側に祈り終えて立ち上がった女は、目も冴えるような真紅の上衣うえぎぬと袴を身につけ、やはり紅いこしらえの剣を腰に帯びている。結い上げたまっすぐな黒髪、背筋の伸びた姿勢。身長は平均よりもやや高めという程度だが、細く引きしまった体つきは凛として力強い。

 帰りました、と女は言ったが、この御殿で暮らしていたのは二十年の人生のうち、最初の一年だけだ。もちろん記憶にあるはずもない。

 それでも彼女の心には、在るべき場所に戻ってきたという自覚がある。血筋ゆえか、幼いころからの暗示のためかはわからない。が、胸の奥にふつふつと懐かしさが湧いてくるのは、紛れもない真実だった。

「こちらにおいででしたか」

 開いたままの戸口から、一人の若者が顔を出した。鍛え上げられた長身に、温和な面立ち。儀式用の盛装に、腰に差した剣装の鉄納戸てつなんど色が映える。

「ここも一応は奥御殿の敷地内だ、男子禁制のはずだぞ」

「ええ、でも、誰にも止められませんでしたよ」

「肝心の王妃が長らく不在なれば、禁の緩むも道理か。まあ、せっかくだ。そなたの父の名の刻まれたいしぶみを拝んでいけ」

「それはまた後ほど。大広間に宮臣一同がおそろいで、貴女をお待ちしています。お急ぎください」

「せわしきことよ。亡き母へ挨拶をする暇すら許されぬとは」

 女は少しばかり皮肉な笑みを浮かべて振り返り、相手の肩を景気よくたたいた。

「何ゆえそなたが、さように緊張した顔をしている?」

「むしろご当人が、どうしてそんなに余裕綽々でいらっしゃるのかがわかりません」

「わたしには父がついている。こうして、亡母ははも見守ってくれている。何を恐れることがあろう」

 本当に余裕があるなら、今あえて独り、霊廟を訪れたりするものか──などと、女は言わない。代わりに若者の青ざめた顔をまっすぐに見つめ、

「それに、そなたもいてくれるしな」

「は……」

 不意を突かれた若者が返答に困るのを見て、声を出して笑う。それからにわかに表情を改め、

「では、参るか」

 切れ長の眼に、鋭い光がひらめく。

「わたしの選んだ道を」

 若い二人は顔を見合わせると、もはや言葉を交わすことなく、確かな足取りで廟を後にした。扉が静かに閉ざされ、向かい合う墓と石碑と、窓から差しこむ白い光だけが残る。

 この日、山峡国やまかいのくにに、史上初の女王が誕生する。


 *


(父の後見があったとは言え、若い娘が王位に就き、まずまず平穏な一時代を築いたことは、山峡の歴史に一線を画する出来事だったはずだ。

 にもかかわらず、その母──『紅鷹君伝』の中では実母ではなかったとされているが──のほうが後世に広く名を知られ、幻の女王と称されるに至ったのは、果たしてこの書物の流布だけが理由だろうか。

 ほぼ時を同じくして各地に出現した、彼女にまつわる伝承の数々は、何を意味するか。たとえば北湖国きたうみのくに南西部に位置する山中の、という地名。美浜国みはまのくにの旧都の一角、焼失した屋敷跡に建てられた供養塔。あるいは群島国むらしまのくにのある島の祠に納められた、一房の毛髪。

 いずれも信憑性の薄い民間伝承だと、歴史家は一蹴する。彼女は生まれ育った盆地から一歩も外へ出たことがなかったのだから、と。だが真偽はともかく、人々があえていくつもの逸話を語り継いだ以上は、そうさせるだけの何かがあったのだと見るべきではないか。

 そのは、おそらく、この荒唐無稽な伝記風の物語にも通底していた。だからこそ長い時をかけて多くの写本が生み出され、そのたびに加筆され、各地の伝承と混じり合っていった。

 今となってはどこまでが原著者の筆によるものか判別できない──いっそ、彼女に魅せられたすべての人々が作者であり、語り部であったと考えるほかなさそうだ。)


 *


「その曲」

 軽やかな笛の音にふと懐かしさを覚えて、わたしは窓の外へ問いかける。小春の木漏れ日の中、切り株に腰かけた男は笛の吹き口から唇を離した。

「何という題名だったかしら?」

つばくろのうた」

「ああ、そう、山の国の童謡ね。姫君のお気に入りだった」

「そんな話は知らないな」

「あら、あなたから教わったのだとばかり思っていたけれど。誰に聞いたのだったかしら」

 男は苦笑しただけで、何も言わなかった。

 本当は、誰に聞いたわけでもないのかもしれない。片田舎に隠れ住む未亡人に、来客などほとんどありはしないのだから。唯一の話し相手であるこの幼なじみにしても、とうの昔に忍びの稼業を離れ、もう遠国の情報を運んでくれることはない。

 とすれば、また自分で作り出した妄想だろうか。近ごろは夢で見た出来事と想像した物語とが現実の記憶を浸食して、区別が難しい。

「でも、もう大丈夫……」

 つぶやきながら振り向けば、室内は書き散らした紙が散乱して足の踏み場もない。わたしは幾日、この部屋にこもっていたのだろう。前に食事をしたのがいつなのかも覚えていない。ただ書きながら夢を見て、夢の中でも書き続けていた。

「全部、終わったわ」

 急に身体がだるくなって、窓枠にもたれかかる。すぐに男が駆け寄ってきて窓越しに手を差し伸べ、耳元で名を呼んだ。

「ねえ、もう一度聴かせて。燕のうた」

「後でな。今は少し休め」

「聴きながら休むから。ね」

 男の手を押し返し、壁際の長椅子へ腰を下ろすと、目顔で再度促した。わたしの頼みごとを、彼が聞いてくれなかったためしはない。渋い顔をしながらも、また木笛に唇をあてがう。

 やがて先ほどよりも少し速度を緩めた優しい調べが、窓から部屋へ流れこんできた。子守唄を聴いているような気分だ。わたしは長椅子に身を横たえ、目を閉じる。

──本当は一つだけ、書き落とした場面があるけれど。

 真紅の衣をまとった女の、あまりにも清々しい笑顔が、まぶたの裏に浮かぶ。背景には抜けるような青空と、切り立った崖と。

 繰り返し夢に見ながら、どうしても筆が動かず、文章にできなかった光景。

「あの人、鳥になったの……」

 筆胼胝ふでだこのできた指で胸元を探り、二つの珊瑚を強く握りしめる。けれど、どんなに力をこめてみても、もう痛みは感じなかった。


 *


(物語が執筆された時期、原著者は不遇な晩年を送っていたとされている。

 大国の将軍の妻ゆえに保証されていた豊かな暮らしは、地震を機に崩壊した。夫の主君である王太子が失脚したためだ。圧倒的な求心力はひとたび歯車が狂えば苛烈な斥力に転じて、人心の離反は止まるところを知らず、ついに王位を継ぐことなく三十代の若さで急死する。一説には、政権奪還をもくろむ父王の命により暗殺されたとも言われている。

 著者の夫は主君に殉じ、一族は滅亡の道をたどった。ただ彼女はその少し前に離縁されていたため、赦されて独り田舎へ落ち延びたらしい。

 彼女は失意と孤独の日々の慰めに──というのは憶測に過ぎないが──後に『紅鷹君伝』の母体となる一連の草稿を書き上げる。それがいかなる経緯で書物となって世に出たのかについては、定かではない。

 定か、と言えそうな後日談を、代わりにいくつか述べておこう。山峡の人々のその後について、ごく簡単に。

 アモイ・ライキは王位に就いた娘を陰日向に支え続けて生を全うし、没後は「王ならざる名君」として偉人伝に名を連ねる。ウリュウ・アルハは即位後にテシカガ・シウロ二世を婿に迎えたが子には恵まれず、二十年余りの在位の後、従甥いとこおいに王座を譲る。すなわちウリュウ・ルカの息子、ハルの孫である。

 美貌の騎士タカス・ルイは四十過ぎで妻に先立たれた後も再婚はせず、死ぬまで独身を貫いた。それが時を超えて多くの女性から支持を集め、しまいには歌劇の主人公に取り上げられるに至る。裸一貫から大将軍に登りつめたバンケイもまた時代物の舞台になじみの人物となるが、こちらは通俗的で男くさい大衆芝居ばかりで、客層は随分と異なるようだ。

 隻眼宰相の異名で知られるムカワ・フモンは、結局、隠居の機会を逸した。女王が即位すると都へ同行して宮臣に加わり、晩年には国の重鎮として畏怖される存在となる。彼が愛用していたという片眼鏡は家宝として子孫に受け継がれたが、後の世の戦乱に紛れて失われてしまった。

 ユウは──残念ながら、歴史文献に記述は見えない。その名が登場するのは『紅鷹君伝』と一部の民間伝承だけで、実在したのかどうかさえ疑わしいと見られている。

 もちろん、歴史に名を残さなかったからと言って、存在しなかったなどと決めつけられるはずはない。この世に起こった出来事のうち史実として伝えられるのは、あるいは伝えるべきだと認められるのは、ほんのわずかな表層の一部分に過ぎないのだから。

 そうして歴史が口を閉ざすときこそ、物語は高らかに声をあげるのだ。たとえば、こんなふうに。)


 *


 空とまったく同じ色をした湖面に、光の破片が踊る。桟橋の脚には緩やかなさざ波が寄せて、釣り糸を音もなく揺らしていた。

「しかし、見事に再建したものだな」

 釣り人の背後から、聞き覚えのある男の声がする。

「あれほど徹底的にやられたというのに、もう、かつての鏡の都そのものだ」

 独り言ではない、と、最初からわかっている。ここは物見遊山の旅人が立ち寄るような場所ではない。しじみ取りの漁師が舟を出すための桟橋で、かつ今は漁期でもなく、釣り人ただ一人きりの閑散とした湖岸だった。

 しかし向こう岸に目をやれば、なるほど打って変わって絢爛な都の姿が見える。白い壁や光る屋根の連なる街並みが水鏡に映って、なおさら壮観だ。

「で、親爺。ここじゃ何が釣れるんだ?」

 問いかけられても釣り人は振り返らず、竿をひょいと持ち上げて、水中から鉤針を引き寄せる。付けていた餌は、かなり前から無くなっていた。

「ここいらで釣れるって言ったら、ふなか、ますか。時々は、珍しいもんに出くわすこともありやすがね」

「へえ、たとえば?」

「苗字だけあって、名前のない男とかね」

 左隣に座った男の顔を、ようやく横目に見やる。相手は痩せた頬を歪めて、にやりと笑った。

「とんとお見かけしやせんでしたねえ。もうこの世にはおられないもんかと思ってやした」

「まあ、いないと言えば、ずっと昔からいないようなものだがな。そっちはどうなんだ、儲かってるのか」

「どうもこうも。戦好きなどこぞの若殿さまが死んじまったおかげで、商売上がったりでさあ。何しろ貝殻は、不穏なときこそ売れるもんですから。気前のいいお得意さんももういねえし、そろそろ潮時かと思ってやしてね」

「何だ、廃業するのか」

「この不況に、可愛い甥っ子の商売敵になるってのも気が進みやせんしねえ」

「ああ、例の甥っ子。商売を始めたのか」

「まだ駆け出しですけどね」

 餌を付け直した針を水に放りながら、釣り人はさほど困っているふうでもなく言う。

「で、今日は? 随分と重そうな荷物をお持ちのようですが」

「これか」

 傍らに置いた四角い布包みを見て、男は答える。

「原稿だ。北湖こっちには、いい書肆があるんだろ」

「本でも作ろうってんですか。そんなの美浜にだって、いくらでもあるでしょうに」

「鏡の都の職人のほうが、腕が立つんだとさ」

「作家先生のご要望ってわけで」

「そういうことだ。いい貝はあるか?」

 釣り人は竿を置いて、脇に置いた自分の荷物へ手を伸ばす。年季の入った木箱の引き出しを開けると、中身は緩衝材の紙屑ばかりだ。それでも奥をまさぐって、小さな黒い粒をいくつか取り出す。厚い手のひらの上に載せて品を吟味し、欠けのあるものを無造作に湖面へ投げ捨てた。

「もう売れ残りなんで、お代は結構。こんなんでよけりゃ、持ってってくんなせえ」

 小ぶりな蜆の貝殻が三つほど、男の手の上へぱらぱらと落ちた。

「新市街の真ん中の広場から、北に延びる大通り沿いに二軒、その突き当たりを右に曲がったところにもう一軒。三つとも看板は小せえが、半端な大手よりいい仕事をするって評判でさ」

「北の大通りだな」

「何しろその量ですからねえ、すんなり受けてくれるかはわかりやせんが」

「交渉するさ」

「だけど、一体、何の本なんです」

「読んでみるか」

「いやあ、あっしゃ字が読めないんで」

「そいつは初耳だな」

「自慢するようなことでもありやせんからね」

 鍔の広い帽子の下で、年齢不詳の顔が曖昧に笑う。男は貝殻を懐にしまいながら、相手の表情を探るように見た。

「商売やめて、これからどうするんだ。群島くにに帰るのか」

「今さら帰ってもねえ。一つところにじっとしてるってのも性に合わねえし、体の動くうちは旅暮らしですかねえ」

「だったら、手伝ってくれよ。もののついでに」

「何をです?」

「本が出来たら、あちこちに配って歩かなきゃならないんだ。北湖、山峡、群島、もちろん美浜でも」

「それも作家先生のご注文で?」

「旅をしてみたいんだとさ。人でいる間は、ずっと閉じこもってばかりだったからって」

「するってぇと何ですか、先生、今はもう人じゃないんで」

「ああ、今はこの中に」

 傍らの布包みを、男の指先が軽く弾く。降り注ぐ陽射しの中に、白い埃がふわりと舞い上がった。

「文字になっちまったよ。おまえさんの読めない文字にな」

 桟橋の上に立ち上がった男の、対岸の都を遠く眺めるその横顔を、釣り人は盗み見る。

「……手伝うのはかまいやせんがね。もののついでですし」

 独り言じみた返事を受けて、男は小さく頷く。それからふと思い直したように、

「やっぱり、いくらか払うよ。貝殻の代金」

「はあ。そうおっしゃるなら、強いてお断りはしやせんが。じゃ、一曲、お願いしやしょう」

「曲?」

「お代の代わりに、その笛で、一曲。何かお願いしやすよ」

 男の腰帯に差してある、革袋に包まれた棒状のものを指さして、釣り人は言った。

 まもなくして、平らかな水面を滑るように、軽快な旋律が流れ始める。山峡の国の童謡だ。鳥になった女が、幼いときに好んだ歌。文字になった女が、人生の終わりに求めた歌。

 薄い傷痕のある頬を膨らませながら笛を吹く男も、水面の波紋をぼんやりと眺めながら聴く釣り人も、決して歴史に名を残すことはない。だからこそ、わたしたちの物語を託すのにふさわしい、かもしれない。

 真一文字に翼を広げた大鳥の影が、湖面を音もなく行き過ぎる。二人は見上げようともしない。ましてや、雄か雌か問うこともない。とは言え、彼らに確かめてもらうまでもなく、わたしにはわかっている。

 だってわたしは、この物語の作者だもの。そして主人公は──。

 男の胸元に、二つのいびつな珊瑚が揺れる。その奥に、赤い光がほのかに灯った。


-完-

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紅鷹の伝記 二条千河 @nijocenka

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