10-5

 かん、と硬い音が蝉の声に交じって、昼下がりの松の庭に響き渡る。木刀が木刀を打ち返し、向かい合う二人の間には緊迫の空隙が生まれる。

 じりじりと間合いを保ちつつ、宙を滑るように動く切っ先──。腕組みをしながら見ていたアモイは目をみはり、わずかに身を乗り出した。

 格子窓の向こうで手合わせをする二人のうち、一方は身長の割に肩幅の狭い、色白の少年だ。歳は十二、頬にはまだあどけなさが残るが、繊細で整った面立ちをしている。

 アモイがその太刀筋に注視しているのは、もう一方の少女のほうだ。こちらも同年代の、しかし相手より大人びた印象の容貌。大きく切れたまなじりと秀でた鼻梁、一つに束ねた黒髪はその気性を示すかのようにまっすぐだ。

 大鳥の家紋の刺繍された白い胴着が、刹那、風をはらむ。眼前に迫った切っ先を危うくかわして体勢を崩した少年の頭上に、少女の木刀が振り下ろされ──。

「そこまで!」

 二人の試合を見守っていた女師匠が、声を張り上げた。

「はぁー、参りました!」

 地面に尻餅をついた少年が、真剣な眼差しから一転して爽やかに言い放ち、俊敏に立ち上がる。少女のほうは寸止めした木刀を納めて対戦相手と差し向かい、姿勢正しく礼を交わした。

 やや離れたところで、盛大な拍手の音が鳴る。

「アルハ、すごいねえ、かっこいいねえ。まるでねえさまみたいだ」

「しーっ、駄目よ、父上。まだ稽古は終わっていないのだから、静かにしていないと」

 はしゃいでいるのは、東原とうげんから遊びに来ているハル。それをたしなめるウララそっくりの口調は、ルカの声だ。

 応援席の父娘を振り返り、少年少女は屈託のない笑いを浮かべた。しかし師匠が歩み寄ってくると、すぐに表情を引きしめる。自分たちよりも小柄で童顔の女師匠が、そんなに怖いのだろうか。アモイの目に映るユウは、いくつになってもじゃじゃ馬娘の印象が抜けない。

 師弟は手合わせの反省を始める。亡父とは比べものにならない腕前ながら、ここぞという場面での思いきりが足りず、機を逃したシュロことテシカガ・シウロ二世。強気の攻めで勝ちこそしたものの、ところどころで守りの甘さの目立つアルハ。ユウは手本を見せながら、それぞれの直すべき点を的確に指摘していく。その所作を見て、アモイは「なるほど」と独りごちた。

 遠い海に浮かぶ群島国むらしまのくに発祥の伝統武術。得物を用いずに素手で闘うその技法を、ユウは今も我流で稽古し続けている。その独特の動きが弟子の太刀筋に影響していると聞いて、実は少し気になっていた。基礎も固まらないうちから変な癖がついては困る、と。

 実際に見てみれば、確かに旧知のどの流派にも属さない剣法だ。相手の勢いを殺すのではなく、むしろ引きつけて利用するような剣さばき。なかなかどうして、馬鹿にはできない。あれはただの嗜みではなく、いずれ実戦のための剣術として磨かれていくのではないか。

 かつてユウがマツバ姫に稽古をつけてもらっていた、まさにその場所で今、ユウとアルハの手によって新しい流派が生まれようとしている……と、したら。

──あのかたは、どのように思われるだろうか。

 アモイの心中に、ふとそんな考えが浮かぶ。と、次の瞬間、背後から唐突に低い声がした。

「何もお思いにはなるまい」

 驚いて振り向くと、いつの間にやらムカワ・フモンが床の上に座して、悠々と茶を飲んでいる。

「お、甥御……いや城代。おいででしたか」

 相変わらず皺も汗染みもない苔色の長衣を羽織ったムカワは、五十の坂を越えて髷にも白いものが目立つようになった。頬骨の張った浅黒い顔には眼帯を着用して、いっそう風貌に凄みが増している。

 まだ娘が幼かった春の日、突然の引退を願い出た時点で、実はすでに右目の視力を失いかけていたらしい。マツバ姫が城主に復帰し、その間に休養して治療に専念していれば、あるいは失明を避けられたかもしれない。が、それから十年余り経った今も、彼はまだ同じ肩書きを背負ったままだ。

「何をお思いになる必要もない」

 碗を茶托に置いて、ムカワは言い直した。

「過去を惜しむも未来を思い煩うも、今を生きる者の務めなれば。あのおかたは、誰よりも深く重き務めを、とうに果たし終えた」

「務め……ですか」

「それはすでに、次の者に受け継がれている」

 隻眼の城代は口を閉ざし、ゆっくりとアモイのほうへ、否、窓の外の空へ面を向けた。

 アモイの脳裏に、稽古前のアルハと交わした言葉がよみがえる。いつかマツバ姫と結婚の約束をしたこの部屋で、彼は娘と対座し、こう切り出したのだ。

──そろそろこの城をおまえに任せたいと思っているが、どうだ。

 娘は娘で、久々に会う父親と二人きりで話すことに、いささか緊張しているようだった。物心のつく前からこの西陵せいりょう城で育てられ、王宮にいるアモイとは手紙の応酬ばかりで、顔を合わせる機会は年に数回ほどしかない。

──幼きころより、いつかはと覚悟をして参りました。

 背筋を伸ばして正座した娘は、二人の母から譲られた切れ長の眼で、まっすぐにアモイを見返した。

──しかしお答えする前に、一つお訊きしてもよろしいでしょうか。父上の口から、直にうかがいたき儀がございます。

 意を決したように告げる娘に、来たか、とアモイは内心で身構えた。しかし表面上は平静を装って、先を促した。

──母上の最期について、本当のことをお教え願えませぬか。

──本当のこと?

──大人たちはわたくしを見るたびに、生前の母を思い出すと申します。いかに賢く、強く、かつ優しき人であったかを、盛んに言いたてます。されどその末期については誰もが口を濁し、わたくしの疑念に答えてはくれませぬ。

──疑念。

──噂どおりの思慮深き人であったならば、なぜ己の身を死の危険から守りえなかったのでございましょう。

 娘の眼差しの鋭さに、アモイはわずかにたじろいだ。しかし同時に、彼女の質問がその出生に関わるものでないことに、安堵の息をついた。二人の母があたかも一人の女性であったかのように聞かされて育ったアルハには、それが永遠に不可侵の真実であってほしい。それが父としての、いささか虫のいい願いなのだった。

──おまえはその日のことを、どこまで知っている?

 試みに問う。娘は淡々と、自分なりに調べた成果を報告した。

 都から西府さいふへ赴く道の半ばに、桑郷くわのごうという養蚕の盛んな町がある。当時、その近くの峠道では雨のたびに土砂崩れが起こり、生糸を仕入れに通う商人たちが難儀していた。かねてからそれを気にかけていたマツバ姫は、視察のために現場へ立ち寄ることにした。

 そこで事故が起きた、というところまでは、衆知の事実だ。しかし事故の詳しい内容となると、知る者は限られる。そのとき現場に居合わせた従者たち、乳母、そしてユウ。彼らを何度も問い詰めた結果、アルハはようやく次のような経緯にたどり着いた。

 一行はその日、崩落して間もないものと見える崖の途中に、一人の少年が取り残されているのに出くわした。近くの百姓の子が、薬草採りをしている最中に難に遭ったのだ。長らくそこにしがみついていたらしく、呼びかけても応えず、いつ転落してもおかしくない状態だった。

 マツバ姫は周囲が制止する間もなく、即座に救出へ向かった。おかげで少年は、間一髪のところで命拾いをした……が。

 代わりに彼女が、命を落とした。十一年前の秋、西陵へ赴任する途上での出来事だ。

──仮にも城主の重責を負う者が、それも賢人と称えられる者が、見ず知らずの子どものために、さような無謀を冒すものでしょうか。しかも助けられた子とやらが何処いずこの村の何という者か、誰に訊いても答えませぬ。わたくしには、かれらが真相を隠しているように思えてならぬのです。

──真相とは、どのような。

──母上がお命と引き替えに救ったのは……本当は、わたくしだったのではと。目を離すとすぐにどこぞへ行ってしまう、せわしなき赤子であったと聞きます。崖から足を踏み外すか何かして、それで母上は御身を危険にさらしたのではありませぬか。我が子なればこそ、考える暇もなく。

 アモイはまじまじと娘の顔を見改めた。大人びているように見えた顔が、不意に頼りなげな影を帯びて、胸の奥に疼く怯えをにじませる。

 彼女もそうだったのだろうか。十二歳のマツバ姫はすでにして威風堂々、怖いものもなさそうだったが、それは表層に過ぎなかったのだろうか。内心には、不安や葛藤が渦巻いていたのだろうか。今となっては、確かめようもない。

──アルハ。仮にそれが真相だとして、城主としての任を果たす上で障りになるか。人の上に立つのがはばかられるような咎を負ったと、そう思うか。

 一瞬、娘の顔に、核心を突かれたとでもいうような動揺が浮かんだ。しかし少し考えた後に、いいえ、と彼女は答えた。

──もしも母上の命と引き替えに生き長らえたならば、なおのこと、己の生を無駄にはできませぬ。今のわたくしの為すべきに精いっぱい、励まねばならぬと、そう考えます。

──よくぞ言った。

 アモイはしばし、胸を詰まらせて沈黙した。が、娘がじっと続きを待っているので、無理に軽く笑ってみせた。

──しかし安心するがいい。おまえが調べ上げたことは、真実だ。事故の直後、ユウは私の前で、血も吐かんばかりに取り乱しながら、長い長い時をかけて一部始終を報告してくれた。その内容と今の話、寸分の違いもない。助けられた子の名が明かされぬのは、その子が責めを負っては不憫ゆえ、一切の他言を禁じたからだ。記録にも残していない。

──それでは……母上はまこと、他人ひとの子を助けて……。

──無謀と言ったな、アルハ。確かにそうかもしれん。しかし母上にとって、無謀と深謀遠慮とは常に表裏一体だった。仮にその行いを過ちと言う者があっても、ご本人すらそうお思いだったとしても、私はあのかたが過ったとは微塵も思わん。マツバさまは、為すべきことを為された。私はそう信じている。

 いつしか笑いは消えていた。そんな父の顔をまっすぐに見て、娘は何も言わなかった。

 皆がその日のことを詳しく話したがらない理由を、悟ってくれただろうか。十余年が過ぎても乾かない傷が、この世にはあるのだということを。

 やがてアルハは静かに居住まいを正すと、おもむろに話を元へ戻した。

──父上。わたくしが城主となった暁には、ムカワ城代を補佐としてこの城に残していただけましょうか。

──私もそれを考えていた。この後、当人に頼むつもりだ。おまえが望んでいると言えば、断りはすまい。

──それならば、心強うございます。

──しかし城代は随分と長いこと、退役の日を先延ばしにしてきた。それは知っているな?

──はい。早う一人前の城主となり、ご本意を叶えて差し上げられるよう、精進いたします。

 アルハは両手を前にそろえ、芯の通った美しい所作で頭を垂れた……。

「そういうわけです、城代。我が娘たっての望み、今しばらくこの城に留まり、助けてやっていただけますか」

 ムカワの正面に座ったアモイは、そう言って人員の配置案を記した紙を差し出した。

 片目の男は表情を変えもせずに紙を受け取ると、懐から使い古した拡大鏡を取り出して、ゆっくりと内容をあらためる。片眼鏡としてはもはや用をなさなくなったそれを、彼は今もこうして肌身離さず持ち歩いているのだった。

りょうの君の仰せとあらば」

 長らく待たせた割に、返ってきた応答は短かった。

 そう、不本意な役目を続投しているのは、アモイも同じだ。その場しのぎのはずだった嶺の位に就いて十六年、王座が空席のままであることを臣民も半ば忘れかけているが、この状態が国として望ましいはずはない。

 だからこそアルハには早いうちから城主としての実績と自信を積ませ、自分の目の黒いうちに王位を継承させたい。それがアモイに残された、最後の希望だ。

 そんな父の願望を、娘もうすうす察しているのかもしれない。彼女は西陵にいながら、他の地域にも常に目配りしている。ルカに会いに行くついでに東原の城下を視察し、時には襲堰かさねぜき四関しのせきまで足を延ばして、タカスやバンケイと親しく話すこともあるらしい。

 参っちまうよ、ガキのくせに、まるっきりオヤカタみてえなんだもんな。バンケイがそうぼやいていたと、人づてに聞いたことがある。

 実際、娘の身体には、マツバ姫の血は流れていない。マツバ姫の記憶も残っていない。それなのに、まるで生き写しなのだ。だから期待してしまう。それは大人の身勝手だろうか?

 ムカワとの会談を終えたアモイは階段を下り、娘たちのいる庭のほうへ足を向けた。今日のうちに都へ戻り、明日にも宮臣たちに城主登用の件を諮るつもりだ。帰る前にもう一度、娘の顔を見ておこうと思った。

「偉大な親を持つというのは、厄介なものだ。そう思わぬか、シュロ?」

 行く先から聞こえる声に、思わず足が止まる。

「そうですか? 私は普通に、誇らしく思いますが。父の名に恥じぬ武人になるのが、子どものころからの夢ですから」

「しかしその父の実像を、そなたは知るまい」

「生まれる前に亡くなりましたからね」

「人から聞く亡き人の話は、多分に美化されるものだ。追ったところで、追いつくことなど永遠にできぬ」

「アルハさま。急にどうなさいました」

 これはユウの声だ。

「お父上に何を言われたのか存じませんが、アルハさまはアルハさまですよ。母上のように生きなければならないなんて、そんなことはありませんからね」

「わかっている、ユウ。父上に不服があるわけではないのだ」

 柱の陰からそっとうかがえば、少年と少女たち、女師匠の四人が縁側に座っているのが見える。落ち着きのない東原城主は、どこかへ遊びに行ったようだ。

「母のこと、聞けば聞くほど、いかなるお人であったかとんとつかめぬ。それがどうにも、もどかしくてな」

 アルハは両手を組んで腕を上げ、しなやかに伸びをする。その横顔に何か言おうとして、ユウが口を開く。

 そこでアルハが「あっ」と声をあげ、跳ねるように立ち上がった。周りが何事か問う前に走りだすと、松の木立の中ほどまで行って振り返る。子どもらしく無邪気な表情で、右手をまっすぐに空へ向け、息を弾ませて。

「シュロ! ルカ! 見よ」

 指の先の上空には、真一文字に翼を広げた大きな鳥影が旋回している。

「あの鷹、牡か牝か。どちらだと思う?」

 彼らにとっては、ありふれた戯れなのだろうか。シュロとルカは慣れきった様子で、牡ですかね、いいえ牝でしょうなどと笑い合っている。

 傍らでユウが、にわかに顔を伏せた。細い背中が小刻みに、やがて大きく震えだす。

 その姿が不意ににじんで、アモイはようやく、自分の頬も熱く濡れているのに気づいた。

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