10-4

 初めて我が子を抱いた、あの秋の夜。あまりの軽さと柔らかさ、不確かさに、アモイはただおののくばかりだった。

 冬、春、夏を経て、また紅葉の季節を迎えた今、娘はずっしりと持ち重りのするまでに成長していた。這ったり歩いたり転がったりと盛んに動き回り、時折、言葉も発する。ゆー、と呼べばすかさず守り役が飛んでくるとわかっていて、父に抱かれている間にも、ゆーゆーと連発する。

「どうされましたか、アルハさま」

 別室にいたはずのユウが耳聡く聞きつけて顔を出したとき、アモイは腕の中から脱走しようとする娘を押さえこもうと悪戦苦闘しているところだった。

「大事ない。こちらは気にせずに、支度をするといい」

「もう、あらかた片づきましたので」

 ユウは笑みを含みながら、アモイの隣へやってきた。今日は他の侍女たちと異なり、裾の詰まった動きやすい袴を穿いて、腰に藤蔓を巻いた短剣を差している。

「さあ、アルハさま。そろそろお着替えをしますよ」

「もうそんな時間か。まだもう少し……」

「駄目ですよ。大人と違って、手がかかるんですから」

 アルハのことになると、ユウは相手が誰でも容赦がない。父親の未練をぴしゃりとはねのけて、その腕から素早く赤子を抱き取った。

「ゆー」

 自分に抱かれているときよりも、安らいだ顔をする娘。近ごろは忙しさにかまけて寝顔しか見ていなかったからな、とアモイは切なさを噛みしめる。

 マツバ姫を西陵せいりょう城主に復帰させるという思いつきを口にしたときは、実現のためにどれほど仕事が増えることになるかまでは考えていなかった。人も物も金も動かさねばならず、それにはまず余計な横槍が入らないように宮臣たちを説得しなければならない。宿老のイノウが力を貸してくれれば頼もしかったのだが、先の戦の後に官職を退き、公には姿を見せなくなっていた。代わりにムカワ・カウン総督が何かと相談に乗ってくれるものの、生来の武人だけあって、水面下の根回しなど得手ではない。

 そんなわけでアモイは八面六臂、嵐のような夏を送り、愛娘の成長の瞬間をいくつも見逃してしまったのだった。

「後でまた、お別れを言う時間ぐらいありますよ」

 ユウは気休めを言い捨てて、娘を連れ去っていく。可愛い盛りの我が子と離れなければならない父の気持ちがわかるものか、と叫びたいところだったが、女々しいと思われるのも癪なので黙って見送った。

 アルハは、御嶺ごりょうの君アモイ・ライキと先王の娘ウリュウ・マツバの間に産まれた一の姫。世間には、そう思われている。出生の真相を知るアモイやユウですら、マツバ姫をただの養母などとは思っていない。血を分けた我が子として心から慈しみを注ぐ姿を、間近に見てきたからだ。

 さてそうなると、夫婦が離れて暮らすことになったとき、まだ乳飲み児である娘はどちらのそばで育てられるべきか? 実際に乳を飲ませるのは乳母だとしても、やはり母と共にあるのが自然であろうと誰もが言う。結局、唯一の肉親であるはずのアモイが涙を飲む羽目になった。そもそも妻を西府さいふへ行かせると言い出したのは彼自身なのだから、文句を言う立場でもない。

 アモイは溜め息をつきながら、着崩れてしまった礼服の襟元を整える。それから、別れを惜しむべきもう一人の相手を探しに、部屋を後にした。

 渡り廊下の途中で、どこからか子どもの笑い声がするのに気づく。娘の声ではない。辺りを見回すと、中庭の植えこみの細かな枝葉が揺れて、内側で小さな生きものの動き回る気配がある。

 と、その小動物が、茂みの中から転がり出てきた。よそ行きの袴の裾を半ば引きずり、いくつもの草葉を体中にくっつけて、無邪気に笑っている。アルハより半年ばかり年長の乳母子めのとご、シュロことテシカガ・シウロ二世は、父親とは似ても似つかない腕白坊主に育っていた。

 その後ろからもう一人、同じぐらいの年の幼女が飛び出してきた。愛らしく結われた髪はほつれ、晴れ着は砂埃で汚れて、やはり満面の笑みを浮かべている。

 さらに二人の出てきた茂みが再び激しく揺れ、今度はひときわ大きな動物が枝葉の上へ頭を突き出した。

「ふたりとも、みぃつけた!」

 二十歳を過ぎた東原とうげん城主ハルもまた、儀礼のために特別にあつらえられた装束を着せられていたが、どうやらもう一度、着替えが必要になりそうだ。

「ルカ、どちらですか、お返事をなさい」

 廊下の先からウララが、周囲を見回しながらしずしずとやってくるのが見えた。逆のほうからは、「シュロ。シュロー!」と、やはり我が子を呼ぶ母親の声がする。

 もうすぐ大目玉を喰うことになるとも知らずに、けらけら笑い合う三人の子どもたち。アモイはつい口元がほころぶのを感じながら、その場を後にした。

 表御殿に着いても目当ての人の姿はなく、そのまま外へ出る。出立式を控えた前庭の広場は、すでに混雑していた。マツバ姫に従って西府へ向かう人と馬と荷物、見送りに立つ宮臣たち、式典の準備を進める官吏たち。開け放たれた宮門の向こうにも人だかりができているのは、任地へ赴く新城主の行列を一目見ようと、近隣の民衆が朝早くから待ち構えているのだった。

 この場所、このにぎわい。懐かしい記憶がよみがえる。まだ成人したての青年だった春の日、やはりあの門から、アモイは西へ旅立ったのだ。弱冠十二歳の主君を護衛するという、初めての任務を帯びて。

──このような未来が待っているとは、想像もしていなかったが。

 感慨にふけっていると、不意に誰かが背中をたたく。驚いて振り向けば、見目麗しい装束に身を包んだ朋友が敬礼をして立っていた。

「ご無礼をお許しください。お背中に、塵がついておりましたもので」

 タカスはそう言って、手のひらに載せた綿埃を証拠として差し出した。アルハに着せていた羽織から落ちたものだろう。

「今、わざと強めにたたいたろう」

 アモイが詰ると、相手は「滅相もございません」と恐縮しながら、目だけで笑ってみせた。

「昔を思い出していたのだ。十三年前のことをな。覚えているか、旅立ちの前夜、おまえに会って愚痴を聞いてもらったのを」

「忘れもしません。早々に手柄を立てて都に戻してもらうつもりだと、気炎を吐いておいででした。そして次にお会いしたときには、出仕するならおまえも西陵にしろと、しつこいほどに勧められました」

「そのとおりにして、間違いはなかったろう」

「感謝してもしきれるものではございません」

「おまえ、おちょくっているな」

「これは本心だ」

 タカスはそこだけわずかに声を低め、それからすぐにまた朗らかな調子で、

「おや、もう一人、西の城に所縁ゆかりのかたが近づいてこられますぞ」

 見れば、戦支度かと見紛うような物々しい具足を身につけたムカワ・カウン総督が、足音を立てながら歩み寄ってくる。

「いよいよだな、アモイどの」

「総督。おかげさまで、ようやくこの日を迎えられました」

「ここに至るまで、苦労をされたな。何しろ奥方を城主に再任するなど、前代未聞のことだ。しかし、わしは驚かなんだぞ。おぬしらは常の夫婦ではない。いずれまた何か思いも寄らぬことをしでかすに違いないと踏んでおったわ」

「恐れ入ります」

「タカスも来ておったのか。どうだ、砦での新婚生活は」

「その折は結構なお祝いを賜りまして、ありがとうございました」

「新妻は連れてこなかったのか。この色男が心を奪われたという噂の佳人を、皆、一目拝みたいと申しておるぞ」

「キサラは人目を浴びるのが苦手でして。今日は留守居をしております」

「というのは口実で、恋女房を他の男に見せまいとしておるのだろう」

「バンケイにも似たようなことを言われましたよ。出し惜しみをしやがって、と」

 この場にはいない男のがらっぱちな口調を、タカスは真似てみせる。

「むしろ私としては、自慢の妻をどこへでも連れ歩いて、見せびらかしたいぐらいなのですがね。しかし、ようやく話ができるようになってきたのに、また黙りこんでしまっては困りますので」

「何、キサラどのは、口が利けるようになったのか」

 アモイが勢いこんで尋ねると、タカスは彫りの深い顔を笑みに崩した。

「と言っても、小さな声で相づちを打つ程度だが」

「そうか、いや、それはよかった」

「都から離れた、のどかな田舎に移ったのもよかったのかと。これもまた、御嶺の君のご配慮の賜物……」

「よせよせ、辛気くさい世辞は」

 先ほどの仕返しに、友の肩を拳で小突いてやった。

「それはそうと、マツバさまをお見かけしなかったか」

「式典の支度をされているのでは?」

「支度部屋にも、娘のところにもおられなかった。いつものように、廟に詣でた形跡はあるのだが……」

 城門の向こうに集まった民衆からどよめきがあがったのは、そのときだ。何事が起こったかと、アモイもタカスもとっさに身構える。総督が眉間を険しくして、一歩、前に足を踏み出した。

 次に聞こえてきたのは、蹄の音だ。続いて群衆の間を割るように、一騎の人馬が姿を現す。馬上に見えるのは、粗末な外套の裾を風になびかせた若武者。開かれたままの門を通り過ぎると、誰何しようとする番兵を見事な手綱さばきですり抜け、アモイたちの立っているところまでまっすぐに駆けてきた。

 呆気にとられている三人を後目に、若武者は鞍の上から颯爽と地に降り立つ。

「館さま」

 最初に呼んだのはタカスだ。続いてムカワ総督も、

「これは姫君。一体、何処いずこからお出ましに」

 マツバ姫はかぶっていた茶色の頭巾を外し、額の汗をぬぐった。銀の耳環が露わになり、束ねた髪の毛先が背中に落ちる。帰国したときは短かった黒髪もようやく伸びてきて、失われた光沢も今はよみがえりつつあった。

「まさか、橋場はしばの市へ?」

 アモイが半ばあきれて言う。姫の胸元に、天蚕糸てぐすを通した小さな赤い巻き貝が揺れているのに気づいたのだ。

「今日から、アルハの生誕一ヶ年を祝う祭市まつりいちだ。いかほどのにぎわいか、見ておこうかと思うてな」

「お一人でですか」

「皆、忙しそうであったからな」

「当然でしょう。何もこのような、出立の朝においでにならなくても」

「明日では間に合わぬではないか」

「それはそうですが……」

 二人のやりとりを見ていたムカワ総督が横で大笑し、タカスも堪えきれなくなったように白い歯をのぞかせる。アモイ自身、怒るべきか笑うべきか、わからなくなった。

「ねえさまぁー!」

 そこへ義弟一家が御殿から出てきた。ハルも、その腕に抱かれているルカも、先ほどとは衣が替わっている。後ろについてくるウララの相変わらず眠そうな笑顔からすると、どうやら父娘はあまり厳しく叱られはしなかったようだ。

 すぐ後に続いて、アルハを抱いたユウとテシカガ母子もやってきた。シュロが赤く腫れた目をしていて、こちらはよほど強く説教されたと見える。しかも晴れ着の替えがないのか、草葉を払い落としただけで着ているものは従前のままだ。家庭の事情が違うとは言えいささか気の毒に思い、一方ではまた、しょげている顔が亡父の在りし日を想起させて微笑ましくもある。

「マツバさま、お戻りだったんですね。間に合ってよかった」

 ユウがほっとしたような顔をする。こいつ主人の外出を知っていたな、とアモイは横目でにらんでやったが、相手は知らぬふりだ。

「いやはや、小姫が西の城でどのように育ってゆかれるのか、楽しみだの」

 まー、まーと母親に手を伸ばすアルハに、ムカワ総督は孫でも見るように目を細める。

「さてタカス、わしらもそろそろ列に戻ったほうがよさそうだの」

「そうですね。名残惜しくはありますが、これにて」

「東の君も、参りましょうぞ」

「うん。ルカ、ごあいさつをするよ。ほら、アルハにごきげんようって」

「ごきげんよう」

 今ひとつ状況のわかっていない従姉妹同士が、小さな手をつないで別れの挨拶をする。その頭の上で、大きな少年もまた大好きな義姉の手を握り、

「ねえさま、こんど、にしのおしろまで、あいにいっていいですか」

 と尋ねた。そしてマツバ姫かまだ何とも答えないうちに、

「ちゃんとウララにそうだんして、ねえさまにもおたよりをだして、それからいきますね。しろのみんなを、しんぱいさせないようにしますね。ルカを、アルハやシュロにあわせてあげたいんです。わたしも、ねえさまにあいたいんです」

 姫は瞬時、言葉に詰まったようだ。幾度か瞬きをした後に、ふくふくと丸い義弟の手を握り返して答えた。

「もちろん、いつなりと……」

 閲兵場に集う人々は、いつしか列を整え始めている。先頭には女たちを乗せていく駕籠かごと担ぎ手、護衛の者たち。後ろのほうには荷を負う豆駒まめごまたち。支度を終えた兵士や使用人たちが班を組んでは、次々と隊列に加わっていく。

 東原城主一家は笑顔で来賓の席へと去っていった。総督とタカスも、それぞれ見送り側の立ち位置へと移動する。ユウはアルハを抱いて駕籠の集まっているあたりへ向かい、乳母と息子もそれに従った。

 しかし肝心の新城主は、まだみすぼらしい旅の剣士を装ったままで立っている。

「マツバさまも、早く中へ入ってお支度を」

「支度なら、もう済んでいる」

 姫はそう言って、外套を脱ぎ捨てた。その下に現れたのは、目の覚めるような真紅の上衣うえぎぬと袴の、袖と裾をきりりと巻きしめた活動的な出で立ち。

 そして腰には、磨きあげられた紅の愛剣──。

 アモイはつい感嘆の息を漏らす。この姿を目の当たりにするのは、何年ぶりだろう。

「さあ、参るか」

 二人は共に、式典のために設えられた壇のほうへ向かって歩きだす。これからその高みに登り、皆の前で正式に城主の印を禅譲するのだ。あとは今日の門出を祝し、盛大に送り出す。つまり登壇してしまったら、もう別れを惜しむ暇はない。

 話すべきことは山ほどあるが、何から話せばよいのか。考えあぐねているうちに、儀式の舞台は間近に迫ってくる。

「そうだ、アモイ」

 歩く速度を緩めることなく、姫が告げる。

「これを、イセホの墓に供えておいてくれぬか」

 真横から差し出されたのは、例の赤い貝殻だ。

 そのとき、ふと気づいた。姫はアモイの後ろを歩いていない。と言って、先を行くでもない。二人は肩を並べて、同じ歩幅で足を進めていた。それは夫婦になって、いや十三年前に出会ってから、初めてのことだ。

 天蚕糸の先にぶら下がった貝殻を、アモイはそっと握りしめる。

「毎朝とは言わぬが、あやつが寂しがらぬよう、折を見て詣でてやってくれ」

「しかと、承りました」

「頼むぞ。わたしが帰る日までな」

 アモイは思わず足を止める。マツバ姫は二歩ほど前へ出たところで、ゆっくりと振り返った。

 鋭く射抜くような眼差しと、少しばかり皮肉めいた、あの懐かしい笑み。

 今は何も語る必要はない、とアモイは思う。語り残した一切を、次に会う日まで胸に留めておく。その日が遠くない将来に訪れることを、彼は信じて疑わなかった。

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