10-3

「また何ぞか?」

 墓前で祈りを終えたマツバ姫が立ち上がり、背後を振り返る。

 壁際で娘をあやしながら待っていたアモイは、いや、まあ、と言葉を濁した。生後七月になるアルハは活発で、油断をすると腕の中からこぼれ落ちそうになる。

 ユウは二人の中間に立って、赤子の様子を気遣わしそうに見守っている。

まつりごとの話であれば、うかがい立ては無用と申したぞ」

「ええ、ですが」

 先手を打たれてしまったが、ここでひるんではいられない。

「子育てにまつわる件であれば、いかがでしょう」

「アルハのことか。ならば聞く」

「乳母を一人、新たに召し抱えようと思います。乳が足らぬ様子だと聞きましたので」

「それはわたしも考えていた。誰か、目星があるのか」

「はい。つきましては、その者にお目通し願いたく、控えの間に待たせてあります。この場に呼んでもよろしいでしょうか」

「ここに?」

「はい、ここに」

 マツバ姫は片眉を上げて、アモイの顔を探るように見る。だがこの霊廟は特に立ち入りを禁じているわけでもなく、奥御殿に仕える女たちもよく詣でている。断る理由はないはずだ。

 アモイはユウに目配せをして、乳母を呼びに行かせた。ほどなく戸口から姿を現したのは、華美ではないが仕立てのよい小袖姿をした三十路がらみの女だ。促されて廟の中へ踏み入ると、長細い桐箱を胸に抱いたまま、アモイとマツバ姫の前に平伏した。

 後ろからユウが、まだ足取りのおぼつかない幼児の手を引いてくる。その子の顔を一瞥するなり、姫が小さく吐息を漏らした。

 色白で繊細なその目鼻立ちには、今は亡き男の面影がはっきりと表れていたのだ。

「お初にお目にかかります。テシカガ・シウロの妻でございます」

 昨日、西陵せいりょう城下から出てきて、初めて宮中に上がった新しい乳母は、下を見たままで挨拶した。いささか緊張した声色ではあるが、さすが大店の娘と言おうか、生前の夫よりもよほど落ち着きがある。

「面を上げられよ。まずはいしぶみの前へ……ご夫君の名が刻まれている」

 アモイが勧めると、はい、と女は頷き、幼子と共に石碑の前へ進み出る。そして手にした桐箱の蓋を開けて、中から一振りの刀剣を取り出した。

 傷だらけの、しかしよく手入れされた鉄納戸てつなんど色の鞘を、柄を、マツバ姫は少し離れたところから見つめている。

 テシカガの妻はその剣を碑に奉ると、小さな我が子を抱きしめて、「さあ、ととさまにお祈りしましょう」とささやいた。

「とっと?」

 父と同じ名を負った子はたどたどしく応え、祈りを捧げる母の顔を不思議そうに見る。それからぐるりと周りに頭を巡らせて、アモイの抱いている赤子にふと目を留めた。自分よりも小さな子どもに、興味を覚えたのだろうか。アルハのほうも身動きをやめ、瞬きもせずに相手を見下ろしている。

「その節は、本当にありがとうございました。夫の形見を届けるために、わざわざ拙宅までお越しくださったようで……」

 祈りが済むと、テシカガの妻はひざまずいたままマツバ姫へ向き直り、再び手をついて頭を下げた。

「その上、このような立派な碑まで。身に余る光栄と、夫も喜んでいると存じます」

 それを聞いたときのマツバ姫の表情は、アモイがかつて見たことのないものだった。感謝されているというのに、まるで責め苦を負うかのように眉を歪め、頬をこわばらせている。

「わたくしのような者がお姫さまの乳母など、恐れ多いことではございますが、これも夫の働きに報いるためと御嶺ごりょうさまが。お引き受けするからには、精いっぱい、務めに励みたく存じます。どうぞ、よろしくお願い申します」

 面を伏せて抱負を述べる彼女には、相手の複雑な顔色が見えていない。口上を終えて、応答が返ってくるのをじっと待っている。

 マツバ姫は観念したようにまぶたを閉じて、深い息をついた。

「テシカガ・シウロの最期は、武人もののふとして、まことに誉れ高きものであった」

 やがて抑揚のない低い声が告げる。

「娘を頼む」

 はい、とテシカガの妻は答えて顔を上げたが、すぐに困惑したように身をすくませる。それほどに、マツバ姫が身にまとう雰囲気は、口にした言葉に似つかわしくないものだったのだ。

 アモイは場を取り繕うように、新しい乳母をねぎらった。さっそく娘を預けて、控えへ下がるようにと伝える。さすがは三児を育てているだけあって、赤子のあやしかたは堂に入ったものだ。

 母を取られたとでも思ったか、幼いシュロがぐずりだしたが、そちらはユウが気を利かせる。幼児の手を引いた侍女と、赤子を抱いた乳母は、扉の先の眩い朝日の中へ消えていった。

 あとにはアモイとマツバ姫の二人が残る。碑の前に安置されたままのテシカガの剣から目を逸らすかのように、姫は戸口の左手の、何もない壁を向いて立っている。

 アモイは意を決して、その横顔に問いかけた。

「やはり、テシカガのことでしたか」

「……」

「貴女が苦しんでいると、ユウが申していました。テシカガの死に、責任を感じておいでなのですか」

 違う、とマツバ姫は答えたようだ。が、わずかに唇が動いただけで、声として聞くことはできなかった。

「テシカガは自ら望んで奇襲に加わりました。生き残った隊士たちからも報告を受けましたが、険しい道中も常に部下の一人ひとりに心を配り、隊長として立派に務めを果たしていたと。戦場では、あのヒヤマ・ゼンを前にして一歩も引かなかったと。その命と引き替えに美浜みはまの大軍を追い払った、かれは今や救国の英雄なのです」

「……」

「それだけではありません。テシカガは私の代わりに、マツバさまをお守りすると誓った。その言葉のとおりに、貴女が祖国へ帰り着くまで、傷だらけの鞘に姿を変えてお供をし続けた。私は彼を誇りに思います。それは遺された家族も同じでしょう」

「そんなことはわかっている」

「でしたら、もう、彼の死を悔やむのはおやめください」

「もう、よせ」

「よしんば誰かが責めを負わねばならないとするなら、テシカガに出陣を命じた私をこそ責めるべきでしょう。貴女に咎など」

「よせと言うのがわからぬか」

 マツバ姫は、彼女らしくもなく、頑是ない稚児のように頭を振る。

「誉れ高き死! まこと咎がなければ、さような美辞に慰められもしよう。なれどあやつは商いの家の子、商道を知る父の子であった。それが何ゆえ、英雄などに祭り上げられねばならなかったか。そなた知っていよう。武人の素質など欠片も見えぬ男を、戯れ心に召し抱えた者は、誰であった」

「それは、……もう十年も前の話ではありませんか」

「そう、十年前、この災厄に遭わなければ。美しき夢が美しきままであれば、今ごろあやつは待望の息子を抱いて笑っていたのだ」

 姫はそこで一瞬、石碑のほうへ視線を向けたが、またすぐ顔を背けてしまう。

「そなたにはわかるまい。そなたもテシカガと同じ受難者だ」

「受難?」

 訊き返したが姫は答えず、彼の横を通り過ぎて足早に戸口へ向かった。

「お待ちください!」

 アモイはとっさに姫の腕をつかんだ。自分から主人に触れることなどかつてなかったことだが、逡巡している場合ではない。

「ご無礼は承知の上ながら、どうしても聞き捨てなりません。先ほどのおっしゃりようは、まるで貴女が、我々にとって災難であるかのような言い草でありませんか。貴女と出会ったことを、貴女のために命を捧げると心に決めた日のことを、テシカガや私が後悔しているとでもお思いですか」

「離せ、アモイ」

「イセホはどうなります。物心つく前からずっと貴女のそばにいて、貴女の片割れとして生き尽くした、その生涯を否定なさるのですか。あの娘は、ユウは。道端で飢えて果てるばかりの孤児みなしごを、あのように分別のつく年まで長らえさせた、それも過ちだったとおっしゃるおつもりですか」

 昂った声が霊廟の中に反響する。それが止むと、重苦しい沈黙が訪れた。

 ごく微かに、すすり泣くような息遣いが聞こえてくる。ユウが戻ってきているのだ、とアモイは思った。扉の外側で、声を殺して泣いている。

 マツバ姫の耳にも届いているはずだ。そう思って正面から彼女の顔をあらためた瞬間、アモイはまた息を飲む。大きく切れた眼の奥に、悲痛な情動がほとばしっているのが見えたからだ。

 いつか姫は彼の前で、亡き父への憤りを露わにしたことがあった。が、そのときの比ではない。切り裂かれた傷口から、今まさに鮮血があふれ出すのを見るかのようだ。

「わたしも、かつては、そなたたちのように」

 つかんだ腕から、震えが伝わってくる。

「信じていた。父よりも義弟おとうとよりも他の誰よりも、わたしは国を想うていると、臣民のために大事を成し遂げる志があると。剣を修め学問に励み、各地の情勢に通じ……そなたたちが忠誠を尽くすに価するだけの人物と、己をたのんでいたのだ。しかし」

 苦いものを、飲み下すような間。

「今思えば、わたしの為してきたのは、己の虚栄心を満たすことばかりではなかったか。たまさかに生まれ持った権をかざして人を振り回し、それを自らの才覚と驕り、挙げ句、この狭き盆地には己と並び立つ者などあるまいと……。もしも対等に互いを認め合うに足る者がこの世にあるとすれば、ただ一人、あの男しかあるまいと」

 アモイの脳裏に、その男の名が浮かぶ。マツバ姫が西陵城に赴任したのとまさしく同時期、弱冠二十歳にして隣国の指揮権を握り、瞬く間に内紛を鎮めて人民から絶大な支持を勝ち取った貴公子。自信に満ちた、端正な笑顔。

 姫と公子クドオの間には相通じるところがあると、アモイとて思わぬではなかった。もしも彼女が男に生まれていたら、それも大国の王家の嫡男であったなら。やはり若き傑物として、四海に名を轟かせていたはずだ。

「わたしは、それを確かめたかったのだ。そのために、戦場へ赴いたのだ。国のためではない、民のためでもない、つまらぬ自負心のために。結果はどうだ。思い上がりは打ち砕かれ、残ったものはそこなる冷たき石ばかり。アモイ、これでもわたしを咎なしと申すか。かような不心得者が、どうして今さら人の上に立てる」

 マツバ姫はそこまで言うと、呼吸を押し殺すように口を閉ざした。

 哭いている──。涙も嗚咽もなく、ただ彼女の身体の奥で、声なき声が叫んでいるのを聞く。

──マツバさまを助けられるよね?

 ユウの声が、頭の中に響いた。

──アモイに無理だったら、他にはもう誰も。

 アモイの足が、ひとりでに動きだす。そして次の刹那には、姫を腕の中に強く抱きしめていた。

 姫が耳元で、小さく呻く。首筋からほのかに薄荷の香りがする。イセホとは違う、堅く引きしまった感触。この背に手を回すのは二度目だ。前回は王宮の楼上で、階下の者たちに夫婦仲を見せつけようと、彼女のほうから身を寄せてきたのだった。

 あのときアモイは、まるで火の神に抱かれているかのような錯覚を味わった。そして今、彼が胸に抱いたものは──。

「命の鼓動を感じます。ご自身が何とおっしゃっても、私の、我々のマツバさまは、死んでなどいない」

「……」

「むしろ今、初めて、真に生きている貴女にお会いできた気がします。悩み苦しむ生身のお姿を、かつては決して見せてくださらなかったので。しかし、もし見ていたとしても、我々が貴女をお慕いする気持ちに変わりがあったとは思われません」

 小さな銀の環が、頬の近くで揺れる。こわばった細い肩から力が抜けて、ゆっくりと萎んだ。

「お許しください。今の貴女に王位継承を迫るなど、無体は確かに私のほうでした。あの約束は、一度、白紙に戻しましょう」

「……」

「とは言え、このまま奥御殿でひっそりとお暮らしになるのが、マツバさまにとってよいことだとは私にはとても思えないのです。ですから……」

「アモイ」

「は」

「話の途中だが、離してくれぬか。イセホの前だ」

 あ、とアモイは苦笑して、後ろへ退いた。懐に手を入れると、二人の胸の間に挟まれていた手紙が、温く湿っていた。

 マツバ姫は彼に背を向け、従姉の墓の前に戻ってうつむいている。もしや照れているのだろうか、と疑った瞬間、自分の振る舞いが急に恥ずかしくなり、頬が熱くなった。

「それで」

「え?」

「話の続きは」

「お聞きいただけますか」

「聞かぬと答えても申すのであろう。早う申せ」

「つい今しがた、思いついたのですが……。マツバさま。もう一度、西陵の城から、始めてみませんか」

 彼女の表情は見えない。しかしその背筋が、すっと伸びたように感じたのは、アモイの錯覚だろうか。

「実は甥御どのから、引退の意向を聞かされておりまして」

「引退。フモンが?」

「右目の病状が思わしくないという理由ですが、あのかたのことですから、真意なのかどうか。もちろん慰留しましたが、城代の役目が負担となっているのは確かなようで。もしも今、マツバさまが城主としてお戻りになれば……」

「城主として」

「いかがでしょう」

「そなたを都に置いて、妻たるわたしが西の城主に?」

「それは、この際、どうでもよいではありませんか。我ら夫婦に、今さら常識を説く者もありますまい」

「そなた……」

「はい」

「知らぬ間に随分と図太くなった」

「夫婦は似るものと申しますから」

 いつかの会話と同じ台詞を、アモイは口にした。彼女は少し笑った、気がした。

「貴女はかつて、テイネの御方おんかたの牛耳る奥御殿から解き放たれるために、西の城へ旅立たれた。今またご自身を苦しめるくびきから自由になるには、やはりあの城、あの古巣へ赴くのが一番ではないでしょうか。そうして何年か羽を伸ばして、いつかお気が向いたら、満を持してこの王宮みやへお帰りください。私はそれまで、待つことにします」

「何年待っても、気が向くとは限らぬに」

「それでも待ちます。待ち続けることの大切さを、私はイセホから学びましたので」

「イセホの直伝か……かなわぬな」

「お引き受けいただけますか。西陵城主の任を」

 マツバ姫は切れ長の眼を伏せて、思案している様子だった。脈は打たれている、と思った。その拍動が向かう先は、否か応か。アモイは祈る気持ちで待つ。

「想う者には、勝てぬわ」

 やがて姫がぽつりとつぶやく。と同時に扉が勢いよく開かれ、外の光が廟の中を明るく照らし出した。二人が驚いて振り返ると、戸口に真っ黒な人影が一つ、小さな仁王のように立っている。

 立ち聞きをしていたユウが、ついに我慢しきれなくなったようだ。雲を踏むような頼りない足取りで歩を進め、ようやく姫の前にたどり着くと、震える両手を恭しげに前へ差し出した。

「マツバさま……」

 まだ乾かない黒い瞳で、ユウはまっすぐに主人を見上げる。

「旦那によろしくって。貝殻屋が、言っていました」

 その手の上には、隅々まで磨き上げられた真紅の剣が一振り、陽射しを浴びて輝いていた。

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