10-2

 御嶺ごりょうさま、と繰り返し呼ぶ声にも意識が上滑りをして、自分のことだという感覚が持てなかった。誰かの手が遠慮がちに袖を引くのでようやく我に返ると、いつの間にかすぐ隣にユウが立っていた。

 渡り廊下の真ん中で、アモイは独りで佇んでいたようだ。マツバ姫のもとを辞した後、執務室へ戻ろうと歩きだしたはずだが、気がつけば随分と遠回りをしている。

「ああ、すまん、考えごとをしていた。……娘はどうした?」

 訝しげな顔をしている侍女へ、アモイは取り繕うように問う。

「今は、乳母のところに。もうそろそろ、おなかを空かせるころなので」

「乳はしっかりと飲んでいるのか」

「それはもう、飲んでも飲んでも、飲み足りないご様子で。きっとアルハさまは、これからぐんぐん大きくなります」

「それは楽しみだ。おまえの身長など、すぐに追い越してしまうのではないか」

「そうかもしれません」

 からかってみても、昔のように赤くなって怒るようなことはない。他の侍女や女官のように敬語を使い、御嶺さまと呼ぶ。いささか寂しさを感じるが、考えてみればユウもすでに成人と見て差し支えのない年のころだ。もう居候の童女ではないのだから、当然と言えば当然なのだろう。

 それにしても、彼女のほうから声をかけてくるのは珍しかった。しかもどこか落ち着かない顔をして、上目遣いにアモイを見ている。

「私に、何か話でもあるのか」

「いえ、別に」

 ユウは小さく頭を振ったが、表情は明らかに反対の答えを示している。

「だったら、少し付き合え」

「えっ、どちらへ」

「なに、軽く庭先を歩くだけだ。ついて来い」

 アモイはそう言うと、彼女を後ろに従えて庭園へ下り、花咲く小路を抜けてくだんの霊廟へ向かった。

 廟に入ると正面に石碑があり、先の戦で犠牲になった将兵の名が刻まれている。筆頭はテシカガ・シウロと奇襲隊の隊士たちだが、四関しのせきが落ちた際に討ち死にした者や、陽動作戦のさなかに命を落とした者もある。公の慰霊碑は戦場となった国境付近に建立されており、この廟に納められているのはマツバ姫が私的に造らせたものだった。

 そして右手には、イセホの墓がある。王宮の敷地内に葬られるなど一侍女としては破格の扱いだが、姫の近縁でしかも乳母子めのとごであったがゆえの特別待遇として人々は納得していた。

 もちろん事情を知るひと握りの者は、そこに墓のあるべき真の意味を理解している。マツバ姫は毎朝、アルハを抱いてこの場所を訪れ、娘の成長を実母に見せるのを日課にしているのだった。

 おかげで今日も塵一つなく掃除が行き届き、新鮮な花も供えられている。墓標の前にはイセホの気に入っていた櫛やこう、姫が長旅から持ち帰った貝殻の束なども並ぶ。

「病?」

 その静やかな霊廟の内に、アモイの驚く声が反響した。

「マツバさまが、病だと?」

 重ねて問い返され、ユウはためらいがちに頷いた。

「にわかには信じられん。いくらかお痩せにはなったが、健康そのものとしか……。本当に、医者がそう言ったのか」

「そう、聞きました」

「どういう病だ」

「名前はわからないけど、ここのところが」

 と、ユウは自分の胸に手を当てる。

「まさか。肺病か。それとも、心の臓」

「そういうのとは、違うみたいです」

 とは言いつつも、実際のところ、本人も詳しいことはわかっていないようだ。

 ただはっきりしているのは、群島国むらしまのくにに滞在していたときのマツバ姫は、まるで別人のようだった。そのときに比べると今はかなり回復したようにも見えるが、やはりどこか、本調子ではないように感じる。それが毎日をそば近くで過ごしている侍女の目から見た、率直な印象だという。

 アモイもまた、この半年というもの、同じような違和感を内心で密かに抱いていた。だがそれは長旅の疲れとイセホの死による喪失感によるものであろうと、だとすれば時の流れが解決してくれるのを待つしかないと、今日まで静観してきたのだった。

 しかし、もしもユウの言うとおりなら、彼の見込み違いということになる。帰還を果たすよりもずっと前から、異変は始まっていた──。

「どうして、今まで黙っていた?」

「無事にここへ帰ってこられたから、そのうちに治るに違いないって……。あの島に行ったせいで病気になったんだって、あたし思いこんでたから。でも、よく考えてみると、もっと前からだったかもしれません」

「もっと前」

美浜みはまの都でやっと会えたとき、マツバさま、死ぬ覚悟をされてました。結局、考え直してくれて、逃げ延びることにはなったけれど。だけど今思うと、あのときから、ちょっと様子が違った気がする。その、何ていうか」

 当時を思い出そうとして、ユウは視線を宙に泳がせる。しかしやはり、具体的な言葉で説明するのは難しいようだ。もういい、と制して、アモイは溜め息をついた。

「ごめんなさい」

 怒られたとでも思ったのか、若い侍女はしおらしく頭を垂れた。

「おまえが謝ることではないだろう」

「あたし、ずっとおそばにいたのに」

 うつむいた先の床面に、ぽたりと一粒、しずくが落ちる。

「マツバさまが何かに苦しんでるのは、わかってました。でもそれが何なのかはわからなくて、わからないままで。お力になりたくても何もできなくて、それどころかただ守ってもらうばかりで。もしかしたら、あたしもマツバさまを苦しめてるものの一つなのかもしれない、だったらほんとは近くにいちゃいけないのかもしれないって、だけどそんなこと訊くのは怖くて」

「ユウ、わかった」

「どうしたらよかったんだろう? マツバさまのために、あたしに何ができたんだろう。ずっと考えてるけど、わからない。でもアモイなら……ねえ、マツバさまを助けられるよね? だってアモイに無理だったら、他にはもう誰も……」

 顔を上げたユウの黒い瞳が、涙の奥に沈んでいる。返すべき言葉が見つからず、小さな肩に手をかけると、相手はそれを振り払うようにして背を向けた。墓の前に膝をつき、嗚咽を必死で飲み下している。

 天井に近い窓からは白い春日が差しこんで、場違いにものどかな小鳥のさえずりが聞こえてくる。もしもここにイセホがいたなら、と不意に思った。どんなにか優しい声で、少女を慰めてやったことだろう。しかし墓標は何も語らず、あの温かな笑顔を見せてくれることもない。

「おまえはよくやった。本当によくやったとも。美浜の都まで行き着いて囚われのマツバさまを探し出し、遠い島国まで逃げ延びて、ご帰還までの長い旅路をお供してきた。私にも、他の誰にもできなかったことを、おまえはやり遂げたのだ」

「……」

「それに、今も。アルハの面倒を見ながら、一日も休まずにマツバさまのそばにいてくれている。おまえだからこそ、あのかたもそれをお許しになるのだ。わかるか?」

 アモイが静かに問いかけると、ユウは黙って袖で顔を拭いた。それからばつの悪そうな仏頂面をして、乱れてもいない墓前の供え物を整え始める。子どもに戻ったようなその仕草が、妙に愛おしかった。

「そうだ。おまえに褒美を取らせようと、マツバさまと話していたのだ」

 少女は手を止めて、再びアモイを仰ぎ見る。

「また笛が欲しいと思わないか」

「笛……?」

「随分と熱心に稽古をしていたのに、手放してしまったそうじゃないか。暇をやるから、今度の大市で新しいのを買ってくるといい」

 だが、ユウの表情は曇ったままだった。姫と共に出かけた思い出の品だから宝物だったのであって、独りで買いに行っても意味がない──そう言いたげな様子だ。

「別に笛でなくとも、他に買いたいものがあれば、それでもいい。芝居を見るとか、飲み食いをしてくるとか。私のおごりだ、遠慮は要らん」

「だけど、アルハさまのお世話は」

「心配するな。一日ぐらい、ゆっくり羽根を伸ばしてこい。たまには、そういうときも必要だ」

「うん……」

 ユウは何やら思案顔をしていたが、やがて立ち上がって、アモイに向き直った。

「ありがとうございます。お言葉に甘えて、大市、行ってきます。欲しいもの、思い出したので」

「よし、それでいい」

「ただ……」

「ただ?」

「もしかしたら笛よりも、だいぶ高くつくかもしれないけれど。それでも、おごってもらえますか?」

 そんなやりとりをしてから一月ほどが過ぎた、ある朝。アモイは再び、霊廟を訪れていた。

 陽射しはいつしか夏を予感させる強さを帯び始め、窓の外では春蝉がにぎやかに鳴き交わす。その声がかえって、墓前の静けさを際立たせている。

 彼の手には一通の手紙がある。イセホの死後に、文箱の中から見つかったものだ。遺言状というほど形式ばったものではないが、文面には端々に死への覚悟がにじみ出ていた。

 さほど長い内容ではない。夫への感謝と、産まれてくる子への期待。不安や悲しみなどは、一切記されていなかった。しかし、

──わたくしたちの子は、マツバさまの和子。この命に代えても、健やかにお産まれあそばすように。

 この一節を読むにつけ、胸の震える思いがする。再会を果たせぬままにこの世を去ることになるかもしれないという恐怖は、たおやかな女の心に悲壮な決意を固めさせた。

 顧みれば、マツバ姫の不在を埋め合うようにして寄り添ってきた夫婦だった。悪夢にうなされる夜も、アモイは妻のおかげで、イセホも夫のおかげで、どうにか乗り越えてきた。そういう意味では、戦友とも呼ぶべき関係だったかもしれない。

「今度の戦は、とても私一人の手には負えない難敵だ」

 手紙を畳んで懐の奥にしまい、墓に向かってささやいた。

「力を貸してくれ」

 廟の外に、土を踏んで近づいてくる人の足音。

 やがて扉が開かれ、晩春の朝日が差しこんできた。

「アモイではないか。かように早く、いかがした?」

 彼はゆっくりと振り返る。戸口には、薄色の羽織を肩にかけ、赤子を抱いて立っているマツバ姫の姿。

 おはようございます、と微笑んだ。宣戦布告のつもりだった。

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