第10章 立つ鳥
10-1
春日の差す外廊下を、弦楽の旋律が緩やかに流れていく。
いつかもこんなふうに、音の出所を探って邸内を歩き回ったことがあった気がする。しかしあれは、王宮の奥御殿の出来事ではなかった。花咲く季節でもなかった。確か穏やかな秋晴れの、
もちろん今日は頭痛も胸焼けもない。たやすく音源の部屋に行き着いて、アモイは開け放たれた戸口から中をのぞいた。そこに座って弦楽器を奏でている女も、面差しこそ似てはいるが、前のときとは別人だ。
「失礼します」
声をかけると、楽器の弓を引く手が止まった。
「マツバさま、少しよろしいでしょうか」
「かまわぬ。入れ」
薄色の打ち掛けを羽織った姫が、楽器を傍らへ置く。脇に控えていた侍女が、素早く進み出てそれを引き取った。
部屋の中央には揺りかごが置かれ、中では生後半年を迎えた娘──アルハと名づけられた一の姫が、まぶたを閉じて半ば唇を開いている。その無防備な顔を見ると、自然と口元が緩んだ。
「寝てしまいましたか」
「ちょうど今しがたな」
「間が悪かったようですね」
アモイは小声でつぶやいた。抱き上げて重みを確かめたかったが、柔らかな頬に指先を触れるだけで我慢する。
「やはり、この曲を聴くと安心するのだな」
「音曲は苦手だとおっしゃっていましたが、お上手ではありませんか」
「世辞はよせ。とてもイセホのようにはいかぬわ。幼き時分に稽古を怠ったツケを、今さら払うことになるとはな」
姫はそう言って、薄く笑った。
こんなふうに当たり前に故人の名を話題に載せられるようになるまで、半年という期間は長いのか、短いのか。一方にとっては、片割れとも言えるほどに近しい存在だった従姉。もう一方にとっては、結ばれてわずか一年ばかりで永別することになった最愛の妻。互いに心の傷を推し量り合いながら、とうとう冬を越してしまった。しかし彼女の忘れ形見が、二人の娘として健やかに育っている以上、後ろを振り返ってばかりはいられない。
マツバ姫の耳には再び銀の環が光り、髪の毛も肩を包むほどには伸びてきた。長旅で痩せ細った身体はまだ元どおりとはいかないが、食欲はあるようだ。イセホとよく似た容姿ながら、対照的に頑健な身体。今のアモイには、それが何よりの救いだった。
「ユウ。向こうの部屋に、寝かしつけてくれるか」
「はい」
侍女が返事をして進み出る。慣れた手つきで、しかし恭しげに揺りかごから赤子を抱き上げるさまは、袖なしの胴衣を着て木刀を振り回していた童女とは別人のように大人びている。もちろん無闇にアモイをにらみつけるようなこともせず、失礼いたします、と言って廊下へ出、静かに木戸を閉じた。
「そう言えばあいつも、いつだったか、あの曲を練習していたような覚えがあります」
「ああ、笛でな。吹けるようになったら聞かせてもらう約束であった」
「吹けるようになったのですか」
「さて。肝心の笛を手放してしまった上は、確かめようもない」
「今一度、買い与えてやってはいかがです。ああして、子守もよくやってくれている。褒美をやってもよいのではないでしょうか。そう……もうすぐ、
さりげなく水を向けてみるが、姫は表情を変えずに、そうだな、と軽く受け流す。
「あやつが欲しいと申すならば、わたしに異論はない。それより、何か用があって参ったのではないのか」
「はい、ご報告がいくつか」
「報告」
「一つは、かねてお話ししておりました東方の人事の件です。
「そうか。宮軍の総督を任ずるのだったな」
「はい。就任式の準備も進めております」
「あの頑固者のことだ、前線に残りたいと駄々をこねたのではないか」
「ええ、まあ」
「説き伏せたのか」
「説き伏せたと申しますか……バンケイが、四関の主の座を賭けて、将軍に勝負を挑んだそうです。勝負と言っても、酒の飲み比べですが」
「なるほど、将軍も酒豪とは言え、齢も齢。飲み負けてのご栄転というわけか」
「ご明察のとおりです」
バンケイが国境を守り、
もっとも、
彼を熱狂的に支持していたはずの民衆が、なぜ急に手のひらを返したのか──おそらくは今まで息を潜めていた政敵の工作によるものだろう。アモイの推測に、マツバ姫も頷いた。
「もしやマツバさまには、その政敵の見当がついておられるのですか」
「いや。だが、これまでのかれの行いを顧みれば、国外のみならず国内にも、陰ながら恨みを抱く者は数えきれまい」
「公子が政権を握ってから、十年余りになりますか。その間、虎視眈々と時を待っていた者たちが、ついに動きだしたと……」
「そなたも気をつけることだな。権を持てば恨まれるは世の習い、そのうちに誰ぞに刺されぬとも限らぬぞ」
アモイを権力の座に就けた張本人が、ぬけぬけと言ってのける。「お人が悪い」と苦笑いしつつ、政敵という言葉からふと思い出して話題を転じた。
「そう言えば、テイネの
「そなたへの恨み言をか」
「いや、そうではなく」
「冗談だ。ご出家の件であろう。先般、便りを受け取った」
「となると、やはりご決意は固いのですね」
「一の若の臨終に立ち会ったときから、すでに心は決まっていたのであろうよ」
マツバ姫は少し眉根を寄せて、何かを思うように宙の一点を見つめる。
医者の予見どおり、ウリュウ・シュトクは北部の小さな町に幽閉されたまま、年越しを待たずに病死した。折しもアルハ姫誕生の祝賀に、国中が沸いているさなかのことだ。実母のたっての希望により葬儀は密やかに執り行われ、マツバ姫もアモイも、実弟であるハルさえ招かれなかった。
三月ほど経ってから墓参りをしたが、王家の嫡男のものとは思えぬ簡素なもので、さすがに憐れみを禁じえなかった。とは言え罪人として名が知れてしまった以上、人目を引くような墓標を設ければかえって荒らされる恐れもある。何より母であるテイネの御方の意向を覆すような理由を、アモイは持ち合わせていなかった。
「ご子息の菩提を弔いながら静かに暮らしたいというお気持ちは、尊重すべきかと思いますが。しかし正直に言えば、近ごろは御方さまが
アモイの念頭には、半年前に見た義弟の取り乱した様子が浮かんでいる。太い腕に我が娘を抱きしめながら、何やら見えないものに怯え、妻に背を撫でられていた。その後、帰還したマツバ姫の姿を見てすっかり元気になり、アルハとルカの初対面にはしゃいでいたが、あの調子で城主として独り立ちなどできるのか。
だが久々に再会した義姉の目には、また別の印象があったようだ。
「子離れの時機というものよ。子どもとばかり思うていた東の若が、父として我が娘を慈しむさまに、テイネどのも何か感じるところがおありなのであろう」
「隠棲は一の若君のためだけでなく、東の若君のためでもあると……?」
「さもなくば、愛しき我が子とも孫娘とも離れて暮らさんなどと、御自ら言い出されるはずはあるまい。賢しきおかたなれば、信頼に足る者を補佐につけて、遠くから見守るおつもりであろう。案ずるには及ばぬ」
断定的な口調に言い知れぬ懐かしさを覚えて、不意に胸が詰まった。アモイが抱く疑念や気がかりに、主人はいつも明快な答えをくれる。西陵の城主であった彼女と腹心であった自分との、そんなごく当たり前の日常が、すぐにでも戻ってきそうな気がした。
しかし──。そう現実は甘くないという予感が、アモイの口を重くする。
「報告は、それで終わりか?」
「あ、いえ、最後にめでたい話をもう一つ」
「勿体をつけるな。タカスの件であろう。祝言の日取りが決まったか」
「追って正式に知らせがあるはずですが、月明けの吉日に襲堰にて執り行うと」
「ほう。都でやらぬというのは、花嫁側の意向か」
「そのようです。すでに離縁したとは言え、一の若が亡くなられて日も浅く、大々的に祝うのは遠慮したいと。そうでなくても、キサラどのにはいろいろあっての再婚ですから、常とは異なる気遣いがあるのでしょう」
「ふむ。まあ、タカスのほうも都合がよかろう。都あたりでこれ見よがしに宴を張っては、街中の娘どもが一揆を起こさぬとも限らぬわ」
「ごもっともです」
「祝いを送ってやらねばな」
「おおよその手配は済んでいますが、ぜひマツバさまからも一筆、祝辞を添えていただきたく」
「考えておこう」
「お願いいたします」
と頭を下げれば、用意してきた報告は完了してしまう。継ぐべき言葉が出てこない以上は、暇を乞うよりほかになかった。
しかし退室しようと木戸に足を向けたところで、
「前にも言ったが」
珍しく、姫の声が後を追ってきた。
「今後、
「それは……」
アモイは振り返り、部屋の中央に背筋を伸ばして正座する彼女に向き直った。
「一体、どのような意味でしょうか」
「そのままの意味だ。わたしのおらぬ間も、そなたは
「はばかりながら、それは、私の意に反します」
再び姫の前に戻り、正面に座った。まだしばらく時を伺うつもりでいたが、これ以上は先延ばしにできない。アモイは意を決して、言葉を継いだ。
「お忘れですか、マツバさま。かつて、襲堰の砦で交わした約束を。貴女がテシカガを連れて、敵地へ赴く前に」
姫の両眼が、一瞬、険しい光を帯びた気がした。しかし、まるでそれを自らかき消すかのようにうつむいて、約束、と鸚鵡返しにつぶやく。とぼけるにしても、彼女らしくないやり口だった。
「ご生還の暁には、今度こそ、この国の主の座をお引き受けくださるようにと。わかったと、貴女は確かに頷かれました。私はその約束を信じて、ずっとお待ち申し上げておりました。もちろん今もお待ちしているのです」
「……」
「それを今になって、政の話を聞かせるなとは。あまりにご無体なおっしゃりようではありませんか」
「無体はそなたのほうだ」
独り言のように、マツバ姫は吐き捨てた。それからおもむろに立ち上がり、窓辺へ歩み寄る。格子の隙間から差しこむ陽光が、薄色の打ち掛けをまだらに照らす。その衣は、イセホの遺品の一つだった。
窓の外には庭がある。折しも花壇の咲き満つる季節ではあるが、彼女が眺めているものはもっと遠くにある。庭園の奥に建てられた真新しい霊廟──この位置からは見えないはずだが、しかし間違いなく、視線はその方角に向けられていた。
「恐れ知らずの、身のほど知らずの、世間知らずの……
「何をおっしゃっているのです……」
「帰ってこなかったのだ、アモイ。生還しなかった者に、何を望むというのだ」
「マツバさま。貴女は、ここにこうして生きていらっしゃるではありませんか」
「先の王の娘、アルハの母、そして御嶺の君の妻としてのウリュウ・マツバならば、ここにある。しかし、そなたの心服していたあの娘は」
そこで彼女は話しやめ、あとはただ黙って庭の先をじっと見つめる。どれほど待っても、続きを聞くことはできなかった。
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