第10話 最期

 再び牢の内に戻った時には空は橙色に染まっていた。まだ月の影は見えないがもう時間の問題だろう。

「まったく困ったお方だな。アヤも。今日はめでたい祭りじゃというに。」

 ため息をついたキノエはガラスのような瞳をアヤに向けた。その背にははっきりとカゲロウのような翅がきらめく。キノエにかしずく者たちも彼女の屋敷で見知った者たちではあったが爪をとがらせ牙を光らせもはや隠さない。

「仕切り直しじゃ。皆の者、祭りは定刻通りに行うぞ。...アヤはその中で頭を冷やんじゃな。今夜の主役が誰か、ゆめゆめ忘れるではないぞ。」

 キノエたちが去り、牢にはアヤと二人になる。アヤの体にも固く冷たい鱗が浮かび上がる。アヤは膝を抱えてうつむいていた。

「アヤさん。祭りとはどうするんですか?」

 アヤは顔を上げた。真っ青な頬に透明の雫が流れる。マツバは薄い笑みを浮かべた。アヤは細い肩を震わした。

「海へと行くんです。そこで海の主様に...。」

「そうですか。」

 刻々日は沈んでいく。時間はもうほとんど残っていない。波の音が段々近づいてくる。また、あの暗い海に帰る時間が迫っている。

「アヤさん。私は死ぬはずだったんですよ、貴女に助けてもらった、あの日に。」

 努めてゆっくりとした口調。いまだ収まらない嘆きをなだめるよう、マツバは語り始めた。

「私はそれなりの商家の長男として産まれました。まあ、長男ということで親はそれなりに期待してくれてたんですけれどどうも私は商売というものが苦手でして。実家の店の方は弟に任せて親戚の店を手伝いに行くことになったんですよ。あの日、自分は家を出て、親戚のいる町へ向かう船へと乗りました。でも、途中で行くのが怖くなってしまいまして。」

 父の小言も母の慰めも弟の励ましもすべてが体に絡みつく荒縄のようで。痛くて重くてそれでもこれ以上失望されたくなくて。マツバはいつもただ静かに笑うだけだった。どれだけうまくいかずとも弱音も吐かず泣き言も言わず。何考えてるのか、分からなくて気味が悪い。そんなこと言われてもどうすればいいのかなんて分からなくて。流れを間違えてそれを変えるすべすら取りこぼして。気づけば息苦しい海の中だった。

「海に飛び込んだんです。」

 船には知り合いもおらず荷物も最低限の少しだけ。自分ひとりいなくなってもきっと誰も気づかない。…きっと誰にも惜しまれない。だって、自分は無価値じゃないか。流したはずの涙は海水に混じり誰の目に触れることもない。水の中じゃどんなに叫んでも声になることはない。伸ばした手が誰かにとられることもない。そう思ったのに。

「もう、生きなくていいと思ったんですけど貴女に会って初めて明日が楽しみになったんです。だから、地獄でも海の底でも私は幸せですよ。」

 アヤは気づけば泣き止んでただじっとマツバを見つめていた。人のものではない冷酷な瞳で。地面に重たい皮袋をするような音が牢に響く。体が太い頑丈な紐で縛られたように動かない。頭の中にいつかの澄んだ歌声が流れる。鱗に覆われた手がゆっくりと伸びてくる。あの日自分に伸ばされたものと同じもの。

「シあワセ?」

「あぁ...。」

 春の眠気のような重みを感じてマツバは目を閉じる。ところで自分が好きになったのは助けてくれた彼女か、共に過ごした彼女か、その両方か。あるいは、ただこの恐ろしい化け物の妖術にめられただけか。しかしそのどれであったとしてももはや意味はない。物語の結末は既に決まってしまったのだから。そう、この物語は昔話でお馴染みの言葉で締めくくられる。


 ’こうして彼は死ぬまで幸せでありましたとさ。めでたし、めでたし。’

 


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怪魚の入り江 ユラカモマ @yura8812

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