消えろイエロー

千住

消えろイエロー

 もう三か月くらいアダルトビデオを見ていない。

 月井つくい先輩はそっけない。まるで僕との間になんて、何もなかったかのように。


 大学に入学し、写真部を見学に行ったら男女比が半々くらいで驚いた。黙々とカメラをのぞく趣味なんて僕みたいな根暗野郎がするもんだと思っていたからだ。同じように考えていたであろう、似たような友達がすぐできた。

 月井先輩はその中でも僕の目を引いていた。黒いセミロングを真っ直ぐ流して、上品な服を着ていた。大人しそうに見えた。よく微笑む人だった。カメラにも詳しかった。話しやすかった。今思うと、同じ気持ちを抱いた男はたくさんいたに違いない。それがわかったころには、三か月経っていた。


「もう少し自然な感じの写真を撮りたいんだよな」

 岩田は言いながら、指で四角を作り、部室のテーブルに向ける。

「フォトコンに出すとなると、どうしても気取った構図になっちまう」

「仕方ないんじゃないの」

 僕は言いながらぼんやりお茶を飲んでいた。昼二時、講義の合間、過疎な部室。七月上旬の陽射しはそこそこ暑い。ブラインドを閉める。

「俺は自然さが欲しいんだよ! こう、日常を切り抜いたようなさりげなさ」

 僕は生返事する。岩田の、必要以上の凝り性には慣れっこだ。

「さりげなさと大胆さが要るんだよ。月井さんの写真みたいなさ」

 不意に月井先輩の名前が出、僕は言葉を詰まらせる。

「たとえばこういう構図のさぁ」

 岩田は机にあったチラシを引き寄せた。そして鞄から黄色いシャープペンを出す。黄色。

 黄色。動悸が激しくなってきた。脳裏を揺れる黄色の記憶。ぬめり。ゆらぎ。

「あのさぁ、差波さしなみ差波さしなみ?」

 岩田の呼びかけを無視し、僕は席を立った。黄色い残影にさいなみながら廊下を歩く。

 トイレの個室に籠ると、息も上がっていた。勃起していた。壁にもたれて、全身の緊迫が治まるのを待つ。

 五分ほど経ち、チャイムが聞こえたので個室を出た。まだ少し気分が悪かったが、講義に行かねばならない。鏡に映る自分の顔色が酷かった。

 部室を通りかかると、岩田は机の上を散らかすだけ散らかし寝ていた。黄色いシャープペンは片付けられていた。

 渡り廊下へ出る。その瞬間、点字ブロックの黄色が眼を刺した。ぶわり、暑さ以上の汗が噴く。眩暈を感じ、僕は歯を食いしばる。

 誰かが黄色いパーカーで通り過ぎた。押される自転車の反射板。女の子のヘアーピン。ビニール袋から透けるバナナ。

 こんな人ごみで呻き声をあげるわけにもいかない。僕は足元に目を落とした。誰かのハイヒールを飾る黄色いリボンが、嘲笑うように揺れていた。


 「呑み」。佐竹からただ一言のLINEが来ていた。僕はバイトの合間に「夜八時からなら」と打つ。七時半にバイトを上がると店の名前が書きこまれていた。

 指定された店に行くと、佐竹と岩田の背が見えた。僕はボックス席へ歩いていく。

 二人の陰から現れた長髪にぎょっとする。月井つくい先輩がジョッキを手にしていた。綺麗に談笑していた。あの夜と同じ、淡い黄色のワンピースを着て。

 先輩の隣しか席が空いていなかった。僕は仕方なくそこに。

「暑くなってきたし、ビールの季節よね」

 月井先輩はそう言いながら、ビールのページを開いたメニューを差し出した。僕は生返事で受け取る。

 本当に本当にそっけない。他の男への態度と変わりない。それが、肺の底をさらうような不快感を残していく。

 正面で話す佐竹と岩田の声がやたらでかい。僕は日本酒を物色しながら問う。

「お前ら何時から呑んでんの?」

「六時半」

 できあがっている訳だ。僕は苦笑する。僕が酒を頼むのにあわせ、二人もまたビールやらカクテルやらを重ね頼んだ。

「ほら先輩」

 届けられたビールをひとつ、月井先輩に押しやる岩田。月井先輩がはにかむ。

「えー。これ以上飲んだら酔っちゃうよ」

「大丈夫ですよ、先輩お酒強いですし」

 佐竹も佐竹で「じゃあ」と、何がじゃあなのか追加のつまみを注文している。

 ゆうるりと混ざり合う、酒と汗とつまみと煙草の匂い。欲望の匂い。やがて佐竹と岩田に自慢話が増えてきた。二人は互いを立てる素振りを見せながら、視線はずっと月井先輩にやっている。先輩の反応を引き出そうと、話の中身も身振り手振りもどんどん大きくなっていく。

 ふと、月井先輩が唐揚げを取ろうと前かがみになった。長い髪が肩から落ち、ジョッキへ入りそうになる。

 佐竹と岩田が同時に手を伸ばした。月井先輩の髪の前で、二人の手がぶつかる。

 そこに運ばれてくるチーズの盛り合わせ。黄色の濃淡を描くタンパク塊。

 僕は我慢ができなくなり、リュックをつかんで立ち上がった。

差波さしなみくん?」

 月井先輩の声が聞こえる。体調が悪くなりましたお金はあとで、みたいなことを言い、僕は店から飛び出した。勃起を隠すため、短めのシャツを無理やり真下に引いた。

 僕は唸りながら目をこすった。頭ががんがんする。暗い方へ暗い方へ歩いていく。

 いくら歩いても黄色の残影が消えなかった。股間が揺れて歩きづらい。あまり呑んでないのに吐き気もひどい。僕は排水溝の上に屈みこんだ。

「差波くん」

 月井先輩の声がとどめだった。僕は胃の中のものを全部吐き戻した。

 吐いてる間ずっと、月井先輩が僕の背をさすっていた。何度も何度もえづき、むせこみ、何分後か、やっとやっと声が出た。

「月井先輩」

「なぁに?」

「触らないでください」

 涙があふれてきた。月井先輩のワンピースの黄色が、視界の端でにじんでいる。

「ひとの体を、心を、奪っておきながら、あと出しで『彼氏がいる』なんて卑怯ですよ。もう僕に、構わないでください……」

 新入生歓迎会のあの夜、ふるえる手でめくったワンピースの黄色。下着の黄色。どうしても忘れられない。消えろ癒えろと叫んでいるのに。

 月井先輩は僕をそっと抱きしめた。「クソビッチめ」そう言ってつき飛ばせたらどんなにいいだろう。たぎる体と怒るプライドのぶつかりあいが苦しくて、僕はいつまでも泣いていた。

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消えろイエロー 千住 @Senju

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