#お友達から始めませんか

海野しぃる

#お友達から始めませんか

 ここじゃないどこかに行きたい。

 祖父が死んで、親戚中がピリピリし始めた時、僕はそう思った。

 祖父は親戚の中では一番僕を可愛がってくれていたと思う。みんなそんなに金が欲しいのかよ。

 ここじゃないどこかに行きたい。

 学校で友達に話を合わせることに腐心している時、家に帰っても一人の時、誰からも顧みられてないと感じた時、僕はそう思っていた。

 そんな僕の願いを祖父は知っていたのだろうか。祖父の遺言で、一夏の間、僕は祖父の友人の家に預けられることになった。


「肝盗村へようこそ零斗れいと君。私は有葉あるばみどり。しばらくは此処を君の心のふるさとだと思って、ゆっくりしていくと良い。時間と書物と農産物の他に何も無いようなところだがね」


 田舎のバス停に降り立った僕を出迎えたのは、トレンチコートを着た背の高い女性だった。田舎町には似合わぬ洗練された雰囲気の女性だ。どんな老人が出てくるかと思っていたから驚いた。


「はい、しばらくの間はお願いします」


 僕は大人しく頭を下げる。

 遺産の問題で揉めている実家から、わざわざ祖父の遺言に従って僕の身柄を預かってくれた人だ。感謝してもしきれない。真面目に祖父の遺言を聞き入れたのはこの人ぐらいじゃなかろうか。


「礼儀正しい若者だ。君の祖父とは大違いだね。素晴らしい」

「は、はあ……そうなんですか?」

「あいつと私は悪友という奴でな。昔は良くない遊びも一緒にしたものだ。君は今幾つかな?」

「十六歳です」

「十六! なんてこった平成生まれじゃないんだね君!」


 僕は苦笑いを浮かべる。ヘイセーなんて歴史の教科書でしか聞かない言葉だ。

 

「いやあ……面白い話を聞けそうだ。私の家まで行こう。田舎は土地が安くてね、自慢じゃないがちょっとした御殿のようになっているんだよ。すごいぞ」

「流石小説家ですね。印税とかって儲かるんですか?」


 有葉さんは意地悪そうに微笑む。


「今まで君はお小遣いで小説を買ったことが有るかい? あるいは周囲で習慣的に本を買うような人間に会ったことは? 家に書斎は?」

「……無いですね。でも祖父の家には本が沢山ありました。読みきれないって」

「ふふ、奴らしい。でもさ、それなら儲かる訳が無いって思わないか。小説家が儲かるなどというのはこの国が豊かだった時代の幻想さ」


 有葉さんはそう言って肩を竦める。いちいち芝居がかった人で、美人が台無しだと感じた。

 それから僕達はろくに整備もされていない田舎道を歩き、有葉さんの家へと向かった。


     *


「酷く歩きにくかっただろう。都会育ちの零斗君には酷だったんじゃないか? 此処十年近く公共工事が無くてね。業者もとっくに潰れてて、インフラなんて誰も整備できないままさ」

「函館は都会じゃありませんよ」

「いやいや、道が整っていて街の至る所にバスが通り、郊外には大きな書店もある。あの蔦屋書店が! 有るんだぞ!」

「は、はぁ……?」


 僕は時代劇にでも出てきそうな御殿に案内された。

 その一室で有葉さんに出してもらったコーヒーを飲み、旦那様が買ってきてくださったというスイカアイスに舌鼓をうつ。

 書店以外にも沢山のものがこの村には無い気がするのだが、有葉さんは書店が無いという文句しか言わない。必要ないのだろうか。


「何故こんなところに住んでいるのですか?」

「狭い都会では手に入らないものを手に入れる為だよ。自然の中で、どこからかともなく聞こえる声に耳を傾け、アイディアを手に入れる訳だ。それに田舎でもwifiは使える。出版社に原稿だって送ることができる」

「自然の中で聞こえる声に耳を傾ける……ですか」

「ああ、虫のさざめき、森の声、海鳴り、星の瞬き、この村には全て有る。原始人類を霊長たらしめた真なる叡智の全てがね……」


 もしかしてこの人やばい宗教でもやってるんじゃないだろうか。言っている事がよくわからない。

 狭苦しい都会などとこの人は言っているが、生まれた時からそこで育った僕からすればそうは感じない。

 僕の住む治安の良い区域は他所の住民が入ってこれないように壁で囲ってあるし、一時間に何本かは電車が通っていて便利だし、二十四時間買い物もできるし、病気になったらすぐに病院まで行ける。この村にそういったものは無い。それが怖い。


「……はあ、理解できてないな。とはいえそんなこと言ってもすぐにはわかるわけもないか。なんにせよ、此処には君が十年没頭しても足らぬ量の本が有る。それで君のおうちの問題が解決するまでゆっくり時間を潰したら良い。wifiも有るし、ネットにはつなぎ放題だ。もし夏休みが終わっても問題は無い。VRを用いた通信教育でも高校の授業には出席した扱いになるんだろう?」


 ネットに繋がったところで、繋がりたい相手が居る訳でもない。

 両親の顔なんて見たくもないし、学校の友人とも今は話したくない。

 それに実業家の祖父が死んで我が家が揉めていることなんて、きっと友人たちも知っている。我が家の醜聞を広めるような真似はしたくない。

 違うな。そもそも、僕は彼らを友達などと……。


「どうした零斗君? 随分ぼーっとしているみたいだが……」

「い、いえなんでもありません。バスに揺られて少し疲れているのかもしれません」

「ああ、そうか! それは気づかなかったよ、申し訳なかったね」

「すいません。少し休ませてもらえますか?」

「かまわないよ。君の部屋に案内するからついてきてくれ。元気になったらこの辺りの土地を見よう。君が望むならば飲み屋にでも行こうじゃないか。そうしたら君と同年代の子供も居るしねぇ……」


 何故僕と同年代の子供達が飲み屋に居るのだろう。田舎怖い。

 そんなことを考えながら僕は案内された部屋で眠りについた。


     *


「零斗、零斗、零斗君」


 最初に三回名前を呼ばれて目を覚ます。

 聞き覚えの無い声だ。一体誰だ? 有葉さんか? それともその旦那さんか? どちらも違う。女の子の声だ。有葉さんに娘がいるなんて話は聞いていない。

 そもそも僕は名前を呼ばれるのが嫌いだ。

 零斗れいとという名前は、からうつわみたいで、そんな無意味っぽさそうな名前をつけた親に呪われている感じがする。

 特に連呼されると、英語の授業の時にからかわれた(すぐに飽きられたとはいえ)記憶が蘇って、我慢ができなくなる。

 周囲に合わせるので必死な人間には、冗談でもノロマlate扱いが気に障った。


「誰ですか?」


 不機嫌を隠さずに応える。返事は無い。

 人を呼んでおいて無視とは困った相手だ。

 放っておこうか。気味が悪い。だが、このまま聞かなかったことにするのも足の裏に張り付いた米粒を放置するような気分の悪さがある。

 もう少し相手の様子をうかがってみよう。


「僕を呼びませんでしたか?」


 やはり返事は無い。

 念のために身体に内蔵されたスマートチップを起動して、AR画面から確認してみるが、特に通話中の表記は無い。

 時刻は午後五時。外は暗くなり始めている。


「何か用事ですか? 何もないなら呼ばないで下さい」


 これで最後にしよう。 

 そう思って、三度目に問いかけた時、もう一度少女の声が聞こえた。


「こっちに来て」


 布団から身体を起こすと、閉ざした筈の僕の部屋の扉がいつの間にか開いている。

 有葉さんが開けていったのだろうか?

 いや、違う。まだわずかに扉が揺れている。誰かが開けたばかりなんだ。

 僕は少し迷った。有葉さんが悪戯した訳じゃないだろう。じゃあ有葉さんの旦那さんだろうか? この家に来てからまだ挨拶もできていないし、後で会わせてもらわなきゃ……。


「こっちに来て」


 また声だ。

 今度は開け放たれた扉の向こうから聞こえた。

 誰もいない筈の場所だ。


「こっちに来て、お願い。貴方しか居ないの」


 女の子の声でそう囁かれると、胸が高鳴る。

 奇妙とか、怖いとか、そういう感覚は不思議と無い。まるで魔法にでもかけられているようだけど、自分が選ばれた存在なのかもしれないという高揚感がそういう邪魔な感覚をかき消してくれているのだろうと考えた。

 見たこともない広大な和風の屋敷の中を、僕は迷うこともなく歩き始める。

 行き先がわからないなどということは無かった。

 声が教えてくれたからだ。

 草履を履いて中庭へと出る。


「ここよ、零斗」

 

 中庭に出てくると、目の前には大きな蔵が立っていた。

 蔵の扉に鍵はかかっていない。不用心だ。


「ここに入れば良いのかい?」


 返事は無い。了承とみなして、僕は蔵の扉を開けて中に入る。

 消毒薬のような香りが通り抜ける。

 夏だというのに蔵の中はひんやりとしていて、不思議なことに乾燥していた。

 天窓から入ってくる日光で、蔵の中がぼんやりと見える。

 青銅の三面鏡、馬面の男の絵、何かわからない生き物の標本、闇の中で赤く輝く小箱、黄金で出来た蛸頭の怪物の像、奇妙に捻くれて人の赤子に良く似た形の干し草。

 わけの分からないものが大量に有る。


「こっちに来て」


 また声がした。今度は今までよりハッキリと。

 僕は声の方へと歩き出す。

 そこにあったのは石棺だった。

 大理石かなにかだろうか? 猫の彫刻がいくつも施されて、まるでそこだけが猫の集会場になっているような奇妙な棺だ。

 猫達はいずれも棺に向けて牙を剥き爪を立てる物騒な姿で彫刻になっている。

 彫刻の一つと目が合って、僕はふと恐ろしくなる。その猫は黒い猫で、目を憎悪でギラギラさせながら棺に噛み付いていた。そんなところに噛み付いたところで、中のものを傷つけることができるわけでもないのに、それでもそんなことをしているなんて、果たしてどれほどの恨み憎しみが有ったのか。

 僕にはとても理解できない。

 理解できない憎悪、理解できない暴力、理解できない悪意。自らを省みることもなく、その棺に食らいつくことで全てを忘れようとしている哀れな生き物だ。傷跡を残すことすらできないだろうに。

 だけどその滑稽な姿が少し恐ろしくもある。


「その棺を開けて、私はそこに居るの」

「この中に? 閉じ込められているのかい? どうやって僕を呼んだんだ?」

「どうやって呼んだかなんて気にしなくて良いの」


 そう囁かれると、背筋に冷たいものが走る。

 頭の中に霞がかかる。

 僕は何故ここにいるんだっけ。僕は誰と話しているんだっけ。


「私もここじゃないどこかに行きたい。貴方の力を貸して。そうしたら、貴方と私で対等のお友達になりましょう? それはとっても素敵だと思うわ」


 その言葉だけはやけによく聞こえた。

 僕だって行き場を探している。やりたいことを探している。でも見つからない。

 何も出来ずにこうやって田舎に来て、フラフラとこんなところに迷い込んでいる。


「そう、そのままこっちに来て。私に貴方の――」


 そもそも此処は一体何なんだ? こんな蔵を持っている有葉さんは何者なんだ? わからないことだらけだ。いや、違う。わからないものと言えば目の前の――


「何をしているんだ? 入るなとは言わなかったが、入って良いとも言っていないよ」


 振り返ると蔵の入り口に有葉さんが居た。あまり機嫌が良くなさそうだ。


「ご、ごめんなさい……でも、声が。この中から女の子の声がしたんです!」

「声? 気の所為だと思うけど……」


 確かに蔵の中は静まり返っている。


「ああ、そうか、そういう……」


 有葉さんは不機嫌そうに棺を睨み、舌打ちする。

 それから僕に向けて優しく微笑む。少しドキリとしてしまった。悪いことだと分かっているのに。


「ほら、中を見るかい? これは一昔前の貴族の棺さ。今は何も入っていないよ」


 そう言って棺の蓋を開けてみせる有葉さん。

 確かに中には何もない。


「さて、それはそれとしてこの蔵には貴重な物が入っている。壊したりすると大変だから、気をつけてくれ」

「は、はい……」

「暇ならば書斎に行くか、山を歩いてくると良い。もう日も沈んだ後だから危ないかもしれないけれど……まあそれならそれで私が案内してあげよう。さ、行くよ」


 そう言って有葉さんは僕を連れて蔵の外に出た。


     *


 半ば強制的に有葉さんに外に連れ出された僕はへとへとになるまで夜中のキイチゴ摘みに付き合わされた。夜になってからわざわざキイチゴを摘む理由なんて無いし、僕を蔵から引き離したかったんだと思う。

 暗くなった森は静かで、車の前をエゾシカが当たり前のように走る奇妙な場所だった。シカたない連中だねえとシカだけに、シカだけに、と笑いながら連呼する有葉さんはなんかもう本当に駄目な感じがした。疲れた。


「あれは……何だったんだろう」


 家に戻った僕は布団に寝転がりながら天井を眺める。

 もうすっかり夜だ。窓の外からは蝉やフクロウの鳴く声が聞こえる。


「……あれ?」


 カーテンの向こうに月明かりを背にした影が見えた。僕と同じ年頃の少女の影。あれが先程の声の主だろうか。

 待て、結局あの棺の中には誰も居なかった筈だ。じゃあ、あの娘は誰だ? 本当は蔵の外に居たのか? それとも有葉さんが棺を開けた時にはもうとっくに逃げ出していたのか? だから会いに来てくれた? 馬鹿げている。本当に馬鹿げている。馬鹿げている筈なのに……僕は……。


「君は……」


 僕はカーテンへと近づく。不思議と恐れは感じなかった。

 僕は期待していた。このカーテンを開けた向こうにいる誰かの存在を。

 勢い良くカーテンを開ける。ようこそ昨日と違う今日。今日と違う明日。


「居ない……居ない?」


 窓の向こうに広がっていたのは冷たくて見ている瞳が凍りつきそうな蒼い月明かり、赤や青や白の様々な星が煌く夜空。

 それは確かに僕の知らない世界だ。

 もしかしたら、あの星にこそ僕の知らない世界があるのではないだろうか。

 そんなことも思わせてくれる未知の風景。人の存在を突き放すような自然だ。


「確かに、あの影は居たのに」


 だけど、あの娘は居ない。

 ただその一点だけで、こんなにも美しい夜空が虚しく感じられた。

 僕が本当に見たかったものはこんなものじゃない。


「――来て」


 耳元で声。

 僕はビクリと震えて思わず振り返る。あの蔵で嗅いだ消毒薬のような香りが漂う。

 今度は答えずに、僕は布団を被って思考を停止した。

 薄れ行く意識の中で、瞼の裏に、見たことも無い白い肌の少女の姿が浮かんでいた。金の髪に白い肌、それに口元から覗く八重歯。

 同じ年頃だろうか。ひどく愛らしい女の子だった。

 会いたいなんて思ってしまった。


     *


 翌朝、キイチゴのジャムをたっぷり塗ったトーストとお手製のコーヒーで、僕はごきげんな朝を迎えた。

 夢を見たことを素直に話すと、有葉さんは不思議そうに首を傾げる。


「西洋風の顔立ちをした女の子? 今の日本じゃ確かに見ないねえ。昔は札幌のあたりに沢山居たんだけど。君は会ったこと無いのかい?」

「今時外国人なんて見ないよ。東京じゃあるまいし……」

「言われてみればそれもそうなのか? だけど昔は札幌とかにも色んな国から留学生が居たし、観光客も中国や韓国の辺りから結構来ていたんだぜ?」

「本当ですか?」

「本当だとも、駅前のビッグカメラとか、免税レジに観光客が行列を作っていたもんさ」

「駅前ですか……祖父と遊びに行きました。普段は仏頂面なのに楽しそうでしたね」

「あいつ、好きだったからねえ……あの街が」


 有葉さんは懐かしそうな顔をする。

 

「今日は薪割りを手伝ってもらうよ。働かざるもの食うべからずってね」

「あの、有葉さん」

「どした?」

「旦那さんはどちらに?」

「ああ、夫なら多分また原稿さ。私と違って一度集中すると出てこないタイプだからねえ。私より社会不適合レベルが高い」

「社会不適合レベル」

「これが高いほど、人間の社会を踏み出してしまう。善・悪・要・不要に関わらずね」


 となると、僕は表面上なんとかやっていっているから不適合レベルが低いんだろうか。誰にも注目してもらえないとも言うけど。


「あはは、なんだかそれ分かります。僕も社会不適合レベル0って訳じゃないので」

「かもしれないねぇ」


 有葉さんはクスクスと笑う。

 なんだか仲間と認めてもらったようで、少しだけ穏やかな気持になれた。

 胸につかえる奇妙な感覚を忘れられるような、そんな感じだ。

 ここには僕を見てくれている人が居る。僕を認めてくれる人が居る。


「でも、それなら普通の社会に居た方がきっと良いよ。どうしても辛くなった時だけ遊びにおいで」

「どうして?」

「魔女のおばさんらしく偶には説教をしてあげようか。社会の外に居る者の敵は社会の外にしか居ない。生きている場所が違うんだからね。逆に社会の内に居る者は社会の内で戦わなくちゃいけない。しかも逃げ場所が無い。君よりも辛い思いをしている普通の人は山ほど居るだろうさ」

「……でも、だからって俺が嫌な思いをしなかった訳じゃありません」


 有葉さんは優しく笑って僕の頬をつつく。


「だけどそれは君の敵じゃない。君を狙っているんじゃなくて、異物を狙っているだけ。君は比較的普通だから、きっと本でも読んでヘラヘラフラフラしていれば躱せるよ」

「そういう……ものですか?」


 なんだか子供扱いされているようで不満だ。

 だけど、実際そうして生きてきたことを言い当てられたようでもあり、反論ができない。


「そうさあ。午後はまた原稿しているから、適当に過ごしてて頂戴。日が沈む前ならば出歩いても良いよ。だけどあの蔵には入っちゃ駄目だよぉ? 危ないから」

「わ、分かってますよ!」


 上ずった声が出た。まだ執着が有ることがバレバレだ。

 有葉さんはそれを知ってかわざとらしく口角を上げる。


「じゃあ良いんだ。危ないからね」


 知っている。あれは危ないものだ。

 だけど僕は――あれについてもっと知りたいと思っていた。


     *


「……吸血鬼」


 午後。僕は有葉家の書斎で旧い伝承について書かれた本を探していた。

 家の蔵に有ったものならば、きっと書斎に何かの資料が有る筈だ。知りたい。もっとあの棺のことを、少女のことを、この家に何が隠されているのかを。

 手札を一枚一枚増やしていくように、あの奇妙な棺と少女の声に対して調べ始める。

 まず最初に僕が連想したものは吸血鬼だった。僕の何かを求めていたけど、あれは血だったんじゃないだろうか。

 窓の外を飛んでいた大きな蝙蝠のことも気になる。あの青い瞳に金の髪もなんとはなしにそういう西洋風の怪物をイメージさせる。

 勿論、それはあの声が本物だった時の話だ。

 祖父が死んで、親戚同士の醜い争いを目の当たりにして、孤独な思春期の少年の心が生み出した幻という可能性はある。

 スマートチップのAR機能が誤作動を起こしてしまっただけかもしれない。チップの整備ができなくなって、そういった不具合により発狂してしまった人も居るという噂を聞く。


「んん、少年」


 ねっとりとした男の声。きっと有葉さんの旦那さんだ。


「は、はい!?」


 慌てて振り向こうとすると、頭の上に手を乗せられる。白檀の香りがした。

 首を動かすことができない。すごい力だ。本当に人間なのか?

 好奇心と恐怖心で僕の心臓が大きな音を立て始める。


「始めまして。この家の主だ。君が零斗君だね?」

「は、はい……」


 わしゃわしゃと頭を撫でられた。手を離してもらったので振り返ると、人の良さそうな眼鏡のお兄さんがニコニコと笑っている。目の下にクマが出来ているが、それでも朗らかだ。


「そうか……君の祖父とは夫婦揃って仲良くさせていただいていた。君は本が好きなんだね。お祖父さんによく似ているらしい。地元の子とは飲み屋で会うんだが、そもそも教科書以外の本を見ないと聞くからね。教科書は良いぞ、人類の英知がそこにある」

「いえ、その、僕は……」


 僕の話を聞く雰囲気もなく、お兄さんは自分の話を続ける。


「何やら熱心に調べているようだから、少しだけ教えてやろう。お前が声を聞いたというあれはな。吸血鬼などではないぞ」

「は、はい……?」

「しかし……何故君だったのか。逆に何故あの中で彼女が呼んだのか。わからないことは多いねえ実に多い。そこで俺は君を使ってその謎を調べようと思う」

「あ、あの、一体どういうことで――」

「――はいこれ、蔵の鍵」


 彼は酷く無造作に俺に鍵を渡した。


「え、あの、これ……!」

「君が開けないと意味が無いんだよ。呼ばれたのは君なんだから。そりゃあ君以外の相手には顔なんて見せないだろうよ」

「それはどういう……」

「今晩十二時過ぎに蔵に行け。あの女に見つからないようにしておいてやる」

「なんで僕に?」

「だって絶対に面白い話の種になるぞ。それじゃ」


 それだけ言い残すと、名前も教えてくれない彼は書斎からふらりと姿を消した。


     *


「……どうしようかな」


 鍵を握りしめながら、僕は自分の部屋の布団に寝転がっていた。

 外では燦々と日が照っている。

 時折エンジンと猟銃の音が聞こえる。鹿狩でもしているんだろうか。

 この鍵であの蔵の扉を開けたら、もう一度あの娘に逢えるだろう。

 鈴の音の声の人に。僕に知らない世界を見せてくれる人に。一体どんな娘なのだろう。きっと彼女なら僕の話を分かってくれる。僕の感じているどうにもならなさを共有してくれる。

 

「怖いな」

 

 だけど僕は笑っていた。

 居ても立ってもいられない。

 今すぐに彼女の下へと駆け出したい。

 でも呼ばれていない。あの男の人と約束した時間でもない。けど知りたい。抑えきれない。

 彼女はこれまでに何を見たのか。彼女はこれまでに何を聞いたのか。そこからどういう過程で僕と同じようなことを考えるようになったのか。

 そうしたら、僕のこの恐らくありふれているのであろう思春期の憂鬱にも、彼女との間に見つかる差異の中から、意味や価値を見いだせるかもしれない。

 親の言いつけを破って無軌道な真似をする学友を何時も腹の底で笑っていた。そんなことをして何になるのかと。

 何時も良い子でいようとした。世間からは顧みられぬクラゲのような存在でいいと。どこにも適応できない自分をそうやってそれっぽくごまかして生きて、本当の自分は違うんだという妄想に縋ってた。

 会いたい。

 あの棺の中の少女に会いたい。

 それで一言だけ分かると言ってもらいたい。

 それができたら、きっと僕は自分が特別だと胸を張ることができる。

 僕に普通を求めない場所。それは与えられるものじゃなくて、僕の意思と僕の足でたどり着くべき場所だ。


「……よし」


 不思議なことに、そうやってあの娘と僕自身のことを考えていたら、僕はとびきり頭が悪くなっていて、居ても立ってもいられずに部屋を飛び出していた。


     *


 蔵の中の棺は静かだ。声の一つも聞こえない。もしかして有葉さんが何かしたのか? それともやっぱりあの声は僕の幻聴なんだろうか。

 僕は適当な棚を動かして蔵の扉を開かないようにしてから、棺に近づく。

 

「僕は零斗です。ここにいます。あなたはそこにいますか?」


 返事は無い。

 それでも棺へとまっすぐに近づき、蓋に手を触れる。

 返事は無い。

 もしかして僕のことなど呼んではいないのかもしれない。

 有葉さんの旦那さんに担がれたのだろうか。

 もし見つかったら怒られるだろうか。

 ここから追い出されてしまうだろうか。

 だからどうした。そんなのくそくらえだ。僕は僕の手で僕の居場所を手に入れる。あの娘とならそれができる気がする。


「居るなら……姿を……!」


 そう呟いて、細やかな猫の彫刻が施された棺を力任せにこじ開ける。

 重たい石の蓋がゆっくりと開き、中にあったものが顔を出す。


「……っ!」


 それはカサカサに乾いた女の子の亡骸だった。僕と変わらない年頃だ。

 死化粧を施されて静かに横たわっている。

 葬式の会場で嗅いだ死臭が鼻の奥に滑り込んできた。

 最悪だ。僕の居場所になってくれる人は皆死んでいる。


「満足したかな? 零斗君」


 有葉さんの声だ。少し怒っているのが分かる。いつの間にか蔵の中に現れて、僕の方に歩いて近づいてくる。


「有葉さん……これは……」

「あの後、強めに封じたから何もできなくなっているのさ。君を呼ぶことも、己の姿を美しく偽ることも」


 有葉さんの声が遠い。ぼんやりとして話の内容が頭に入らない。

 僕の視線は少女のミイラに注がれていた。

 化粧の下から茶色く乾いた肌が覗く。金色のかつらもこの蔵に運ばれている間にずれてしまったのか、不格好だ。

 高鳴っていた胸の音が遠くなる。

 欲しかったのはこんなものかと、遠くで僕が笑っている。

 大した才能も無い癖に大それたものを求めるからだと、遠くで僕が笑っている。


「そんな、有葉さん……これは……こんなの……」

「それが君の見た少女の本当の姿だ。数千年前の女王のミイラ、人間の世界からこぼれ落ちた旧い世界ダークユニバースの遺産だよ」


 眼球のあるべき場所に入っているガラス玉の義眼が僕を見つめる。

 少女の透き通った瞳が、僕を見ている。


「さあ、部屋にお帰り。その名前の通りに、こぼれたものをすくおうなどとは考えてはいけない。君のような普通に育った子供が、私達の世界で暮らすべきではないのよ」


 その言葉でハッとする。振り返り、有葉さんの顔を見上げる。

 実の母親よりも優しい顔に見えた。


「零れたものを……そう言う意味だったんですね、僕の名前」

「優しい名前だろう?」

「てっきり語感だけでつけられたんだと思ってましたよ。ますなんて字、どうして使ったのか教えてくれなくて困っていたんですよ」

「きっと、人助けなんてしてほしくなかったんだろうさ」

「……本当に馬鹿な人達だ」

「はい?」


 その時、なぜだか恐ろしいという感情は湧かなかった。腰を抜かして逃げ出すこともなく、僕の右手はそのミイラの少女の手をつかむ。

 僕を守るのではなく、僕を使って何かを始めようとしている君と、僕は一緒に生きてみたい。


「君に手を貸すよ」


 信じられないことに、その手はまだほんのりと温かい。

 ――いや、違う。これは温かいんじゃなくて……僕の手が冷えているんだ。


「零斗君!?」


 異常に気がついた有葉さんが駆け寄ってきて、僕を少女の亡骸から引き剥がす。

 だがもう遅い。

 右腕の毛穴の一つ一つに針をねじ込まれるような激痛。干からびて裂けていく肌。そこからは血も流れず、風が通り抜ける冷たさだけが痛みに混じって伝わってくる。

 骨と皮が張り付いて、ミイラのようになってしまった右腕を見て、僕は微笑む。


「何をしているんだい!?」

「さあ……これが、きっと彼女の欲しいものだったんじゃないですか?」

「馬鹿者! 死ぬところだったんだぞ!」

「ええ……おかげで助かりました。有葉さん、貴方が居なかったら多分死んでたんだと思います。貴方が居たから腕一本で済んだ。安い、とても安い」


 痛みはまだ消えない。吐き気がこみ上げてくるし、視界も揺れている。

 だが棺の中の彼女はこちらを見て、わずかに口角を上げている。もう干からびた死体じゃない。相変わらず血色は悪いが、確かに生きている。何か、僕に向けて話しかけようとしている。


「約束は果たした。僕はまだ生きている。さあ、次は君が約束を守る番だ」

「……借りは……」


 棺の中から掠れた声が聞こえる。まだ完全に蘇った訳じゃないのだろう。

 だけど今なら確信できる。これで僕は特別だ。これで僕にはやることができた。これで僕にだけは彼女が友達として微笑んでくれる。それは小さくて、大きな一歩。


「零斗君、何故こんな……何故わざわざ……ともかく応急処置をする。あとあの化物は今度こそ処分を……」

「待って下さい」


 僕は乾いた右腕で有葉さんの肩を掴む。


「やっと……あの娘の友達になれたんです」


 視界が暗くなっていく。立っていられずにその場に膝をつく。

 借りは返すわ、友達だから。棺の中からツンとした声が聞こえたような気がして、僕は思わず微笑んでしまった。


     *


「それではお世話になりました」


 夏が終わり、有葉さんが呼んでくれた良いお医者さんのお陰で、右腕の見た目も整えることができた僕は実家に戻ることになった。

 

「また来てくれよ。君にはまだしていないお祖父様の話が沢山あるからね」


 僕に鍵を渡した旦那さんは、特に怪我を気にする風もなく笑って手を振る。

 不気味だと思っていたが、実際話してみると本当に只の気のいいお兄さんだった。

 きっと最初は怖い存在だと思われたかったから、あえて僕と話そうとしなかったのだろう。


「頼むから、家に戻っても、此処でのことは言っちゃ駄目よ?」


 一方で有葉さんは胃が痛そうな顔をしている。この人も実は僕と同じくらいの社会不適合レベルしかないんじゃなかろうか。常識的な反応過ぎる。


「分かってますって。あの娘にもよろしく伝えてください。腕が完治したらまた会いに来るって……色々話してみて分かったんですけど、あれで結構寂しがりですから」


 家を出てから今の間だけで、通話アプリの彼女のアカウントから届いた通知が溜まっている。

 これからしばらく会えなくなるのに、この先一体どうなるんだろう。

 彼女からの通知だけで通話アプリが使えなくなりそうだ。流石に面倒だから夢に出てきてくれないかな。


「ちょっと君、正気かい? 一応私は止めるからな、止めたからな」

「良いじゃないか緑。話のネタになるぞ。死体の少女の下に通って血肉を捧げる少年だなんて」

「ちょっと黙ってて。今私は真面目な話をしているんだ」

「どちらが与えたのか、どちらが奪ったのか。面白い関係だねえ」

「だ~か~ら~! 君はさあ! もうちょっと友人の孫をさあ!」

「なんだかんだ、あの後もかの王女のミイラを破壊しなかった上に、また彼が来ることを認めている緑が常識人面するのは良くないな」

「そういうのやめろって言ってるんだよ! 君は!」


 年齢不詳な二人がまるで普通の人間みたいに言い合う様は傍から見ていると面白い。

 ただ、右腕をズタズタのグチャグチャにされて、また身体の何処かをズタズタのグチャグチャにされる為にここに来るつもりの僕も、きっと大概面白いものなのだろうが。


「それではまた」


 そう言って僕はバスに乗り込む。

 僕の右腕を与えられたあの娘はまだ棺からは出られない。

 もっと多くの血や肉を必要としている。

 だから僕は体を治して、それからまたあの娘に会いに行く。

 あの娘の為ならばきっと何度でも何度でも、僕は僕を食べさせる。

 そうしてあの娘があの狭い蔵の中から出られるようになったなら、僕はあの娘と旅に出たい。彼女がどんなに邪悪であろうとまあそれはそれでいいじゃないか。きっとこの息が詰まる世界を変える何かになる。

 だからそれまでにもう少しこの退屈な世界について学んでおこう。その為にもう少し学んでおこう。この世界がどうしてこんなことになってしまったのか、どうやってこの社会がまだなんとか回っているのか。

 きっと、それを理解できる頃には、もうすぐ僕みたいな奴が暮らしやすい世の中に来る。

 その時を楽しみにしておくことにしよう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

#お友達から始めませんか 海野しぃる @hibiki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ