9 今回はここまで。それでは、またいつか

「き、今日はありがとう。とても、嬉しかった」

「別に構わん。謝礼さえきちんと払ってもらえればな」

「え? お金のことは、冗談じゃなかったの?」

「そうか冗談ってことにしちゃってたか。チッ」

「さ、さっき拍手をくれた君とは別人なのかな?」

「なに? どこかに俺の偽物がいるってのか? 許せんな。とっちめてやらないと」

『ドッペルゲンガーって奴は、見てしまったら死ぬっていうよね』

「しょうがないから見逃してやろう。慈悲の心は必要だからな」

『ビビったね』

「び、び、ビビってねえし」

「……ふふっ。一人でブツブツ喋っている後輩がいるって聞いたことあったけど、君のことだったんだね」

「俺ってそんなに有名人なのか?」

「ゆ、有名かどうかはわからないけど、話題には上がってたかも」

「そうか。ワンチャン、ファンクラブとかもあったりするかもな」

『無駄にポジティブ』

「そ、それはない、かな」

「べ、別にいいし。わかってたし」

『なら地面を枝でえぐるのはやめたまえ。芋虫とか住み込んじゃうかもしれないだろ』

 擬似的な卒業式を終えて、瑛理と少女、明乃は帰路についていた。体育館の扉を開けっぱなしにしたおかげで侵入は出来たが、閉めるすべがなくて放ったらかしている。翌日先生に謝ろうと、瑛理は心に決めていた。

「そ、そういえばすごい今更なんだけど、君、名前は?」

「名乗るほどの者ではないさ……このセリフ一度言ってみたかったんだ。やったぜーひゃっほーい」

『喜びすぎじゃないかい? そして前にも言っただろう』

「あの……名前は?」

「刃渡瑛理だ!」

『結局名乗るんだね。かっこ悪いね』

「そっか、刃渡くん。改めてだけど、きょ、今日は本当にありがとうございました」

 明乃は真っ直ぐ頭を下げた。

 地に足は付いていて、街灯に照らされた体は、消えることなく光を受け入れていた。

「別にいいって、振込口座は後で伝えるからさ」

『金の話題から離れろ』

「ふ、ふふ。刃渡くんと、もうちょっと早く会ってたら、また違う学校生活が送れたかもしれないね」

「さあ、わかんねー」

 瑛理は横に視線をずらした。目線を外したというよりは、何かを見つめている様子だ。明乃から見ても、なんの変哲も無い塀が見えるだけだ。

 明乃は、先ほど焼きついた幻のような光景を思い出していた。

「刃渡くんの抱えているものって、もしかして」

「ん? もしかして薄川先輩には見えたのか?」

「前髪が長くて、左目だけが見えていた。ワンサイズくらい大きな制服を着た可愛い女の子が見えた」

『これは一大事だね。でもそんなに言わないでくれ……恥ずかしい』

「今も見えているのか?」

「ううん。今はもう見えなくなっちゃった。卒業生答辞の最中に、最後の方を話す瞬間だけ見えたんだ」

『ボクが君以外に見えるなんて、初めてのことだね。内在する意識が、現実に影響を及ぼしているのだろうか』

「まあ、なんだっていいや。今の時点ではわっかんないし」

「やっぱり刃渡くんが、す、少し羨ましい」

「なんで?」

「だって、理由はわからないけど、一緒にいる人がいるんでしょ? それだけで、心強いと思うな」

 明乃は無邪気に言い放った。一人よりも二人のほうがいい。そんな当たり前の価値観を、疑うことなく信じていた。

 少女は、寂しげに目を伏せていた。

「ま、確かに良い部分はあるが、悪い部分もあるな」

『よく言うよ。ボクがいなければ、君はどこまでもクジュなままだというのに』

「おい、真実は時に人を傷つけるんだぞ」

『認められる素直さ』

「な、仲はいいんだね。それじゃあ、私はここで」

 T字路に差し掛かり、明乃は瑛理とは逆方向に行くようだった。

「刃渡くん。き、きっとこれからはもっと、自分と向き合わなきゃいけないと思うんだ。私も、君も。まだまだ自信はないんだけどね」

「なんとかなるさ」

「前向きなところは、いいね。わ、私は全然不安がとれないよ。刃渡くんは、こんな私でも大丈夫だと思う?」

「大丈夫かはわからないけどさ、薄川先輩は薄川先輩でしかないだろ」

 明乃は瑛理の答えを噛みしめるように、満足気に笑った。

「私は私、そうだよね。変に大丈夫とか言わないところが、多分刃渡くんらしいところなんだと思う」

 明乃は控えめに胸の前で手を振った。

「ありがとう。ま、またね」

「また、縁があったらな」

『もし運命の歯車が噛み合えば、また出会えるさ』

 瑛理と明乃は別々の方向に歩き出した。瑛理は振り返ることなく帰路を進んだ。

 食欲を刺激する、暴力的な料理の香りが漂っていた。夕食どころか昼食も摂っていないため、空腹は限界だった。

「あー腹減った。今日はがっつりと肉でも食いたいな」

『まあ、今日くらいは好きにするといいさ』

「……なんだ。今日は随分と優しいじゃないか。熱でもあんのか?」

『今までボクが風邪をひいたことなんてあったかい? なあに、今日くらいは自分へのご褒美があってもいいんじゃないかと思ってさ』

「まあ、珍しくがんばったぞ」

『自分で珍しいと言ってしまえる悲しさ。でも、悪くない気分だろう。誰かのためになるということも』

「うーん」

 瑛理は、両手を後頭部で組んだ。わずかに視線が上を向いて、ちらちらとした星の瞬きが映る。遥か遠くの光には、明るさも大きさも違っているが、それぞれに個性を感じる。大きさも、わずかに歪となる光の広がりも、何一つ同じものは見当たらない。

「誰かのためになってるかって、俺にはわからんよ」

『それは正しい。君のしたことが良かったことかなんて、決めるのは君じゃないからね。今回はお礼を言われたから、いいんじゃないか?』

「結果的に力になれたとしても、やっぱり俺にはわからん。結局は何かに従いつつも、自分のしたいようにしてただけだしな」

『まったく。それはもはや謙虚ではなく、傲慢だね。偽善だって善だと言えるように、ボクは思うよ』

「善にも悪にも興味ないな。多分どこまでいっても、俺は俺だろうし」

『もう少しだけ、自覚的に相手を思いやれるようになれば、きっとボクの役割もなくなるはずなのにね』

「まだもうちょっといるだろ。展開的に」

『それは言うな。まったく、君という奴は本当にクジュだな』

 二つの声は、他人の耳には届かない。それでも瑛理には聞こえていて、見えている。

 世界の実体としては、彼女は認識されていない。それは一体なんなのか。

 瑛理は、謎でしかない少女の正体について、深く考えてはいなかった。口うるさい姉のようで、厳しい父のようで、心配性な母親のよう。どのようなキャラクターであれ、ただいてくれるだけで、充分だと感じているからだ。

 あえて考えないことが、なんらかの逃避だとしても。それでも今しばらくは隣で騒ぐ音に、触れていたかった。

『ボクとしては、早く君が一人前になってくれることを、ひたすら願っているよ』

「それは言わないお約束だろ……パニュメ」

『言うさ。それがボクの存在意義だ』

 ほんのちょっぴりだけ、誰かの力になれたかもしれない出来事を終えて、二人は帰路に着いた。小言のような応酬を繰り広げながらも、二人は並んで歩いていた。

 瑛理とパニュメ。

 変わらない少年と変えたい少女。

 噛み合わない二人は、今日もがじがじと進んでいく。

 うまくはまらないその窪みを、ぶつけながら今日も歩いていく。

 それはとても、楽しそうに。






 職員室の片隅で、美奈川黒子はコーヒーを淹れていた。マシンのボタンを押せば、自動的にコーヒーは注がれる。砂糖もミルクもなしに設定してある。

 口につけて、喉まで液体を流し込んだ。まだ温度は冷めてなくて、熱さと苦味で顔をしかめた。苦痛ではあるが、眠気覚ましにはちょうど良かった。

 整頓された机の上には、生徒一人一人の成績や評価が記されたシートが置かれていた。開かれているページは、とある男子生徒のものだった。

 顔立ちは端麗と言ってしまえる。写真で見れば表情が引き締まっていて、まあまあのイケメンだと評価できる。

 けれども、他者との関係を結ばない。いや、結ぼうとしない姿勢には教師としては頭を痛めていた。

 黒子の頭を悩ませる生徒。評価シートが示しているその名前は、刃渡瑛理。

「気が重い……」

 決して悪い生徒であるとまでは思わないのだが、信念なのか、防衛なのか、他者との関係を作ることを拒んでいる節がある。言動や行動の末、結果的にそうなっているのかもしれないが、あまりそのことを気にかけていない様子が、問題であると評価を下している者もいる。

 黒子は再びコーヒーを流し込んだ。ああ嫌だと思っていても、担任の教師としては言わなければいけない。教師という職についた以上、程度の差はあれ、生徒のことは可愛く思う。楽しいことだけでなく、時に厳しく辛い経験も与えなければいけない。これからのことを学んでもらうために。

 だからこそ、気が重くてコーヒーすらも一気飲みしてしまうほどの事実を、告げなければいけない。

「刃渡瑛理……このままじゃアイツ、留年になるぞ」

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ぼくらはみんな生きづらい(仮)〜prelude〜 遠藤孝祐 @konsukepsw

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