8 卒業式、やりました。消えることの意味
明乃は、亀の歩みよりもゆったりとした足取りで、体育館前方の舞台へと登っていった。ほんの数時間前には卒業式が執り行われていたその舞台。今はがらんどうとした静けさに満たされている。
にも関わらず、相変わらず緊張は消え去ってはくれなかった。一度は立てなかった場所に再び立つことになったのは、なんの接点もなかった後輩の提案によるものだった。
「俺は今までの薄川先輩のことは何も知らないから、変わったかどうかなんてわからない。けどさ、先輩は心残りを感じているんじゃないか? なんになるかなんてわからないけど、良かったら卒業式をやり直してみないか?」
突然の提案を、最初は受け入れらなかった。曖昧な返事を繰り返して、瑛理の申し出を断ろうとしたのだが、一度言い出した発言を撤回しようとはしなかった。何十回もやりとりを重ねた後に、明乃は断りきれなくなり、卒業式をやり直すことを受け入れた。
体育館から逃げ出す時、何かに引っかかって落としてしまったシュシュ。拾ってもらったことで生まれた縁は、奇妙な展開を連れてくることとなった。何が起こるかわからない巡り合わせに、恐怖心は渦巻いていた。
明乃は壇上に上がり、前方を見渡した。晴れ舞台に思いを寄せる者はとっくにいなくなっていて、その場にいられなかった実感が去来して、物悲しく感じた。裏口の扉から覗いたクラスメイトたちは、涙を流していたり、誇らしげに口元を結んでいた。その場所にいるはずだったのに、逃げ出してしまった自分を思い出す。みすみす手放した機会に、思う感情は後悔だったのかもしれない。
「卒業生、答辞」
瑛理は厳かに言い放った。体育館の中央に、ひとつだけ設置された椅子に座り、たった一人だけで壇上を見据えていた。卒業生たちはいない。先生や来賓の方々も見当たらない。小規模すぎる卒業式が、再び執り行われる合図となった。
「は、春の訪れを感じるこの、良き日」
声は震えていたが、出だしの言葉は放たれた。瑛理以外には誰もいないにも関わらず、緊張は治ってはくれなかった。
明乃は時折詰まりながらも、卒業生としての言葉を発し続けた。マイクは使えずに自分の声だけが頼りであったため、小さく弱々しい響きだった。何を話すべきだったか思い出せなくなり、しきりにメモを確認した。
「わ、私は、自分を出すことが、とても苦手でした。みんなの前で発表を行ったり、注目をされることがとても苦手でした。そ、それでも、今は……」
言葉に詰まった。
続く言葉は、周囲の助けがあったからこそ、今では立派に成長した。こうして無事に卒業まで至ることができた。そういった言葉が続くはずだった。
しかし、本当にそうだろうか。プレッシャーから卒業式を逃げ出し、一人図書室で認識されないように消えていた自分は、成長したと言えるのだろうか。
フラッシュバックのように、かつての思い出が閃光として駆け巡る。均等に並んだ机にはかつてのクラスメイト。顔はわからなくて黒子のように真っ黒だが、瞳だけは穴が空いているようで不気味だ。窓から差し込む緋色は黒く染められて、漂う匂いは煤けた灰のようだった。
誰かに責められているわけじゃない。悪意を向けられているわけじゃない。
本当は明乃にもわかっていた。自分自身が勝手に怖がって、勝手に不安を感じただけだということを。自分が相手を信じていないから、自分が怖いと思っていたから、勝手に殻にこもってしまっただけなんだと。
わかってる。わかってるんだけど。
言い訳として繰り返す。わかっていることと、受け入れていることとは違う。怖がりな自分を知っていても、克服しようと頑張っても、そう簡単にはいかないんだ。
徐々に視界は歪み、思考には霧がかかった。音が聴こえなくなり、体の力は抜けていく。
ああ、また消えちゃうんだ。
情けないなと思いつつも、抗うことなどできずに、明乃は意識を失った。
明乃が意識を取り戻した時には、既に日はすっかり落ちていた。わずかな街灯が差し込んでいるだけで、体育館内は薄暗かった。日中よりも気温が下がり、薄手のカーディガンで来たことを後悔した。
「また、だめだったんだ……」
羽虫が飛ぶように小さな声だった。落胆が如実に表された物悲しい声色だった。明乃は唇を噛み締めて顔を伏せた。今まで我慢していた感情が自らを刺激していた。泣いてしまいそうだった。自分自身の駄目さ加減に嫌気がさした。
流石に、あのよくわからない後輩も帰ってしまったのだろう。そりゃそうだろう。たまたま縁が出来た情けない先輩のために、卒業式をやり直すと提案してくれただけでもやりすぎなくらいだ。また逃げだしてしまったことで、諦めて帰ってしまったとしても、彼を責めることはお門違いだろう。
もう誰もいないなら、思いっきり泣いちゃってもいいのかな。
かつてすることはなかった。子供のように声をあげて、脇目も振らずに泣きじゃくる行為を、自分自身に許してしまおうか。
思わず涙がこぼれそうになったその瞬間。
「おっ、薄川先輩やっと起きたか。もう結構暗くなっちゃったから、早く続きを言ってくれよ」
思わず顔を上げると、暗さに慣れた瞳は人影を捉えた。
詳しい表情は見えなかったが、先ほどまで寝ていたのか体を伸ばしていた。なんでそこまでしているのかわからなかったが、明乃が意識を取り戻すまで、じっと待っていたことは明白だった。
「ど、どうして、なのかな?」
「何が?」
「私なんかのために、な、なんでここまでしてくれるの? こんな暗くなっちゃうまで、まっててくれ、たの?」
「なんでって言われてもなあ」
瑛理はひとしきり悩むような仕草を見せたが、しっくりくる答えは見つからなかったのか、投げやりな様子だった。
「言っちまったからな。卒業式をやり直そうって。だから待ってただけなんだ」
あまりにも気遣いを感じない物言いは、おそらく本心なんだろうと感じさせた。別に明乃を応援したわけではない。多少の同情めいた感情はあったのかもしれないが、下手な気遣いを見せているわけでもないようだった。
ただ単に、その場にノリで言ってしまったことを実行していただけなんだと、明乃は理解した。見守るでも見捨てるでもなく、ただ瑛理は瑛理自身が選択した行動をとっていただけだったんだ。
自分自身を裏切らないことは、周囲との関係では身勝手に映ることもあるのかもしれない。
けれども、明乃には瑛理が羨ましかった。
自分自身を裏切らずに、好き勝手に生きていけるその姿を。
「き、君がちょっと羨ましいな。自由な翼を持っているようで」
「自由なんてどこにもないさ。俺にはとびっきりの口うるさい重しが常にのしかかっているから……ってやめてください痛いって蹴るなってごめんなさい」
瑛理は足を避けるように動かしながら、よくわからない謝罪を繰り返していた。明乃はひたすら困惑していた。
何かしらの決着がついたのか、瑛理は再び明乃に向き直った。
「それに薄川先輩だって、自由に生きてるじゃないか」
「わ、私が?」
「困ったら認識されなくなるなんて、便利そうで羨ましい。要は消えることって、自分を守っている防衛機制って奴なんだろ?」
明乃は思わずたじろいだ。消えてしまうことを、厄介な現象だと思っていた。こんな出来事がなければ、自分の人生はうまくいくのではないか。まるで悪者のように考えていた。
けれど、消えることで、自分の気持ちを落ち着けていた。
負荷が強すぎる場面を、回避していた。
極端な方法であったとはいえ、それは自分自身を守るための行為であったことに、今更ながらに気付かされた。
明乃は、思い返していた。これまでの人生を。困ったことや沈鬱に沈んでしまいそうな時もあった。授業で当てられるたびに、死んでしまうんじゃないかと思うくらいの緊張を感じた。それでも、緊張の瞬間を幾度となく味わうたびに、少しずつ消えてしまう瞬間は減っていった。
それは紛れもなく成長と呼べるのではないか。
初めて、そう思えた。
「ほら薄川先輩。さっさと終わらせて帰ろうぜ。もう夜だし」
瑛理がぶっきらぼうに言い放ったと思えば、途端に気まずそうな表情に変わった。
それはまるで、誰かに叱られた子供にような。
不思議に思い目を凝らすと、ぼんやりとした人影が浮かんでいた。まるで家族のように寄り添う、前髪を垂らした少女。見えている左目は瑛理を非難するように細まり、動いたと思えば明乃に視線が移った。
今まで見えもしなかった少女と目が合い、明乃は呆気にとられた。
『がんばれ』
謎の少女は微笑んだ。
彼女は何者なんだろうか。幽霊? 不思議な何か? 超常現象?
気にはなったが、なんだっていいように思う。今やるべきことは、きちんと言葉を言い切ることなのだから。
「今は……友達のみんなや、お世話になった先生方。そして時に励まし、見守ってくれた両親のおかげで、私は今ここに立っています」
完全に緊張がとれたわけではなかった。けれども、幾分か心は澄んでいる。
目の前には、均等に並んだパイプ椅子。全員の顔は知らないけれど、三年間を共にした同級生たちだ。思い出を分け合った人、大きな関わりはなかった人。その色は様々で濃淡も異なっている。けれども、誰もが違った思いを抱えて過ごした時間は、きっと一緒だったのだろう。
その光景は幻だとはわかっていた。だからこそ、きちんとこの目で見られなかったことを、少しだけ残念に思った。
その感情に気付いた時、寄り添うようだった不安はゆっくりと離れていった。
もう、怖くない。
「どれだけの感謝の言葉を連ねても、今感じている気持ちには足りません。どのような言葉を持ってしても、表現としては不十分だと思います。それでも、一言だけ言わせてください。今まで、ありがとうございました。そして、私たちは今日……卒業します」
一瞬の静寂。響く拍手は、たったの二人分だった。
けれども、明乃にとっては、とても大きな祝福の鐘として感じられた。
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