7 もっと突き詰めて説明がいる気もする。認識からの解離というファンタジー
薄川明乃は、他の人より少しだけ控えめな、普通の子供だった。
内気で引っ込み思案な部分はあったけれど、小さいながらも人の輪に入り、頻度は少なくとも友達と遊ぶこともあった。
両親は寡黙だった。決して心がないわけではなく、むしろ逆である。控えめな娘に対して思うところは当然あるけれど、父は娘のやり方に口を出さずに、自由に羽ばたいてもらうことを望んでいた。母も同様に、心配や不安を常に抱えつつも、自らの力を養ってほしいという思いがあった。良く言えば自由、悪く言えば選択責任を自ら背負わなければいけない家庭で、明乃は育っていった。
明乃は性格を両親から受け継ぎ、自由な生活でありながらも、社会からはみ出さないだけの良識は持ち合わせていた。
自由であるということは、時に無秩序な生活に身を落とす可能性もあった。しかし、明乃の臆病さは堅実な行動として現れた。
冒険はしない。目立つような行動を極力避ける。どこにでもいるような、少し引っ込み思案なおとなしい子供。礼儀正しそうにしていれば、ただ無思考にいい子だと評される。それが明乃のポジションだった。
そんな明乃が、心から楽しめる瞬間は、物語の世界に埋没している時だった。特に同年代の少女が不思議な力で活躍するファンタジーを好んで読み漁った。
小説のページをめくれば、控えめな少女も勇敢な騎士にもなれた。空を自由に飛び回る、鳥のようにもなれた。現実にはありえないような超常的な現象、炎や水が渦を巻き、雷鳴が飛び交う勇ましい冒険を想起させることもできた。
物語を読み終えるたびに、明乃は悲しい気持ちに苛まれた。手を取り合って駆け回ったように錯覚してしまう、物語のキャラクターたちとお別れすることを寂しく思っていた。
読み終えればまた次の物語。また次の物語と、寂しさを埋めるように次々と小説を読んでいった。
小学校高学年生となっても、明乃の生活に変化はなかった。相変わらず引っ込み思案で、小説を読むことが病的に大好きなだけの生徒であることは変わらない。
とある日に、授業の一環として読書感想文の提出を求められた。明乃はその時に読んでいた小説の感想を、思うがままに記入して提出した。
多くの物語に育てられた感性は、教師の課すレベルを一段と超えていた。明乃の感想文は褒め称えられた。生まれて初めて味わう手放しの称賛に、明乃はむずがゆくも嬉しく感じていた。
それからの出来事は、誰一人として悪意を持っていたわけではなかった。
素晴らしいものを多くの人に広げて、学びへと変えること。純粋な善意、向上心。そう呼ばれても間違いではない感情に後押しされて、明乃は自らの読書感想文を発表するようにと教師に促され、了承した。
授業の一環として、明乃は読書感想文をクラスメイトの前で朗読することとなった。
その日までに明乃は、何度も何度もシミュレートして、自らの書いた文章を一字一句間違わぬように繰り返した。むさぼりついて離さないように、決して違えてはいけないと強く念じながら、繰り返し練習をした。しかし、どれだけ練習を重ねても、失敗するイメージは拭えず、カビのように深くこびりついていた。
本番の日は訪れ、震える足をごまかしながら教卓の前に立った。自分でもわかるほどに紅潮した顔、乱れる呼吸は不規則だった。思考は悪い意味でクリア。正しい言葉が思いつかなかった。
明乃は原稿の隙間から、教室の様子をちらりと盗み見た。
二対の瞳は、みんな明乃に注目していた。八十個を超える視線は一点に突き刺さり、一つ一つに傷つけられるように感じていた。
「……あ」
最初のセリフは言葉にならず、意味のない音として響いた。周囲の注目はさらに増した。一体何を言うのだろうという期待も、明乃にとっては大きすぎる感情だった。
今まで避けてきた、人の目に晒されるという出来事。悪意ではなく、好奇や善意ですらも衝撃に慣れていない繊細な器には、あまりにも不釣り合いすぎた。
明乃は、そのまま一言も発することなく意識を失った。
意識が途切れる寸前、まるで世界から切り離されたような離人感を覚えていた。
「は、初めは意識が途切れることが多くなって、そのうち頻繁に倒れるようになったんだ。人に見られたり、注目されると、特にダメなの……」
「よくそんな有様で今まで生きてこられたもんだな」
『君は相変わらず自分ごと刺しにいくね』
「自分で調べた限り、プレッシャーから逃れるために、意識を自分で切り離す解離状態に陥ってるんだと思う」
「それが引き金になっているんだな。でも、認識されなくなることと何か関係があるんだよな?」
「メカニズムはよくわからないんだけど、は、恥ずかしいから見ないでー気持ちが強くなると相手の人は気づかなくなっちゃうみたい」
『これって実はとんでもない話じゃないか。思考や意識などの各々に内在している部分が、他者に影響を与えているってことだぞ。物理的な干渉もなしに、知覚を狂わせているなんて恐ろしいよ』
「その時って、薄川先輩はどんな状態なんだ?」
「き、基本的にはほとんど意識がないよ。多分何かの引き金で解離している時に、他の人から見えなくなるみたい」
「ということは、大声で呼びかけた行動はちょうど良かったわけだ。さすが俺だ」
『こんな時くらい、自画自賛は忘れて欲しいね』
「なんだか話し過ぎちゃった……ところで、君は私になんのご用なの? ごめんなさいお、お金はないです」
「嘘つけ。ちょっと飛んでみろよ」
『本当にかつあげするな』
「……こわい」
「冗談! 冗談だって、あっやばい消えかけてる。わーわー」
床を踏み鳴らしながら騒いで、明乃の意識をなんとか繋ぎ止めた。
ただでさえ怯えるような明乃は、心なしか瑛理から身を引くように体を背けていた。何か粗相をしようものなら、すぐにでも逃げ出しそうな雰囲気だ。
「これだこれ。体育館の裏に落ちてたんだけど、これって薄川先輩の?」
「う、うん。そう、だよ。ありがとう……」
野生の猫のような慎重さで、明乃はシュシュを受け取って装着した。瑛理にも見覚えのある、今にも世界の風景に溶けてしまいそうな少女の姿だった。
瑛理は明乃の姿を眺めて、腑に落ちないような表情をしていた。
「ちょっと訊いてもいいか?」
「な、なに?」
「なんであんなところに、シュシュが落ちてたんだ?」
「や、やっぱり気になるよね。うん、見つけてくれた君だから、話すよ」
明乃は意を決するように呼吸を整えた。
「正直言って、私は普通に暮らしていけるなんて思ってなかった。けれど、この学校に通うことができて、少しずつ消えちゃう時間も減っていった。私でも、なんとか人並みの生活ができるかもしれないって思えてきた」
「それで、卒業が認められたってことは、ある程度社会生活ができるって判断されたわけだろ?」
「そうなん、だけどね。昨日の夜になって、色々な思い出が脳内に巡ってきた。キラキラした物や、暗雲に覆われたような、様々な物。初めはなかなか学校にも馴染めなくて、しょっちゅう意識を失うことが多かった。でも先生に助けてもらったり友達が出来たりして、少しずつ嫌なことや恥ずかしいことに、耐えられるようになってきた」
「別に問題ないじゃないか。ちょっとずつ自信がついてきたってことだろ?」
「きっと問題ないと思ってた。あの頃の自分じゃないんだって、自分自身に言い聞かせてた。できる限り人と関わろうとしたり、勉強も真面目にがんばった。だからこそ卒業生代表として挨拶を任されるようになった……でもね」
明乃は躊躇い、言葉を一度は飲み込んだ。その姿は、薄く儚く、それでいて弱々しく感じた。
「途中で怖くなっちゃって、に……逃げちゃったんだ。結局私は、何も変わっていなかったんだね」
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