6 ファンタジーの説明はもっと最初にしておくべきかも。認識の個人的な差異
「人がいきなり消えるなんて、科学文明で成り立つ今の時代では考えられないな。非科学的だ」
『……うん、そうだね』
「なんだか歯切れが悪いな。科学で説明できないもんなんて、近い将来きっとなくなると思うぞ」
『君さあ、エビデンスとか証拠とか実証に基づく事実しか信じないとか言うわりに、ボクのことはあっさり受け入れているよね』
「そういえば、なんで他の奴には見えないし声も聴こえないの?」
『ついに根本に触れたね。今更すぎる気がするけど』
「改めて考えると……なんか気持ち悪いな」
『裏切りはいつ何時でも発生するんだね。これでも君の助けになってきたと自負しているのだけど』
「そうだな。主にツッコミだな」
『ボクの価値がツッコミだけだという認識なら、悲しみの海に沈んで、そのまま藻屑となろうじゃないか』
「ごめん消えないで!」
『わかったからしがみつくな鬱陶しいなあ! 鼻水を拭くがいい!』
いつも軽口を叩きあっている二人ではあるが、瑛理は割と少女に心理的に依存していた。
豪快に鼻をかむ瑛理を見つめ、少女は子を包み抱く母親のような笑みを浮かべていた。その深層にある感情は一つだけではなく、混じった本流には悲しい色も潜んでいる。強固で身近な繋がりも、実は美しく繊細な絹糸のようで、いつか千切れる時も予感させる。
そんないつかを思いつつも、少女は微笑みを絶やさなかった。
『まあボクのことについては、きっと後々問題となってくるさ』
「なぜかわからないが、そのセリフを言ってはいけない気がするんだが」
『これは予感……ということにしておけば良いんだ』
「そういうものか」
『ああ。嫌でも語らなきゃならない時はくるさ。どうせ君はボクとの出会いの場面を覚えていないだろうし』
「ほんとだ。全然覚えてないな。怖っ」
『不思議は不思議として存在するけれど、不思議にも何かしらの理由はあるさ。っと、着いたね』
まりねに教えられた場所は、校内に唯一存在する図書室だった。年季の入った木製の扉は、所々ささくれだっている。削られた跡は触ると怪我をしてしまいそうで、慎重に窪んだ取手に手をかけた。
「ほんとだ、鍵が開いてる」
『となると、誰かいるということは間違いないね。それが薄川さんであればいいんだけど』
二人は周囲を見渡して、一通り図書室内を歩き回った。いかにも人が訪れなさそうな歴史文献のコーナーは埃っぽい。高校の図書室にしては珍しく、心理テストや精神医学関連の書籍が充実していた。統合失調症、双極性障害、パーソナリティー障害、解離性障害、自閉症スペクトラムなどに関するものだった。難関な内容も取り扱っており、専門的な分野のものが多いにも関わらず、棚に汚れは目立たず、番号順に整理されていた。頻繁に人の出入りがあるのではないかと考えられた。
図書室内で考えられる全てのルートを通ってみても、人は愚か動物すらも見つからなかった。
「見つからないな」
『そうだね。となると、やっぱり消えてしまっているんだろうね』
「煙のように消えちまうなんて、なんだよ忍者かよ」
『というか、なんで消えてしまうんだろうね。まずはそれを考えてみないか』
「人が消える理由か……有り金全部競馬で溶かしたら、きっと消えたくなるな」
『そんなのボクだって消えてしまいたいよ……ボケ禁止で、そろそろ真面目に考えてみようか』
「俺はいつだって真剣だ」
『あ、はーい』
「聞いてくれてない!」
仕方なく、真面目に考えてみる。物理的に考えると人が消えてしまうことは、考えにくい。最小の原子で構成されているのだから、限りなく細かな粒にまで分解されれば、消えてしまうという表現に恥じない結果を得られる可能性が考えられる。
しかし、この件に関してはしっくりくる解答とは言えない気がした。詳しいことまではまりねから聞かなかったし彼女も知らない。けれども、聞く限りにおいては薄川明乃が消えることは、一過性のものであり、ずっと消えているわけではないのだ。
そして消えることが多い場面というのは。
『なんらかのプレッシャーがかかる場面に、消えてしまうことが多かったようだね』
「普通に授業を受けていたり、友達と話をしている時なんかは比較的実在しているって話だったな」
『条件があるのであれば、ランダム性の現象ではなく、きちんとした理由のある現象のはずだ』
「消える現象、その理由か。よくわからないな」
『ねえ、ボクはずっと気になっていたことがあるんだけど』
「気になっていたこと?」
『そのシュシュだよ』
少女は、瑛理の左手首に巻かれているシュシュを指差した。白レースの鮮やかさは、眼を見張るものがあった。
「これがどうかしたのか?」
『最初に見つけたのはボクだったね。でも最初、君は気付かなかった』
「そういえば盛岡も始めは気付かなかったな。でも、まりね先輩は気付いていただろ?」
『あくまでこれは仮定の話でしかないんだけど、薄川さんは、本当に消えているわけじゃないんじゃないだろうか?』
「……俺と盛岡がシュシュに気付かなかったのは、薄川先輩のことをよく知らなかったから、とか?」
『けどまりねさんは薄川さんのことをある程度知っていた。消えてしまうという現象も何度か目の当たりにしている』
「けど、俺や盛岡はそんなことを知らなかった。条件の違いは多くあるとはいえ、大きな違いといえばその点だな」
『もしかしたらだけど……これはボクたちの認識の問題なのかもしれない』
見えないのではなく、見えているけど認識していない。瑛理と少女はそう主張した。
薄川明乃は消えてしまったわけでも、透明になったわけでもなく、見えているけど認識できていなかったというのだ。
例えば道を歩いている時。毎日のように通る歩道に石ころが落ちていたとしても、普通は気にかけることはしないはずだ。見ている物の新鮮味が薄れて、路傍の石ころのごとく日常に溶けてしまったものは、見ていても見えていない物と変わらない。そう思えてしまう。
「昔調べたことがあるな。カクテルパーティー効果っていうのもこういった類の話じゃなかったか」
『パーティー会場などで雑談していても、音楽や話し声がうるさい環境だ。にも関わらず、自分の興味がある人の話や、自分の話題が出たら聴き取れてしまう』
「人間は知らないうちに、情報の取捨選択をしているってやつだな」
『そういう意味では、人はみんな同じものを見ているつもりで、映し出されている景色は全く違うものだよ。もはや生きている世界すらも、その人の認識によって全然別の世界になっていると、ボクはそう思うね』
そこには犬がいたとする。コンクリート塀が傍に連ねて、アスファルトの続く真っ直ぐな道。真ん中でおすわりをして待っているのは、キツネ色した柴犬だ。ハアハアと期待を弾ませて、じっとこちらを見つめている。
大半の人が抱くであろう所感は、可愛いという感情だろう。ちびっこくて人懐っこい。思わず頭を撫でたくなってくるかもしれない。
けれども、犬が嫌いな人間にとっては、どんな光景に映るだろう。
佇まいは恐怖を呼ぶかもしれない。可愛らしいフォルムも、まるで悪魔の化身のように思ってしまうかもしれない。見ている光景は同じでも、思いのフィルターに通した時、純粋な要素には感情のスパイスが乗ってしまう。
こうして変化した認識を、常識だなんて信じている。誰しもが違う景色を見ているというのに。
「それで、人それぞれの認識が違うという前提から、一体どういう答えが導かれるんだ?」
『もう一つ重要なことは、君の認識がボクより遅れたということだよ』
「なんでお前にはシュシュが見えたのか、不思議な話だよな」
『ボクが見えたということは君も見えることは当然だ。でもボクのほうが先に見えたんだ。ボクと君との決定的な違いがあるとすれば、なんだろうか』
「今までの話からすると、認識のフィルターが違うんだろう」
『間違ってはいないね。もっと正確に言うならば、ボクの認識は限りなく阻害されにくいはずだ。そもそも認識したことに意味をつけるという行為を、ボクはほとんど出来ないからね』
「見たまま、聴いたままか……ということは、もしかしてもう見えているんじゃないか?」
『おや、よく気づいたね。ようやくボクには見えてきたよ。薄川さんは、確かに図書室内にいるよ』
「マジか。どこにいるんだ?」
『自分で認識しないと意味がないだろう。自分の力で見つけないとな。手段は問わないからさ』
「手段は問わないんだな」
瑛理は考えるように顎を触った。
薄川は本当に消えたわけではない。ということであれば、何かしらの刺激を相手も認識しているということだろう。
気にかかることはある。消えてしまうにせよ、認識されないにせよ、なぜそのようなことが起きるのだろうか。世界にはまだまだ解明されない出来事に溢れている。きっとこの現象も、そんな不思議の一つに数えられるのかもしれない。
不思議には不思議の理由がある。
この不思議な出来事に理由があるとすれば。
「薄川先輩は消えてしまうことを望んでいるのか」
『心の内はわからない。だが可能性はあるね』
「隠れていたい相手を見つけるなんて難しいだろ」
『まあ普通に考えたら、見つけられることが本位ではないだろうね。だからこそボクは手段を問わないと言ったんだ』
「無理やり引きずり出していいんだな」
瑛理は背負っていたリュックを漁り始めた。物で膨らんだリュックは、学校には不必要な物で溢れていた。
瑛理が取り出したのは、持っている理由のわからないメガホンだった。
「俺たちが認識できなくても、ここにいるのであれば……声は届くはずだ」
『そうだね。君も薄川さんも、同じ場所にいるのだからね』
瑛理は目一杯息を吸い込んで、全力で叫んだ。
「薄川せんぱーい! めんどくさい薄川せんぱーい!」
空気を震わす振動は図書室内に響いた。
残響も時間とともに消え去り、変化がないまま沈黙だけが残された。
「出てこないな。失敗だったか?」
『いや。そうでもないみたいだよ』
水を打つように控えめな音だったが、確かに聞こえた。人格を表すように物静かな足音。徐々に瑛理と少女の下に近付いてきた。
確かな気配を背後に感じ、瑛理と少女は振り返った。
「は、初めまして。わ、割とひどい呼ばれ方をしたのは始めてだよ……」
雪の結晶のように儚い印象の女性は、確かに薄川明乃だった。
薄川の姿をはっきりと認識すると、確かに瑛理にも見覚えがあった。
白レースのシュシュが足りない薄川明乃は、更に儚げに見えた。
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