最終話「春のあなたと」
「どういう、ことなの?」
黒い少女は、じっと自分を見つめる颯の照れたような苦笑に、目をしたためる。
「ともあれ、君はそんな怖い姿で出てきてはいけない。さあ」
文庫、『春のあなたに』の登場人物紹介に、颯はなぐるふぁるのペン先をトンと、あてる。
さきほど黒い少女の額にあてたペン先である。
彼女の本名と共に、紹介文が浮き上がってくる。
颯はそれには目を通さず、黒い呪詛の靄が薄れていく彼女本人に促す。
「初めからこの物語には、君と、彼と、桜子というキャラクターだけだったんだ。経緯はどうであれ、君は、彼に告白しなければならない。本当はどうであったかは、この際関係ない。――君がどのような状況の果てに勇気を出していくのかが、読み進める面白さ。告白することでどのような結末が起こるのか。それがこの物語の読んで分かる面白さだからね」
颯は、少し晴れやかな顔で先ほどまでの『黒い少女』を片眉上げて見遣る。
「なんだ。けっこう可愛いじゃないか、自信を持ちなって。いや、同年代から見ると清楚系で綺麗系なのかもしれないなあ。うん、長い黒髪はチャームポイントだ……――痛ェ!」
「浮気ですか。すみませんね白い髪で」
思い切り尻を蹴飛ばされ、颯は沙華から距離を取る。
「もうお前の出る幕はないよ。物語的には、もう彼女と、彼だけでいいんだ」
「い、言うに事欠いて出る幕がないとかっ!」
「ほんとだし」
「がび~ん」
リアクションが古いなあ~と思いつつ、颯は片手を挙げて少女に待つよう指示すると、美術室の空間をなぐるふぁるで切り裂くと、そこに鈴木真を登場させる。
「彼には、もう少し演じてもらおう」
新しく浮かび上がった、彼の、少女が告白するべき本当の相手だった少年の名前。左手に持つ『春のあなたに』から読み出し、右手の魔筆からあふれるインクを、真の額へとあてる。
するとどうだろう。
黒いインクは霞のように広がり彼を覆うや、見たこともない少年へと姿を変えたではないか。
「……!」
息を飲む少女。
そう。
この少年こそ、彼女が本当に恋い焦がれた、告白すべき少年の姿なのだろう。
「卒業間近。美術部の成果課題を取りに行くときが、告白の最後のチャンス。主人公の少女は、恐らく、恋敵でもある親友の桜子に背中を押される感じで、この場に臨んだ」
書き換えるのではない。
書き整える。
「さて」
颯は、名も知らぬ少女を振り返る。
「物語に決着をつけるのは、いつだって主人公だ」
「主人公――」
「そう、君だ」
頷く颯。
「そうでなければ、読者が許さないだろう」
作家の顔で、作家に頷きかける。
少女は、苦笑した。
「思いの丈を伝えるも、伝えられなくとも、君の自由。これはもういっかい与えられたチャンスなんかじゃない。君が紡ぐべき物語の着地点を、君自身が書き記していかなければならない」
颯はもう一度言う。
「そうでなければ、作者が許さないだろう」
そして我が身を思い返し、自嘲気味に頭を掻いて何度目かの苦笑を漏らす。
「物語が終わったら、彼は返して貰う。紡ぐインクは、僕と、君の
「物語を、紡ぐ……」
少女はその言葉を充分に噛み砕き、一度うつむくと、深呼吸し、顔を上げる。
――恋をする少女の顔だった。立派な主人公だ。
「じゃあ、僕らは
「ちょっと颯さん? え?
「部外者は無粋。――それじゃあ、頑張ってね」
少女に笑いかけると、颯はなぐるふぁるで円を描くように、綺麗な夕暮れの美術室の中から、自分たちと斎塚皐月を切り離した。
残されたのは、少女と、少年。
場面がそして、動き出した。
今までの遣り取りがなかったかのように、その美術室には埃っぽい油の香り。そして遠くのざわめき。風の音。そして少女の心音。
「少しずつ持って帰ってたら良かったよ」
少年が、自分の提出課題の数々を抱えようとしながら、困ったような顔で彼女に振り向く。
「そうね」
彼女も、自分の絵を棚から取り出しつつ、頷く。
絵。
人物画だ。
彼女が精一杯の勇気を振り絞り、思慕の念を込めて描き上げた、少年をモデルにした、絵だ。
その絵の中で微笑む少年。
彼が何を見てその微笑みを浮かべていたのか。
彼女はそれを勇気に、少年の正面へと、歩みを進める。
「あのね」
その手の肖像画を見せながら、彼女は勇気を振り絞ろうと――。
***
蝉が鳴き始た八月の初週。
真上から降り注ぐきつい陽光が勢いを増した陽炎を作り出す中、その男、全身真っ黒のコート、スーツ、ネクタイ、スラックス、そして靴。ややオールバックになでつけた髪も黒、乗せている帽子も黒。浮いているかのような青白い顔の表情は病人のそれであり、荒く息をしながらも、しかし汗ひとつかいている様子もない男が、くたびれた様子で歩いてくる。
「ああ、きっつい……」
肩掛けのついた大きなカバンを担ぎ直し、その男は商店街をトボリトボリと歩いていく。
すれ違う人々は、そんな真夏にふさわしくない男が、まるで見えていないかのように気に留める素振りすらない。
「重い。暑い。のど渇いた」
文句を呟きつつ、彼はトボリトボリと歩く。
じりじりと焼けるアスファルトの上を靴を引きはがしながら歩いていく様子は、まさに満身創痍。
そんな彼は、肉屋の角を曲がると生垣の続く脇道に入り、その奥にぽつんと建つ一軒の古本屋の前へとくる。
看板には『さすせそ本舗いうえお屋古書店』とあり、木造二階建で、一階部分は十坪ほどの寂れた店舗として営業している様子で、申し訳程度の『営業中』という木の看板がかかっている。
「ごめんくださいよぉ~」
「いらっしゃい、裏虫さん」
「か~! エアコンは良いですな、世紀の大発明です!」
「麦茶飲みます?」
「いいですな~」
さすせそ本舗いうえお屋古書店店主であり、第二十五代当主である斫颯は、奥の台所から大ジョッキに満たした氷入りの麦茶を持ってくると、カウンターにどっかと置く。
「ささ、どうぞ」
「これちょっと多すぎませんかァ~? まあ良いですけどネ、喉渇いてますから……ン……ング…………ッか~! うまい! 染み入りますなあ! あ、お腹キューってしてきた」
「一気に飲みすぎなんですよ」
ジョッキを脇に置きながら、裏虫は「ふぃ~」とわざとらしいため息をつき、これまたわざとらしい棒読みの台詞を口にし始める。
「あの、ご主人。あっしァ少し探してる本が御座いまして」
「どんな本ですか?」
と、返す颯の言葉も、やや読まされているような口調である。
「『春のあなたに』って文庫なんですが、こちらにあるでしょうかねえ」
「『春のあなたに』ですか」
そこで、「ございます」と答えるのが通例だったが、そこで颯はやや言葉を濁した。
「あれ? どうしたんです? 旦那」
演技から素に戻った裏虫が訪ねると、颯はそっと、件の文庫本をカウンターに置く。
「……旦那、これは」
「ええ、題名が少し違いますが」
そこに在るのはあの文庫。
かつて『春のあなたに』であった、それだ。
「えーと、『春のあなたと』? ええええええ~?」
文庫に顔を寄せるようにした裏虫が、「なにこれ」と颯を見上げる。
「お探しの本です」
「題名変わっちゃってますよ!?」
颯は頷いた。
事が済み、鈴木真が退院し、何事も無かったかのように斎塚皐月も日常生活を取り戻し、ちょっとだけ空気の変わった二人を確認して――幾日。
どこをどう嗅ぎつけたのか、毎度のことながらフラリと裏虫が現れたときには、あの文庫はこうなっていたのである。
「ほんとにほんとですかァ!?」
前代未聞の出来事に裏虫は目を白黒させ、引いて見たり寄って見たりと忙しい。
かつて未完の物語が顕現した文庫のタイトルが変わったことなど一度もなかったのだ。少なくとも、裏虫の担当する中では、ただの一度も。
「中身が変わったんです。タイトルだって、そりゃあ変えるかもしれませんよ」
頬杖をつきながら、それでも颯は肩を竦めつつにこりとしている。
「読みますか? あの作者、なかなか良い改稿をしたと思いますよ」
「改稿!? え? なんすかそれ。ええ?」
「未完の物語を、完結させたんですよ」
僕じゃなく、本人が。
颯は、そこは黙っていた。
誰しも真っ白な希望とか、明るい未来とか、そういう何でも書ける原稿用紙を持っている。そこに、生きているとどうしても染み出してくる情念という
その昏いインクをぶちまけて真っ黒に塗りつぶすこともできるし、自分の書く文字で、それでも、それでも美しい物語を綴っていくことだってできるのだ。
「ああ、ええと……」
釈然としないながらも、その文庫『春のあなたと』が確かにかつて未完の物語であり、なぐるふぁるで完結が書き記された本物であることを本能で理解している裏虫は、「はあ、では」と仕切り直す。
「では、この本、お売りいただけますか?」
「いいですよ」
そこで、裏虫は分厚い封筒をそっと、カウンターに置く。
「ではこちらを」
颯がその文庫を差し出すと、初めて裏虫はそれに手を触れ、しっかりと受け取った。
「確かに」
恭しく一礼する黒い男。
その文庫から感じる、なんとも温かいものに、ふと頬が緩む。
「『
「ええ、なんとかやってますよ」
じっと見つめる裏虫。
それを自然に受け止める颯。
どちらが先にだったか、笑いが漏れる。
「これだから人生は面白い。――今まさにどこかで『未完の物語』は生まれていますからねえ……ではまたすぐにでも」
帽子を被り直し、黒い男はそれでもジョッキの中の麦茶を嬉しそうに一気に飲み干すと、陽炎立つアスファルトの先へと足取りも軽く去って行く。
それを見届けると、颯はひと息ついて封筒を手に茶の間へと目を向ける。
「おわったぞー」
そう声を掛けると、原稿用紙を手に寝っ転がった沙華が、心ここに無い様子で「ん~」と返事のようなものを発しつつ、嬉しそうな
「んふふ~」
心地よさそうな笑いを浮かべる文鬼。
「颯さん、今回の話はかなり美味しいですよ」
「そいつはありがとさん」
鬼の食事。
一仕事終えるごとに与える、鬼への報酬。
掌編恋愛小説、その直筆の生原稿である。
鬼に与えたそれは、鬼の報酬であり、読まれた時点で喰われる。
もはや颯には、自分が何を書いたのか思い出すことすらできない。
鬼に喰われるとは、そういうことなのだ。
「ところで颯さん」
「なんだい?」
封筒の中の報酬をにこにこしながら数え始めようとした矢先、沙華はふと原稿を読みながらはしたなく足先で彼の脇腹を蹴るように突っつく。
「なんで『春のあなたと』って変わったんです? あの本ちっとも読ませてくれないんですもの」
「喰わせるわけにはいかないからな」
くすぐったさに身をよじる。
あの主人公が告白シーンの後、春の季節を感じる名を持つ彼女と、どうしようとしたのか。彼も読んでいないから分からない。しかし、共に歩むことを諦めなかった彼女の決着は、きっと新しい物語へといくらでも続くのだろう。
「よーし、今日は美味いもん喰いに行こうかなあ」
「あら、私の手料理よりもですか?」
「家で炭火のステーキは焼けないだろう?」
「あ、良いですね!」
原稿をほっぽり出して、沙華は顔を上げる。
物凄いにこにこ顔だった。
「おい、僕の原稿より嬉しそうだな」
「もう読んじゃいました」
「あー、読者っていつもそうな! 読んだら忘れちゃうの!」
「いつまでも心に残るような名作を書かないからですわ」
「んぁあああああああああああああああああ」
悶える颯。
笑う沙華。
そんな熱いじゃれ合いの中、愛想を尽かしたかのように、ジョッキの中の氷が融け崩れ、カランとひとつ……鳴った。
おわり
なぐるふぁるの鬼娘 西紀貫之 @nishikino_t
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