第7話「任務推敲――校正バトル」



 黒い少女は、そのとき初めて素顔をはっきりと見せた気がする。靄とあいまった前髪も長く表情を伺いにくい恰好だったが、物語の主人公の一人が皐月から沙華に切り替わった瞬間、その毒気をいっとき打ち払われたからだろうと颯は確信した。


「――」


 その表情は再び思い直したかのような靄で隠されるも、その純朴そうな顔つきを颯はしっかりと記憶した。


「ここからは、僕も手加減はできない。なにせ人の原稿だ」


 なぐるふぁるを持ち直す。

 颯はびしりと動きを止めたその劇場を前に、肩幅に開いた両足、程良く脱力した四肢、意識を飛ばし俯瞰の目線で見下ろし始める。

 瞬間。

 なぐるふぁるは事象を、物語を紡ぎ始める。



 ◆◆サクラコは告白を遮るように現れた沙華サツキへと詰め寄る。

「邪魔をしないで、◇◇くんに告白するのはだけで良いの」


 突き飛ばすように、勢い余った◆◆サクラコの両腕は沙華サツキしんぞう掴み揺さぶるえぐりぬく●●●●■■■■



 恐ろしい力だった。

 颯の描写の上から◆◆サクラコは己を曲げようとせずに、恨みのままその両腕を一瞬、沙華の胸を破り開くかのように心臓を貫いたのだ。彼の推敲が間に合わなければ、いかな文鬼といえど無事ではいられない。


「っ!」


 沙華の口元から鮮血がほとばしるも、なぐるふぁるの事象が破かれたはずの胸と貫いたはずの心臓から、◆◆サクラコの両腕を沙華の肩を掴ませることでなかったこととして書き換える。

 しかし、キャラが掴み切れていないのか◆◆サクラコの行動を書き換える労力が凄まじい。

彼の中でも『こうではない』という疑問の元書き換えながら、それでも望むべき話の着地点へ向けて◆◆サクラコというキャラクターの取るべき行動を




サツキはね――」


 その掴まれた肩から◆◆サクラコの腕を引きはがすようにはがせない手首を掴み返し、万力の如き握力で締め上げる。

◆◆サクラコが彼を目で追いはじめる前から、◇◇くんが中学のときに転校してきた日から、私は彼を見ていたのよ」

「そんなことはないわ、私たちが彼と会ったのは――」

「いいえ。サツキあなたサクラコと出会うずっと前から彼を見ていたのよ、サツキは」



 文字通り、魂が抜けていく。

 架空の物語『春のあなたに』の中に、現実のエピソードを挿入導入することで揺さぶりを掛ける。そのたびに、なぐるふぁるに、彼の描写が、魂が、事象を紡ぐインクとして吸い上げられていく。

 しかし、颯はこの場の支配権をかけて『春のあなたに』を執筆した前の作者と、これは俺の物語だとその魂で殴り合う。これは違う。これでは鈴木真という少年の魂が召されることで物語が閉じてしまう。それだけは阻止しなければならない。

 ――という思いから

「僕の書く話の方が面白い」というエゴ。

 俯瞰視点で場を支配する彼の口から漏れるのは、ただその一点であった。第一稿であるこの話よりも、自分が改稿するこの第二稿のほうが、「僕の考える話のほうが面白い」と再び漏らす言葉のように、優れたものであると信じているからだ。




「ふざけないで、あなたサヤカが何を言ってるのかさっぱり分からないッ」

 ◆◆サクラコは手首を掴まれたまま、沙華の肩からその細い首筋へと伸ばしていくのが止められないを何とか押しとどめる

「真くんは私の恋人。かならず一緒になるわ連れて逝く!」

「そうは……させないですわ……」



 書き換えきれず、◆◆サクラコの両腕は、鬼の力を上回る文章力で沙華の首を締め上げ始める。


「なんて強引なプロットなんだ」


 しゃらくさい、と毒づきながら颯はなぐるふぁるを一閃させる。



 掴みかかる◆◆サクラコの手は沙華サツキにすぐに《どうにか》ふりほどかれてしまう。運動部ふみおに沙華サツキにとって、彼女の力はあまりにもかろうじて弱々しい。

 勢い余って倒れ込む◆◆サクラコ


「前からそのくらい積極的にしていれば、先に告白できたでしょうに」

「――!」


 親友黒い少女悲しげ挑戦的な表情を向ける沙華サツキ

 彼女は呆然憤然とする◆◆サクラコを余所に、そのまま二人の遣り取りを黙って見ていることしかできなかった◇◇の前に立つ。



 よし。

 このまま先に告白してしまえば、一手目は勝ちだ。

 颯は沙華サツキの動きに集中する。

 ここはもう彼女のシーンだ。

 ◆◆サクラコは絶対に動けない。

 ――はずだった。



「違うわ!」


 ◆◆黒い少女は立ち上がりながら、■■沙華に涙ながらに詰め寄った。


「彼を最初に見たのは私! あなた▲▲はいつもそう、私よりも前を進んで、人からも好かれて、私を見下して、いつもいつも、手を差し伸べる側で、私はあなたがいないと何もできないのだと言わんばかりに!」

◆◆××?」

「いいじゃない、物語の中でくらい! 話の中だけでもいいじゃない!」

「いけません颯さん、いったん離れ――」

「邪魔をしないで!」




 ――俯瞰が途切れた。

 颯の力場が黒い少女の靄の奔流にあっさりと弾き砕かれる。


「くぁ!」


 もんどり打って倒れる颯の体を素早く駆け寄った沙華が抱きかかえると、闇と化した美術室の隅へと跳躍する。


「なんて気迫。……颯さん、速やかに仕切り直しを」

「くそ、あっちの作者がワガママ通してきやがった」

「まあ、私小説ですからね。――きます!」


 黒い少女はまるで獣のように身を撓ませると、弾かれたように数メートルの間合いを跳躍、頭上から襲いかかってくる。


「お願い、死んで!」

「正直すぎますわね!」


 沙華は背後の颯をかばうように正面からその拳を受け止めると、力任せに彼女の頬桁を右甲で存分に殴り飛ばす。

 骨が砕ける音と共に黒い少女の体は水場のコンクリートへと叩き付けられる。


「仕方がありません、このままこの話――『没』にします」


 らんらんと赤く輝きを増す瞳を沙華はニンマリと歪める。楽しそうに、楽しそうに。


「没に? おまえ、そんな力任せに――」


 颯は靄の奔流のダメージを何とか打ち払いながら立ち上がる。

 むこうの作者自身が物語を書き換えたのか、その黒い少女は砕けた体を再生させ、ゆっくりと立ち上がる。

 黒い、鬼だった。

 もはや恋する乙女のそれなどではなかった。


「ふふふ、颯さん。もう鬼にっした物語なら、壊しちゃうしか……ふふ、それしかないですわよねぇ」


 ゴキリと禍々しく歪めた手を掲げながら沙華はそれは美しい鬼の顔で振り向く。


「少しやられたからって逆上するな!」

「あら、妻がいじめられてるのに冷静ですこと」

「駄目だ、それではこの話が無駄になる!」

「手遅れですわ」


 沙華は一歩、黒い少女との間合いを詰める。

 互いの距離は、ちょうど教室の横幅と等しい。


「あなたが、いつも、いつも」

「私はあなたサクラコの言うあなただれかではありません。文鬼、物語を喰い我が物とする鬼。多少胸焼けのしそうな私小説ですが、食らいつくしてにして差し上げます」


 つまり『没』にする。

 なかったものにする。

 作家の思いも、何もかも、その物語を紡いできた動機や時間も総てを否定して、無きモノにする。


「勝手をするな沙華!」

創作魂インクに勢いがありません」と沙華は彼を肩越しに振り返り心配そうに眉根を寄せ、「それでは戦えません。宿主の安全は、どこぞの作家のどこぞの作品と比べるべくもありません」

「沙華!」

「ご容赦を」


 もはや、聞く耳を持たぬ沙華。

 もう一歩、間合いが詰められる。

 一気に間合いを詰めかねない気概だったが、しかしその実、沙華自身も黒い少女に脅威を感じていた。


「いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも」


 一言、一言、呪詛を増しながら、黒い少女はその気迫からどす黒い靄をまき散らしていく。


 ――僕は、読み違えていたのか。


 颯はこの崩さねばならない未完の物語、『春のあなたに』という私小説を前に、これ以上筆を入れるきっかけを掴めなかった。

 キャラクターは崩壊し、作者は作家としてワガママをプロットに乗せ、描写はただの妄想と狂気と自意識にかき消え、編集との物理的な殴り合いへと変わり、もはや収集のつけようが、落としどころが分からないまま、混乱の極みへと落ちていた。

 ――『没にするしかありません』。

 沙華の言葉が甦る。


「いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも」

「そう、あなたはいつも負け犬。これまでも、そして今回も」


 沙華は深紅の着物の裾を左手でややめくり、その脚を露わにする。

 瞬間。

 襦袢がややのぞくその脛を飛ばすと、彼我の間合いは一気にゼロとなる。真白の手刀が黒い少女の胸板を容易く貫通し、心臓がある部分を抉り飛ばす。


「いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも」


 静かな呪詛だが、少女が沙華を蹴り飛ばす力は恐ろしい威力だった。深紅の着物をはだけさせながら、教室の反対側まで叩き付けられる。


「くっ、これは想像以上ですね」


 闘争本能を存分に刺激され、沙華はにんまりと笑い直す。先ほどの笑みよりも、魔物のそれである。


「活きは良さそうですが」

「いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも、いつも――!」


 美術室の中央で火花が散った。

 もはや人として戦うことを辞めた少女は、鬼の妖力膂力と真っ向から組み合い、受け流し、打ち込み、薙ぎ払い、突き崩し、蹴り上げ、腕を獲り、関節を、筋を、肉を、骨を砕きながら、その総てを作り直しながら、鮮血と靄を飛び散らせながら悪鬼同士の狂騒を演じ始める。

 もはや、人の領域ではない。

 鬼の、狂った物語の世界。

 幽世かくりよの戦いだった。

 幽世かくりよ隠世かくりよ、つまりは『隔離かくり』。

 そこはもう、人間である颯が立ち入ることができない世界だった。

 他作家と、第三者の、戦い。


 ――ああ、僕はもう無力なのか。


「ふふふ、ふふふ、ふふふ、体の中身はカラッポなのですね。恨みだけ、呪詛だけ、魅力もなければ勇気のカケラすらもない木偶じゃないですか」


 黒い少女の顔面を削ぎ飛ばしながら、内の靄を覗き見るように沙華は嘲笑する。少女も顔面をすぐに修復させると、涙混じりに叫ぶ。

 その声にもならない絶叫に、颯は耳を覆いたくなる。

 これは、作家の悲鳴だ。

 自分を表現できずに、伝えきれずに、自分ものがたりを否定されることを仕方がないと諦めた作家の、それでも伝えたいものがあるという食い下がりだった。


「あなたの――」


 沙華の抜き手が喉を抉る。


「話は――」


 斬り飛ばされかけた首元から、胸骨ごと臍まで引き裂く。


「つまらない!」


 手刀が胴を両断する。

 文字通りボロボロの黒い少女が、どしゃりとその肉体から血肉の代替である呪詛を滴らせながら潰れる。


「……ほほう?」


 沙華は感心したような笑みを漏らす。

 黒い少女は、それでも体を再生させ、脚を踏ん張り、立ち上がろうとしている。


「いいでしょう、料理するのも飽きました。このまま食べて差し上げます」


 鬼は、鬼として、鬼の本性を垣間見せる。

 怖気というモノを、颯ははっきりと感じた。

 もはや、彼には彼女を止める理由も気力も意味もなかった。




「もう、とられたくない……」


 ――そう。

 その微かな、彼女の。黒い少女の言葉を聞くまでは。





「さようなら、どこかの物語。あなたの魂はそれなりに美味しく頂きますわ」

「嫌ぁぁああああああ!」


 仕留めんとする鬼の抜き手。

 抵抗する黒い少女の渾身の掴みかかり。

 美術室の中央で、人知を越えた激突が為されようとしたその瞬間である。


「はい、ちょっと待った」


 二人の間にヒョイと割り込んだ颯は、いともあっさりと必殺の勢いを秘めた沙華の抜き手を片手で掴み、なぐるふぁるのペン先で黒い少女のひたいを優しく押さえ込む。


「嘘ッ! は、颯さん!?」

「え! な、なにを!?」


 二人の少女は、目を文字通り白黒赤とさせている。


「そうか、そうだったのか」


 二人の闘争の中に入った颯は、まるで彼女たちが見えていないかのように腕を組み直すと、ひとり、うんうんと頷いている。

「二人とも、ちょっと離れて」


 もはや闘争の空気すら霧散している。

 そのものがたりを完全に支配した颯が命じると、「あ、はい――」と同じ言葉を紡ぎながら、二人の少女は彼を中心に間合いを離す。

 五歩ほど離れたあたりで止まらせると、颯はひとつ、強く頷いた。


「勘違いしていた」


 ポンと手を打つ。


「僕は勘違いをしていた。そりゃあそうだ、書き換えられるはずがない。ああ、馬鹿だ。僕は馬鹿だ。読み違えていた。はっはっはっは、そりゃあそうだ、ごめんごめん、いやあ、そうだよなあ、ははははははははははは」


 二人の少女はあっけらかんと笑う颯を、ぽかんと見る。

 そんな彼女たちの視線を受け、照れたように颯は苦笑する。


「ごめんね、キャラクター間違えてた」


 ぼりぼりと、頭を掻く。


「配役変更――いや、修正。元に戻そう」

「は?」


 すっかり毒気を抜かれた沙華は、間の抜けた声で聞き返す。


「元に戻すって? え?」


 彼女の疑問には直接答えず、颯は違和感を拭うように、黒い少女に、呪詛をモノともせずに歩み寄り、その肩に手をポンと置く。


「この子は桜子じゃない。――桜子は、沙華、きみだよ」


 颯は鬼を振り返り、もう一度苦笑する。


「さあ、書き直そう。初めから」

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