第6話「告白への流儀」



 短編『春のあなたに』に新たに浮かび上がった物語を読み終えた颯は、文庫本を静かに卓袱台に置き、それは大きなため息をついた。


「これは自分のことだな、たぶん」

「作者自身の私小説ってことですか?」

「ん~。まあ、そうだろうな」


 幕間に浮かび上がらせたあらすじを整理すると、今夜――物語の中では夕方――真の病室に桜子と皐月はやってくる。

 物語の山場。

 そう、告白のシーンに登場するために。

 登場人物は三人。

 皐月に、真に、あの黒いセーラー服姿の桜子。


「自分の考えを整理するためか、自分にあったことを整理するためか、違う未来を見たかったためか。ともかく、この作者は、恨みを込めて書いた。誰への恨みがわからない。書ききる前に筆を止めた。恨みだけが残った」


 沙華は颯のとなりに腰を下ろし、力なく項垂れる彼の肩にそっと手を置いた。


「書いてる本人でさえ、正解なんて分からなかったんだろうな。僕にだって分かりゃしない」

「恋人が居た経験ないですものねえ」

「ほんと人がしんみりしてるのに茶化すなよほんとおまえマジでさ~」

 肩に置かれた手の温かさに、それでも安心が広がる。

「……なんで僕に恋人がいなかったって知ってんだよ」

「あなたの物語を食べたからです――と言いたいところですが、見てりゃ分かりますよ」

「うぬぐ」


 ポンと、沙華は颯の肩を叩くと立ち上がる。


「夕食はどうしますか?」

「いや、ことが片づいたらにしよう。胃に血が集まると集中力の回復に時間がかかる」

「あ、それいいですね。原稿書かない言い訳に最適です。集中できない、気分が乗らない、神が降りてこない、傑作を書くには時間が必要だ、今は読む時期だ、肩こりが酷い、腰が痛い、云々云々」


 じっと見下ろしてくる沙華。

 ふと、颯は彼女の毒の影で気が付く。

 蒸し上がる、シュウマイの香りだ。

 良い出汁を使ったと思しき、味噌汁の香りも。

 見計らったかのような炊飯器の電子音。

 炊きあがりの合図だ。


「ハングリー精神は大事ですが、それはあくまで目を上へと向け続けるためです。ですが、日本にはとても良い言葉が残っていますよね?」


 純粋な心配。

 少女の涙に心を痛めた男への、彼女なりの応援。


「腹が減っては戦ができぬ、か」

「はい」


 染みる言葉だった。


「とりついた男に元気がないと吸い取り甲斐がないですからねえ」

「そういうことにしとくか」


 そう思うと、空腹が意識されてくる。

 確かに、戦いまで時間はある。

 食べて、休んで、立ち向かわねばならないのだ。

 作家の流儀で。





 その大学病院の夜間出入り口を潜る颯、そして沙華。

 目指すは、鈴木真の病室だ。

 入院病棟の三階。その奥の個室。かかっている名札は、『鈴木真』。

 ナースステーションに目を向けるが、見舞い時間を外した来客の彼らに気を留める者はいない。

 鍵のかからない引き戸を開けると、鈴木真はベッドの上で体を起こして中空をじっと見つめている。

 この数日でやや消耗した表情だが、目には力が宿っている。


「起きていたようだね」


 颯の言葉に、真は頷く。

 そんな事情を知っているかのような表情に、颯も頷き返す。


「僕は告白を聞かなければならないんですね?」

「うん。その後、どうするのかは君次第だ」

「わかりました」


 真は頷く。

 あくまでも、登場人物のひとりとしての自覚の元に。

 なぐるふぁるで紡ぐ、一種の催眠状態。


「ちょっとごめんね」


 魔筆のペン先を、昼間教室で皐月にしたのと同じように、真の首筋にあてると、『春のあなたに』の人物紹介のページにそれをあてなおす。

 ペン先から滲み出る魂のインクが奔り、彼の情報が書き示されていく。




 ――



「――なるほど、これだけか」

 あくまでも、物語の集約点、物語の終着点として捕らえられた少年なのだ。

 彼は自分の出番が来たとばかりにベッドから降り、立ち上がる。

 入院生活で萎えかけた体だが、しっかりと立つその姿はしなやかに伸びる竹のようだ。


「あら、いい男じゃないですか」

「乗り換えるならいまのうちだぞ」


 沙華の軽口に颯はジト目で返す。

 さらに何か言いかけたとき、当の沙華がふと廊下に促すと、引き戸が開かれて皐月が現れる。




制服姿であった。

 セーラー服に、下校途中に立ち寄ったかのように、その手には学生鞄。意識も自覚もはっきりした光のある目は、緊張に揺れ、真へと向けられている。

鈴木まことくん」

■■斎塚……」


 皐月の声に応えた真の声に、靄がかかっている。

 呪いの影響か。

 すでに舞台から降り、作家の立場となった颯と、助手の沙華の姿は、もう彼らの目には映っていない。


「――来ます」


 沙華の呟き――警告。

 ふたりの告白へのシーンへと移るそのとき。


「待って」


 くらい、声だった。

 まるで井戸の底から反響しつつ、やっと耳に届いたかのような、少女の声。皐月のものではない、声。

 その瞬間、病室は教室に変貌した。

 日は長くなったが八時を前に真っ暗になった空はいつのまにか夕暮れ時のそれに変わり、空気は晩秋のやや冷えたそれに変じ、鼻腔を埃っぽい油臭さが刺激する。

 シンと静まりかえった教室。

 ――美術室だ。

 真は詰め襟の学生服姿で、片付けられたキャンバスとイーゼルの前で二人の女生徒を交互に眺めていた。


■■ときづか、それに、どうしたんだ?」


 真は絵の具がついた手で頬を掻きながら二人に笑いかける。

 だが、皐月はそこで固まってしまったかのように動けなくなっていた。あの黒いもやが、薄く、しかし強力に全身を覆っている。その拘束力たるや凄まじく、とても身動きがとれない。何かを口にしようとしても、その喉が微かに震えるだけで呻き声すら盛らすことができないのだ。

 愛しく思う彼に告白をしなければならないのに。

 だが、黒い少女だけは真へと静かに歩み寄る。


「真くん。私あなたに伝えないといけないことがあるの――」


 黒い少女と、真は、五歩ほどの間を隔てて向かい合う。


「私……」


 黒い少女は、ギュッと胸元で両手を握り、勇気を絞り出すかのように口を開こうと、浅く呼吸を繰り返す。


「私……」

?」


 伝えたげな彼女を前に、真は恐らく彼女の名前を呼び、待つ。

 どれだけの時間が過ぎたであろうか。

 差し込む夕日が陰り初めても、黒い少女は言葉を絞り出すことが出来ないままであった。


「待って」


 そこで、声がかかった。

 皐月である。


■■ときづか?」

鈴木まことくん、わたし、あなたに伝えないといけないことがあるの。聞いてくれる? とても大事な話なの」

「あ、ああ」


 戸惑う真が頷くと、黒い少女は喉の奥で強く息を飲む。その呻きに彼女自身一歩引いてしまい、その場の主役を皐月に譲る形になってしまう。


「私ね、鈴木まことくん。ずっとね。もう、ずっと、ずっと、ずっと、前から――」


 勇気だった。

 物語に促されているとは言え、皐月自身が胸に秘めた思いだった。

 それは強い奔流となり、胸をつき、思いの丈は口をつこうとする。

 ――しかし。


「駄目」


 びしり。

 空気が固まる。

 夕暮れの教室は、どす黒い靄に包まれる。それを噴き出しているのは黒い少女の気配だ。

 今度は息もできぬほどに身動きを封じられ、皐月は苦しげに呻いて膝を折った。


「渡さない。あなたには、渡さない」


 朱暗い呪詛だ。

 黒い少女が漏らす呪詛は、皐月ばかりではなく真までも拘束する。少年は膝を屈するまでではないが、佇立したまま身動きが取れぬ苦しさに顔を歪ませて喘いでいる。


「真くんは、私のものよ」


 すでに指呼のうちにまで近寄った黒い少女は、真の首にその手を伸ばす。


「わたしの、ものよ……」


 そのどす黒い指先が、彼の喉元に埋まりかけたその瞬間だった。





「はい、そこまで」


 颯の静かな言葉が、彼女の指先をピタリと止める。

 黒い少女の瞳が、そのとき初めて登場人物ではない颯たちの姿を捕らえるにいたったのである。


「誰?」


 誰であろうと排除する悪意の色が颯を襲うが、その靄は一歩前に踏み出した沙華の白い肌にかき消される。

 文鬼の打ち振るう指先が、空気そのものを切り裂くように、教室の一点を切り裂いた。


「ここからは、私がお相手いたします。――桜子さん」


 糸が切れたように、皐月がくたりと倒れ伏す。

 床に当たる前に颯はそれを抱き止め、ゆっくりと寝かせると、沙華の口上に併せてなぐるふぁるを抜き放つ。

 彼の目は黒い少女――その先の名も知らぬ作者へと向けられていた。


「無粋とは思うが、この一件さくひん、筆を入れさせてもらう」


 颯の腕から濃密な黒が吹き上がり、なぐるふぁるへと吸い込まれていく。刹那、ビシリというかつてない音と共にペン先が割れ、魂がインクとなり中空に打ち放たれる。


「役者交代。――沙華」

「承知致してございます」


 その胸元を押し広げ、文鬼沙華は呪詛の籠もった靄ともども、なぐるふぁるの紡ぐ物語をその胸に吸い込む。

 そして、彼女は恍惚の微笑みを浮かべ、紅潮しつつある相貌を妖しく笑みへと歪め、黒い少女のやや怯えた心臓に向ける。


「恋敵役、私めが代わりましてございます。では桜子さん、決着をつけましょう」

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