第5話「そして少女は泣き崩れる」




 月岡高校正門に、高校指定夏のセーラー服に身を包んだ沙華の姿があった。校舎を見上げる表情は若々しく、とても幾年も歳を経た鬼とは思えない。


「真っ白い髪に赤い瞳なんて不良だなあ沙華は」

「あら、颯さんも夏服を着ていただけたらよかったのに」


 開襟シャツと紺のスラックスはともかく、白の靴下に革靴は少し気恥ずかしい。颯は「別に着なくても覗きはできます」という沙華の言葉に、真面目に着ようか着まいか迷ってたのを鼻で笑われたように感じたのか、颯はムスっと臍を曲げていつもの恰好である。


「さて、入るぞ」

「はーい」


 と、スカートを翻すようにくるりと回っていた沙華は、颯の額にピタリと立てた右小指をあて、「いないいない」と口にしながら同じ文言を重ねるように書き入れる。


「鬼術、穏身の法」

「ホントに効いてるのかこれ」

「折り紙付きです」


 半信半疑の颯が疑わしい顔で自分のそこかしこを見ると、学校のチャイムが鳴る。

 ――始業の合図。


「さ、参りましょう」


 軽い足取りで正門を潜る鬼娘。

 颯もどこか懐かしそうに門を潜る。今はもう青々とした葉をこれでもかと茂らせた桜の木を見上げ、かつて自分も高校時代を過ごしていたのを思い出す。

 匂い。

 高校の匂い。

 思い出の匂い。

 ここの卒業生ではないものの、自分が入っては行けない領域ではあるものの、取り戻せない昔という空気の気配に、少し制服を着て来ても良かったかな、と思う。

 そんな彼が事務室の横に差し掛かるが、誰も彼を気にかける様子はなかった。


「すみません、スリッパ借りますね」


 と一声掛けても無視されているように、まったく気が付かれていない。


「すごいなこれ」

「物語の登場人物が作者を認識しますか?」

「そういう理屈なの!?」

文鬼ふみおにですよ私」


 何言ってるのこの男はみたいな顔で見返され、颯は「アーハー?」と曖昧に頷いておく。来客用の下駄箱に靴を入れ、スリッパを履き、二人は第一棟一階にある校内見取り図を見上げる。


「何階だったっけ?」

「二年三組は、第二棟の二階ですね」

「三組だったのか。なあ、ちょっとだけ生徒手帳見せてくれない?」

「だめです。しつこいようですと、縛り上げて女子更衣室に放り込んで術を解きますよ」

「凶悪」


 颯は黙ることにきめた。


「さ、行きましょう」


 腕を絡めてくる沙華。なかなかにボリュームのある柔らかい何かが腕に押し付けられる。なるほど、和服ではあまり味わえない奔放な柔らかさである。


「ほほう、着けてないのか?」

「着けてます」


 ブラの話である。


「いつも着物だから持ってないかと思ったよ」

「稼ぎの半分は頂いてますから、けっこう買ってますよ? 下着とか余所行きの服とかコスプレ衣装とか」

「古本屋にあるまじき新刊漫画が揃ってる理由が少し分かった気がする」

「売ったら駄目ですよ」


 古本屋にあるまじき釘を刺された。

 歩いて行くうちに渡り廊下へ辿り着く。

 この先が、第二棟。

 鍵の開いた防火扉の先は、左右の壁がない廊下。右手の先に見えるのはグラウンドだろうか。広い校庭にはトラックが白線で書かれており、その先にはネットで囲まれたテニスコートが伺える。

 ふたクラス分の男子だろうか。体操着の上、そして下はジャージ。

 健康そうな者も、不健康そうな者も、混ざり合ってサッカーをしている。懐かしい光景だった。


「だいたい、女子は体育館なんだ。日差しがなくて良いよな、って思ってたが、蒸し暑さは屈指のものらしい」


 思い出語り。

 沙華もそれを聞きながら、ふっと微笑む。


「私は学校に通ったことがありませんから」


 その寂しそうな呟きと、ぎゅっと力が込められる腕。


「いやいやいやいや、別に気にしてないだろうおまえ」

「そこは優しく頭を撫でるところでは?」


 笑い合う。

 二棟に渡り、そばの階段を上る。

 静かな廊下。微かに聞こえてくるのは、板書の音と、さらに遠い教師の声のような、なにかの音。


「に……の、さん。ここか」


 教室は黒板に向かい左手が窓、右手が廊下。廊下側の前後には二枚の引き戸。伺うと授業中のようで、二人は後ろの引き戸を開けて……とりあえず中を伺い直す。

 戸の開く音などで振り返る者もいない。教師も目を向けない。颯ら二人は完全に世界の外の存在だった。


「ほらほら、颯さん」

「勝手に座るなって。……空いてる席か?」

「あそこに皐月さん。その斜め前少しの空いた席――あそこが鈴木真さんの席になります」

「なるほどな」


 昨日すれ違ったくらいの仲である女子高生の横顔が伺える位置に来ると、颯はその横顔、手元のノート、そこに書かれている文字、鞄を伺う。


「ふむ――」


 すけべ心からならすぐさま鉄拳が飛ぶところだが、沙華は脚をプラプラさせながら教室の空気を楽しむようにあたりを眺めては「ふうん」と感心し、隣の女生徒の机の中を覗きこんでは「へえ~」と唸っている。


「ん~、一途だが奥手っぽそうだなあ。ほら沙華、彼女も靄がかってる。肩とか手とか……あーあーあー、頭の方まで」

「そりゃあそうですよ、『春のあなたに』に操られてるのですから」

「まあそう言ったのは僕だけどさ」


 靄は、払わずにそのままにしておく。

 まるで、生き物だった。

 纏わり付く呪いは彼女の体中を薄く覆いながら、集約しては濃く縛り、薄く包み、小さく集まるや、染み入るように胸元へと消えていく。


「ちょっとごめんね」


 颯はなぐるふぁるを取り出すと、深紅のキャップを外し付ける。

 彼女の首元に、ちくりと。

 その刺激にも彼女は気が付いた様子はなく、「便利だな~」と颯は感心する。素晴らしい穏身ではないか――と思いかけたが、さすがに沙華が怖い目をしているので慌てて肩掛け鞄の中から『春のあなたに』を取り出す。

 表紙をめくった先の、表題が書かれた裏。空きページのところに、なぐるふぁるのペン先をツ――とかざす。

 すると、するするとインクが走り出し、凜とした文字が連なり写されていく。

 そこに書かれているのは、登場人物紹介であった。




 ――鈴木真に中学時代より三年片思いし、告白できずにいる少女。真とは同じ部活。




 そこまで書かれていく。


「おや? 名前が不鮮明だな。呪いの影響か?」

「かもしれないですね。名字は斎塚、名前は皐月さんです」

「……念じ直しても変わらない。ふむ」


 と、颯が頭を掻いたときだ。


「颯さん」


 静かだが刺さるような沙華の声。

 ふと、背後……肩越しに寒気を感じ、彼は振り返る。


「うっ」


 この少女は誰だ。真の傍らに立つ、黒いセーラー服の少女は。背中まである髪はどこまでも濡れたカラスの羽のようで、白い肌と、ただただ真っ赤なスカーフ。誰だ。


「――桜子」


 颯が呟いた瞬間、皐月は身震いするように顔を上げる。


「桜子さん――」


 白昼夢から冷めたかのような表情にはおびえが走る。

 側に立つ颯の姿が見えないかのように、真の席に目を向けている。


鈴木まことくん」


 がたりと、皐月は膝裏で椅子を押すように、スっと立ち上がる。


「どうした、斎塚」


 不思議そうに声を掛ける教師と、何かとざわつきと共に彼女に視線を向けるクラスメイトたち。


鈴木まことくん」


 そして、颯は見た。

 大粒の、少女の涙を。

 ぼろぼろとぼろぼろと零れ往く、珠のような涙滴を。


鈴木まことくん――」


 へたりこむように、引かれた椅子に浅く腰掛け直すと、堰が切れる。

 そして少女は泣き崩れる。

 ノートに顔をうずめるように、声を殺し、泣く。

 心配したクラスメイトのうち、数名が彼女に寄り添うようにやってくるのを、颯は黙って身を引き道を開ける。

 後退るように教室の後ろ、沙華のとなりまでやってくる。

 教室は、にわかにざわつきを増し始める。

 彼女の言葉に、事情を察しない者はいなかっただろう。

 調子の良さそうな男子生徒でさえ、何も言えずに友人と視線を交わし合うのが精一杯の様子だ。


「彼女、あの黒いセーラー服の少女をはっきり見てましたね」

「ああ」


 そう、一瞬の意識の沈下。一瞬の夢の中で。

 颯も見た、あの黒い少女を。


「桜子だ」


 彼は呟く。

 だが彼の頭は、あの黒い少女よりも皐月の流した涙――泣き顔に占められている。年頃の少女の、赤心から出た静かな慟哭。彼女の心の声も聞いた彼には、さすがに無視ができなかった。


「誰の書いた話か知らないが、気に入らないな」


 手の内の『春のあなたに』を力強く握り直す彼の顔を、沙華はじっと見つめ直す。

 彼女のいちばん好きな顔だったからだ。


「帰るぞ、沙華」

「あらもういいんですの?」

「ああ」


 颯はなぐるふぁるのキャップを締め直し、頷く。


「決めた。こうなったら、力尽くで変えてやる」



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