エピソード2
その場所に刻まれた記憶 1話完結
「おーい、洋介」
私は洋介のシルエットを見るなり、思わず大きく右手を振る。
洋介も気づいたらしく、全力で手を振り返してくれた。
洋介の表情は影に埋もれていた。何故なら彼の背後からはセブンファイブの明かりが容赦なく照らしつけていたからだ。それでもなお、いつもの明るい笑顔が私には想像できた。
「父さん、元気だった?」
「ああ、もちろん。洋介はどうだ」
「うん、まあまあいいよ」
私は左手で、洋介の頭を上からずん、と押しつぶした。かぶっていたニット帽が抵抗もなくくしゃ、っと潰れる。こいつ、と頭をぐりぐりとやりたい衝動に駆られた私に、思わずにこり、と洋介も笑う。
「父さんと会うの一年ぶりだね、会いに来てくれて嬉しいよ」
洋介の表情から優しい笑顔が飛び出した。そしてその黒縁メガネを光らせながら、次々と質問攻めが始まった。
「母さんは? 元気にしてる? 佑太は?」
私はこらえきれず、ははは、と笑い飛ばしてしまった。
「まあ、そう焦るなって。みんな元気だ、母さんも、佑太も」
洋介はほっとしたのか、肩の力が抜けたのが見て取れた。まだ中学3年生なのに、いつでも家族の健康を思いやる、本当に優しい子だ。
「なあ、洋介。一つ報告がある。父さんは今年、手術をした」
洋介の顔が少し曇る。
「え? どこか体の調子が悪いの?」
「いや、大したことない。イレウス、って言ってな。いわゆる腸閉塞、つまり腸が詰まってしまったんだ。でも手術して、今はどうもない。大丈夫だ」
そっか、それならよかった。と、少し曇らせた表情を残したまま、洋介は緊張の表情を解いた。
「みんなも元気にしてるかな、辰夫とか健太郎とか」
辰夫、健太郎、これらはみな洋介の少年野球時代の同級生、いわゆるよくつるんでいた仲間たちだ。
「そうだ、辰夫君も健太郎君もちょうどこの前、うちに来たよ。それで洋介の話をたくさんしていったぞ。洋介に会いたいって」
洋介はうんうん、と頷くと、そうだね、僕も会いたいな、と呟いた。
ふと、とある違和感が私を襲った。
何かが降っている。
「雪?」
暗い闇を見上げると、無数の星たちがひらひらと地上に舞い降りるように、その白い結晶は私たちの目の中に飛び込んだ。
すべてがランダムで、なおかつどこか規律的で。一つ一つのそれ自身すべてが私たちの想像を裏切る動きを呈している。
その魅せる動きは喜びの舞なのか、はたまた嘆きの表情か。
夕闇のステージで繰り広げられる自然の神秘に、私はしばらく言葉を失っていた。
「なあ洋介。信じられるか?」
私はその果てしない黒に浮かぶ無数の白に、まるで体を預けるよう、ただじっと空を見上げていた。
「洋介と一緒に悪ふざけしていたあいつら、もう成人式だって。
雪の一つが目に入り、思わず私は瞬きをした。世界が一瞬ゆがむ。
何度か目をぱちぱちとさせた。
腕で拭いもした。
それでも世界はゆがんだまま。
原因は舞い降りる雪ではない。じわじわとあふれ出る、胸の奥のその先の触れることのできない熱い想い。それはやがて体中を駆け上がり、眼球を通じて涙となって流れ出た。
「辰夫君も、健太郎君も一年が経てば誕生日が来る。そうすればみんな年を取っていくんだよ、いずれは成人式だってくる、それが人間ってもんだ。それなのに……」
のどに大きなものがひっかかった。嗚咽が漏れそうになるのを必死で抑える。
「なのに洋介。なんでお前はいつまでも中学3年生のままなんだ?」
私はきっ、と視線を地上に戻した。
そこにはセブンファイブの明かりと、ひらひらと揺れる白い雪。そして誰かが置いていった小さな花束、それだけが在った。
この日の事を覚えていてくれた誰かが供えていってくれたのだろう。
私はその横に、洋介の大好きだった野球のボールを静かに添えた。
ちょうど5年前、事故はここで起きた。
信号無視の乗用車を避けようとした大型トラックは、大きく道路を反れ、歩道に突っ込んだ。
野球の練習帰りだった洋介は、その大きな塊になす
その瞬間を境に、洋介の時間は止まった。
あれから5年間、それは今も変わらない。
舞い落ちる白い花びらは地面にたどり着いたその瞬間、アスファルトに吸い込まれる。あたかも前から存在すらしていなかったように。
私のまぶたからしずくが零れ落ちる。それはただちに灰色の中に消え去った。まるでそんなものは最初から無かったかのように。
洋介は生きている。
私たちの胸の中で、今でもあの時のまま、あの優しい笑顔のまま、息づいている。
1年に一度、ここで会える。
あの愛らしくて憎めない、いつだって人の事を思いやっていた優しい心を持った洋介に。
降りしきる雪は次第に強さを増す。やがてこのまますべてを埋めてくれるかもしれない。
それならばいっそ、この深い悲しみすらも、すべて包み込んでしまってくれたらいいのに。
(エピソード2 その場所に刻まれた記憶 了)
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