エピソード1
同じ空の下で 前編
「陽介、お待たせ」
待ち合わせ場所である「セブンファイブ前」に陽介を見つけると、私は大きく右手を振った。まだ遠くにいる陽介は後ろから放たれるセブンファイブの光のせいで、その表情こそ暗闇に沈んでいたが、背格好からすぐわかる。そもそもこんな時間にここで待ち合わせる人はそんなにいない。
陽介の前に辿り着くと、その肩に手をぽんと置いた。
「寒いな、早く行こうか」
そう言ってその場を去ろうとする私とは反対に、陽介はただその場に足を止めていた。
「どうした、早く行かないと寒いぞ?」
そんな私の問いかけに陽介はぼそっと呟いた。
「父さん、いつもその格好だね」
私は思わず自分の服装を見つめた。確かに来ていた黒のダウンジャケットはもうかれこれ10年くらい経つだろうか、大事に使っているつもりだ。むしろ誇らしく思っていたが、改めてそう言われると袖にあるつなぎめのほころびなんかが少し貧乏くさく見えた。
「よく陽介が小さい頃、『お父ちゃん』ってここに飛び込んでたんだぞ、覚えてないのか?」
陽介は黙って足を動かし始めた、顔はうつむいたままだ。
慌てて私もその後をつけようすると、
「父さん。僕、明日は高校受験の模試だから8時には帰るね。まだ塾のテキストで終わってないところあるんだ」
そう呟く背中がどこか冷たく感じたのは、きっと気温のせいだけじゃない。
向かった先はいつものファミレス、ドニーズだ。黄色い背景に赤い文字で大きく書いてあるその看板は、いつ見ても食欲を掻き立てられる、うまいデザインだ。
4人席のテーブルに私と陽介は向かい合った。陽介はこっちをみることなくメニューに視線を吸い込ませている。そのうつむく表情と黒縁メガネ、そしてその昔「のび太君カット」と言われ泣きながら帰ってきたことのある、その坊ちゃん刈りの頭を見ながら思った。しばらく会わないうちに大きく成長したな、と。
「一年ぶりだな、元気にしてたか?」
メニューをきょろきょろ見ていたその首が一瞬止まった。
「父さん、いつも最初そう聞くよね」
少し冷めた感じ、これが中学3年生特有の思春期というやつだろうか。
去年も同じ質問だったかな、一年も経つと自分が前にした質問すら忘れてしまう、それが一年という重みなのかもしれない。
運ばれて来た食事を頬張りながら、私はいくつか質問をした。
「学校、うまくいってるか? 受験はどうだ?」
うん、まあぼちぼち、食事を食べながら陽介はぼそっと声を出した。
ピコン、その音に気づいて、すぐさま陽介はポケットからスマホを取り出すと、機敏な指さばきでその画面を右往左往させる。きっとLINEというやつだろう、友人からのメッセージに返事をしているのだ。
私と陽介は目と鼻の先の距離にいるのに、陽介にとっては遠くにいるその友人の方が私より近い。そう考えるとなんとも言えない切なさがじんわりと胸に込み上げた。
ふと、別のテーブルに目をやる。そこでは家族連れが賑やかに会話を交わしていた。
「おもちゃは家に帰ってから!」
「待って、それゆうくんのだよ!」
「あー、もううるさい! 喧嘩するなら全部あげないからな!」
その遠くのテーブルで声を張り上げる、見知らぬ父は明らかに苛立っていた。だが、そんな光景も私から見ればむしろ羨ましかった。なぜならそこには家族がいたからだった。
ここはファミリーレストラン。
家族連れが来る場所、家族がいて当然なのだ。
だが今ここに家族はいない。昔、家族だった父と息子がいるだけだ。
離婚してもう6年になる。当初は、月に一回は陽介と会っていた。陽介も私と会うことを毎回喜んでいた。公園に行ったり、ショッピングモールに行ったり、それはそれは楽しんでくれたし、自分も楽しかった。
次第に年齢を重ねるにつれ、会う機会は減っていった。
こうして今は陽介の誕生日の前の日、1年に1回会うだけになっている。ここドニーズで夕食を摂るのがいつもの流れだった。
陽介は何度もちらちらと腕時計を見ていた。
その時計、どこで買った? そんな質問を思いついたが、そんな質問すら今の私にはする気が失せていた。
陽介は私に会いたかっただろうか。
大体察しはつく。
直子、離婚してからその元妻の名前を呼んだ記憶はもうないが、あいつがきっと言ったのだろう、行っておいでって。
年に一回なんだから、って。
そんなにいやそうな顔しないでって、父さんもきっと楽しみにしてるんだからって。
いやいやながら押し出された陽介はふてくされながら、ここに来たのだろう。
私はどうか。
陽介に会いたいか?
そりゃ息子なんだから、当然だろう、そう咄嗟に、必死に答える自分と、もういいんじゃないか、お前は十分頑張ったよ、そう答える自分が自分の中で錯綜する。
お前は今楽しいか? 惰性で陽介と会っているだけじゃないのか?
自分を慰めるためにここに来ただけじゃないのか?
自分の弱さ、夫婦の終焉を避けられなかった情けない自分を誤魔化したいだけじゃないのか。
次々ともう一人の自分が私の大事な胸の奥底を殴り続ける。
「父さん、もう時間だから僕行くね」
そうぼそっと呟くと陽介はすっと立ち上がった。
「ああ、元気でな」
持って来ていたリュックを背負うと陽介は背中を向けた。そして、
「それと父さん、もう無理しなくてもいいよ」
そう言い残して、陽介は去って行った。
もう無理しなくていいよ、その言葉は重く私の胸に刺さった。
陽介の言うとおり、私はきっと無理をしていた。そんなことはないという思いを、漬物石のような重いもので必死に蓋をしていた。何度抑えても抑えきれないその気持ち、諦めてしまったら消えてしまうんじゃないかという陽介との絆、それらに必死にしがみついて、嘘をついて、自分を納得させていた。
もし誰かに、息子はいるか? と聞かれれば、いる、いやいたと答えるだろう。
なんだ、それは。生きてるのか? そう問われたら、生きていると答えるだろう。
生きている? 本当に? これでは死んでいるのと同じではないか。生物学的に親子なだけで、人間としての絆のある息子はきっともういない。
私は息子を殺したのだ。
そして息子にとっての本当の父親も私が殺したようなものだ。だから私は二人、人を殺している。
どうにかならなかったか、そう言われればどうにかなったのかもしれない。
でも一つだけ確かなことがある、それはあの時の私にはどうにもできなかったということ。
陽介もいつかはわかってくれるだろうか。そうだ、あいつが酒でも飲めるようになったら、この時のことをもう一度話してやろう。
お前は父さんにひどいこと言ったんだぞ、って、父さんだって大変だったんだぞって。
そんなことねえよ、ひどいのはそっちだろ、そんな言葉が返ってくるだろうか。それでもいいい、その時はあいつの頭をこつんとひとつどついてやろう。お前それが父さんに対する扱いか、って。
——その時まではお預けだ。それからでも遅くない。そんなことを考えながら私は会計を済ませ、ドニーズの入り口を抜けた。
思わず冷たい風が私の腹を殴る。
数年前はこの衝撃の主は冬風ではなく、陽介だったろうに。そんなことを考えながら空を見上げた。
真っ暗な闇に浮かぶ数個の星達。
私が出来なかった分だけ、せめて空から陽介を見守っていてくれないか。見守るだけでいいから。あぁ、自分勝手な願いだってわかってる、でも今だけは少し、私のわがままを聞いてもらえないだろうか。
そんな事を考えながら、私は家路に着くのだった。
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