同じ空の下で 後編

「いや、それにしても暑い。この暑さはどうにかならないものですかね」

 そう呟きながら、フラワーショップ「Fleur(フルール)」の店内にそそくさと逃げ込む。一気にクーラーの冷たい風が全身を包んだ。地獄から天国とはまさにこれを言うのだろう。

 突然飛び込んで来たその声に「Fleur(フルール)」の店主、山崎さんは読んでいた新聞から、店の入り口へと視線を切り替えた。そして、丸メガネを下にずらすと、じっとその声の主を確認する。一瞬にして伺う表情から、満面の笑みへと表情が変わった。

「おっ、陽介ちゃん。いらっしゃい、まいどです」

 山崎さんは立ち上がると、折れ曲がった臙脂えんじ色のエプロンを、ぱんぱん、と伸ばす。

 狭苦しい店内に、カットした花の茎なんかが散らばっているその場所は、お世辞にも整っているとは言えない。たが、年季の入ったその雰囲気はどこか懐かしく、心を落ち着かせてくれる不思議な空間でもあった。

 熱気が店内に入り込まないよう、しっかりと店の引き戸を閉めると、私は一つため息をついた。

「おっちゃん、もういい加減『陽介ちゃん』はやめてくれませんか。自分、これでももうアラサーですよ。今年で30歳ですから」

 山崎さんは昔からのなじみで、私の小さい頃を知っているが為に、いつまでも私のことを陽介ちゃん呼ばわりする。

「いやいや、これは申し訳ない、以後気をつけます。ところで今日は御家族で墓参りですか? 陽奈子ちゃん、いくつになりました?」

 私は額からこぼれおちる汗を、ハンカチで拭った。目の周りにまとわりつく汗だけは、どうしても黒縁メガネをずらしながらではあったが。再びメガネを元に戻すと、思わずドヤ顔にも近い、にやり、を浮かべていた。

「今年で5歳になります」

 5歳? もうそんなに? おっきくなりましたねえ、陽介ちゃんもすっかりお父さんですね。昔はあんなに可愛かったのに、ほらあのマンガに出て来るのび太君? あれにそっくりでねえ、そんなお決まりのセリフを発しながらも、手はそつなく動き続け、お墓に供える花束が着々と整えられていた。


 小学生の頃、私は自分の坊ちゃん刈りの髪型を、のび太君カットだ、とばかにされて泣きながら帰って来たことがあるらしい、全部私の母さんから聞いた話。


 山崎さんの手元を見てみる。

 菊の花をベースに、色は水色、黄色、そして赤。気づけばあっという間に美しいお供え用の花の芸術作品が誕生している、さすがプロだ。

 私はその花を受け取り、代金を払うと、妻と陽奈子の待つ父さんの墓へ向かった。


「陽奈子、お待たせ。はいこれお花、じいちゃんに渡してね」

 私はしゃがみこみ、持っていた花束を陽奈子に渡す。陽奈子はそれを全身で抱えると、そのまま思わずにっこり笑顔が溢れ出た。

「きれい」

 そう言って微笑みながら、お墓の階段をゆっくり上る、そして墓石の前にその花を供えた。

 私は妻の横に肩を並べ、その姿を暖かい眼差しで見つめていた。思わず妻と目が合い、そのタイミングについ照れ笑いがシンクロする。

「陽奈子も成長したな」

 妻はゆっくりうなずいた。

「もう年長さんだからね。幼稚園じゃすっかりお姉さん気取りらしいよ」

 という名前は私の陽介の陽と、妻の奈月の奈からとった。両親の名前を一つずつ取る、なんてありきたりだと友人にはバカにされたが、一人目の名付けとしてはこれが一番無難だった。私も奈月も結構気に入っている。


 奈月は墓石、私の父が眠るそれを確認し、遠くを見るような目つきで口を開いた。

「そう言えば私、あなたの父さんのこと、詳しく聞いてなかった気がする。確か亡くなった理由は肝臓を悪くしたんだよね」

 陽奈子は、墓石の前の砂利を両手で救っては落とし、じゃらじゃらという音をもてあそんでいた。

「ああ、実は自分も詳しい事は良く分からないんだ。最後に会ったのは中学3年の時。その結構すぐあとに急に体調を崩したらしい。亡くなったのを知ったのは葬式の時だったよ、もう15年も前の話になるな」


 あれから15年か。

 今では私も結婚して7年目、無事可愛い子どもも授かった。親というものがどれだけ大変なのか、今まさに身をもって体感している。


 離婚、という選択をした父さん達。時にはそのことを恨んだことさえあった。

 でも今なら分かる。生きるということ、親になるということ、これがどれだけ大変で、どれだけ意味のあるものなのかを。それを乗り越えてきてくれた両親がどれだけ大きい存在であるのかを。


 今ならちゃんと面と向かって言えそうな気がする、父さん、あの時は生意気言ってごめん、そしてありがとう、と。

 できれば酒でも飲みながら、昔のことでも語り合えたら、そんな事を想像してみることがある。たわいもない妄想であることはわかっているけれど。


 さりげなく空を見上げてみると、薄い青のキャンバスに白い夏の雲が色濃く塗られていた。蝉の大合唱と、ジリジリと刺すような8月の日差しにやられながらも、私は思った。


 きっと父さんもこの同じ空を見上げていたんだよな、と。


(エピソード1:同じ空の下で 了)

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