コードネーム:YOS 後編
少年は手を出した。
例のモノを渡してくれ、という合図だった。
男はおもむろに胸の内ポケットから小さい塊を取り出す。その際にちらっと潜めていた拳銃が見え隠れした。
そしてのその塊を少年の手に渡す。
「ヨウスケ」
「アボジ、もういいよ」
「ヨウスケ、聞いてくれ」
少年の目が闇の中、一つ鈍い閃光を放った。その一見可愛らしい黒縁めがねの奥に光る鋭い眼差しは、まるで今までに何人か人を殺めた事があるのかと思うくらい、冷たく、不気味な力を含んでいた。
「ヨウスケ、同胞9人は皆ネクった」
少年はまるで獲物を狙うハンターのような鋭い形相のまま、ただただ微動だにしなかった。
もちろんその言葉の意味を知らないはずはない。アポった、とは強いて言うなら殉職に近く、目的をなんらかの形で達成した後の死。一方で、男の発したネクったという意味は目的を達成出来ないままの死、つまり犬死にしたという意味だった。
「ヨウスケ。お前は最後の一人だ」
少年はまるでその言葉が頭に届いていないかのように立ち尽くしていた。
一国の工作員として幼い頃から育てられ、潜入対象国の言語、文化や諜報活動に必要な技術、時には殺人の訓練まで詰め込まれた時間は、彼の人間としての感情を遥か深いところに押し込んでいた。指導者への忠誠を深く刻み込まれた彼は、彼本来が持っていた個というものを重く、硬い壁で囲み尽くしていた。
しかし今、その内側から込み上げる人間らしい感情がまさにその硬い壁を何度も叩き続ける、少年はそれを必死に抑えていた。
死など怖くない。
目的さえ達成できれば、その死は美しく輝き出すだろう。
しかし、犬死にとなれば話は別だ。
今まで物心ついた頃から苦楽を共にして来た数人の同胞達の表情が脳裏に浮かんだ。
彼らはもうこの世にはいない。
そして皆、指令は達成できず消された。
男はマフラーでほとんど隠された顔からかすかに覗く両目で、目の前の少年を見つめた。
「奴らの好き勝手のために、祖国を潰されるのはごめんだ。ヨウスケ、お前もわかってるだろう、こいつの中身が何なのかを」
男も少年も司令の詳細は聞いていない。身柄を拘束されて自白させられることを防ぐためだ。
だが大体は感づいている、今回の大量破壊兵器の情報に関連することであろうということくらいは。
「行け、故郷に。花火を上げろ、そして祖国を守れ」
『故郷』とは大使館、『花火を上げる』とは目的を達成せよ、との隠語だった。
男は左手を少年の頭にあるニット帽の上に置いた。
しかし、ニット帽はくしゃっとは潰れず、代わりに鈍く、硬い感触が返って来た。
男がニット帽に手を置いたのは、こいつー、と優しく撫でるためではない。その硬い感触を確かめるためだった。
少年が被っていたのはニット帽ではない。防弾キャップ、大事な頭を銃弾から守るものだった。
慣れた者であれば、後頭部から脳幹目掛けて一発打てば、一瞬で仕留められてしまう。少年が頭に被っている防弾キャップなら、2、3発程度なら持ちこたえることが出来るだろう。
少年はもう一度渡された黒い塊に目をやった。
男から渡されたその黒い塊はマイクロチップ。これを特殊な方法で解読をすると、とある一つの情報が喋り出す。そしてそれはひょっとしたら一つの戦争を止められるかもしれない、そんな情報だった。
これらの情報を持って、日本にある朝韓大使館に入り込む。それが彼の指令だった。
男はさっと踵を返すと、一瞬だけ少年をちらっとみてからそそくさとその場を去って行った。その黒のダウンジャケットと、ポケットにつっこまれた手をただじっと少年は見ていた。
おそらくこれがその男の最後の姿となるだろう、少年はそう実感した。自分を幼い頃から親代わりとして育てて来たその男。時に自分を殴り、時に自分を励ましたその男が見えなくなった時、まるでその命まで一緒に見えなくなったように少年は感じていた。
*
数時間後、一つの交通事故を交通カメラが捉えていた。
深夜の交差点、黒のダウンジャケットを着た男が、後ろから来た黒塗りのワゴン車に追突され、そのまま全身を轢かれた。病院に運ばれた時には、もう手遅れで、間も無く息を引き取った。
被害者は身元不明の男性で、警察も早々と単なる交通事故として捜査を切り上げたという。
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