後篇
夏が近いということもあり、常橘が潔斎を行う小屋は僅かな熱気で蒸していた。しかし、最初の頃は鼻を顰めた独特の悪臭も、やがて身体が麻痺して何も感じなくなった。
潔斎に入る際、国長の妻から贈られた純白の衣は、汗と埃に塗れて見る影もない。額に掛かった髪を気だるげに払えば、櫛を入れていないせいか、鬱陶しく指に絡まった。そのギシリとした感触は、決して快いものではなかった。
(まるで、拾われた頃のような有様ね……)
虚空を見据えながら、常橘はぼんやりとそんなことを思った。
母の首を抱え、血と土に塗れた姿は悪鬼のようだったと言う。けれど、そんな彼女にも梓は躊躇わず手を伸ばしてくれた。帰る場所も、未来もないと絶望していた少女に、「常橘」の名と、あたたかな場所を与えてくれた。
――わたしは、それに応えたい。恩返しが、したい。
いくら海に慣れた航海士たちが同乗するとは言え、必ずしも安全に海を渡れる保証はない。万が一、梓の旅が失敗してしまえば……常橘は、二度と彼に恩を返すことも出来なくなるのだ。今こそ、あのときの感謝を示すときだと常橘は信じていた。
(梓さまのお役に立てるのなら、わたしは何だって耐えることが出来る……)
そのとき、微かな音を立てて小屋の戸が開いた。隙間から射し込んだ太陽の眩しさに、常橘はぎゅっと目を閉じた。
「常橘……」
久々に耳が捉えたのは、あまりにも懐かしい声だった。少女の肩が大袈裟に揺れた。
(きっと、わたしは今、とても酷い見た目をしているわ……)
そのことが何だか急に恥ずかしくなり、常橘は身を捩った。最後に喧嘩別れしてしまったことも、彼女を躊躇わせる一因だった。
「常橘」
だが、そんな少女にも、梓は根気よく言葉をかけた。
「常橘、わたしを見て。……もう、怒ってなんか、いないから」
優しい声色に、伏せていた目を少しだけ上げる。
そして少しだけ後悔する。彼と目が合い、泣きたくなった。
「……まさか、君がここまで耐えるとは思いたくなかった」
その一言で、彼が今でも少女が持衰になることを望んでいないのだと分かった。
けれど、常橘は潔斎に耐えた。耐えきって、しまった。
「……それほど、君の決意は固いんだね」
迷わず頷いた少女に、疲れの滲んだ苦笑が返される。分かった、と呻くような声のあと、微かな衣擦れの音が近づいた。
「それなら、これを受け取って欲しい」
「っ、これ、は……」
満足に水も取っていないせいで、声が掠れる。梓の手が、彼女の掌にそっと触れた。
「わたしからの、持衰の君への贈答品だよ。……前払いみたいなものかな」
冗談めかした口調と共に渡されたのは、小さな櫛だった。半月型の側面には、花橘の繊細な意匠が彫られている。
「そんな……こんな、大層なもの……」
「常橘、どうか受け取って」
少女に櫛を握らせ、彼は遠慮する彼女の心を封じるようにその上から自らの手を重ねた。触れた指先の熱さに、頑なな少女の心もほろりと溶ける。
「……有難う、ございます……梓さま……」
それをぎゅっと握りしめ、常橘は祈るように瞳を閉じた。
(必ず、この航海を成功させなくては)
戸口から流れた夏の風が、彼女の黒髪を揺らした。
◆
多くの民たちの期待を受けて、梓を乗せた一行は大海原へと乗り出した。
大きな被衣ですっぽりと顔を覆い隠した常橘も、よろける身体を支えられながら同乗した。航海の間も、彼女は潔斎に身を置き、一心に旅の無事を祈る。
(大丈夫、きっとやり遂げてみせるわ……梓さまの、ために)
懐に忍ばせた櫛を、装束の上から握り締める。それだけで、これからの不安も緊張も忘れられた。
当初、航海は至って順調であった。一本の大きな杉の木を用いて造られた船は、海流と風を上手に掬って、ぐんぐん突き進む。
そもそも、航海は、逆風の少ない時期を選んで行われた。船を操るのは海流や天候の経験的知識の豊富な男たちであり、陸岸の目標物を見ながらの用心深い航海は、思った以上に安全なものであった。故に、誰もがこの大役の成功を予感していた。
しかし、俄かに沸き立った黒雲は風を呼び、雨を呼び、彼らを呑み込んだ。嵐に嬲られ、大量の潮水が容赦なく流れ込む。船は均等を保つことさえ難しく、いつ転覆してもおかしくはなかった。
ギシッ……バキバキッ……!
更には地鳴りのような破壊音が、震える人々の恐怖心を誘った。
「どうして、この時期に!!」
何度も航海を経験している男たちにとっても、この嵐は予想外のものだったらしい。いざというときのため、ある程度の備えも、そして修羅場を潜り抜けてきた経験も彼らにはあったが、どんどん強くなる暴風にその余裕はなくなった。
焦りや恐怖は、やがて彼らの心に黒い影を翳した。
「――この女のせいだ」
誰かのその一言が、揺れる船上に波紋を落とした。それは瞬く間に男たちの間に伝播していく。
「そうだ、その持衰のせいだ」
「掟を破ったか、或いは穢れを孕んだか?」
持衰が穢れをまとえば、船は沈む。航海の安全はすなわち、彼らの身の潔白の証明でもあった。
だからこそ、男たちは常橘を責めた。嵐という災厄に、彼女の責を求めて。
「お前のせいだ!」
「お前のせいだ!!」
呪歌のように、男たちの声が少女を苛む。
それは嵐の音よりも大きく、彼女の耳朶を打った。
「っ、わたしは……」
激しい雨風に濡れた四肢が、悲鳴を堪えるように震えた。その様子に、梓が声を上げた。
「止めろっ! 責任なら、彼女の同乗を許した、わたしにある!!」
しかし、荒波に揉まれた船上では、梓の声など無力に等しかった。
「大陸どころか、国にも辿り着けない!」
「船は沈む! 俺たちも死ぬ!!」
「もう、何もかも終わりだ!!!」
船に縋りつく者、絶望に泣き叫ぶ者、祖先に祈りを捧げる者……男たちはその大柄な体躯を震わせて、ただ成す術もない。
「……分かりました」
その喧騒の中、静かな声色が凛と響く。それは、否応なしに梓の耳朶を劈いた。
「わたしが、責任を取ります」
強風に煽られながらも、少女は柱を支えにして立ち上がる。舞い上がる裳の鮮赤が、青年の視界を掠めた。
「常橘、何を……っ」
「……梓さま。あなたのお蔭で、わたしは今日まで生きて来れました。あの日、あなたが伸ばした掌は、何もかも失ったわたしに、生きる希望を与えてくれた……」
母を亡くし、彷徨っていた賤しい子供を救ってくれた少年。その優しさに、差しのべられる手に、何度も救われた。
「だから今度は、わたしがあなたを救います……道を、切り開きます」
そう言って、少女は梓に背を向けた。その足取りには一切の迷いすらなかった。
「止めろ、常橘っ!!」
去っていく彼女の背中に、梓は手を伸ばす。けれど、雨粒を吸って重みを増した袖が、それを阻んだ。
青年のちっぽけな手が、煙る視界で虚しく空回る。
「止めろ、誰か、止めさせてくれ! 誰か、誰か――っ!!」
――彼女が、死んでしまう。この手をすり抜けて、遠くへ行ってしまう。
声にならない恐怖を、彼は叫んだ。しかし、その悲鳴を掬い上げてくれる人はいない。誰も、いない。
船の先端に辿り着いた少女は、ゆっくりと空を仰いだ。その白皙を容赦なく雨は打ちつける。それなのに、彼女の唇は嬉しそうに綻んだ。
「わたしは、持衰です。この航海の成功を、誰よりも望んでいます……」
彼女は胸元から、そっと何かを取り出した。
それは半月の形をした小さな櫛。梓が、与えたものだった。
「これで、やっとご恩が返せます」
それを大事そうに握り締め、常橘は梓を振り返った。ふわり、とその珊瑚色の唇が、甘い祈りを捧ぐ。
「さようなら、梓さま。あなたの旅路が、未来が、……どうか健やかなものとなりますように……」
「っ、止めろ――!!」
制止の声を振りほどき、彼女は荒れ狂う波も恐れずに自ら身を投げた。彼女の衣が、黒髪が、風を孕んで嵐に舞う。
最後に微笑んだ唇が、大切な言葉を吐き出すように動く。梓は、その形から目が離せなかった。
――あなたを、あいしています。
それは、自らの願望が見せた幻か。それとも……。
「常橘――っ!!」
しかし、その答えを告げぬまま、少女の小さな身体は波に飲み込まれた。
やがて、彼女の願いを聞き届けるように海は凪いだ。
◆
その後、梓は無事に役目を終えた。一番大切な、少女を引き替えにして。
半年後、故郷へと戻った彼は、たまたま立ち寄った浜辺でひとつの櫛を拾った。花橘が彫られたそれは、かつて梓が常橘に与えた櫛であった。
流れついた彼女の唯一の形見を抱いて、梓は大声で泣いた。
それから三年後、父の逝去により、梓は異母兄の補佐役として実質的に交易の責任者となった。
大陸から様々な技術や品、そして知識人を迎えることで国は小国ながらも豊かさを増し、女王国からも一目置かれるようになった。そのことを誰もが喜び、そして梓たち国長の一族の治世を言祝いだ。
けれど、梓の胸の内には、いつも満たされない想いがぽっかりと居座っていた。その空虚さを紛らわすように、彼は以前にも増して巡視に務めた。
その日、訪れたのは小さな海辺の邑だった。国長の弟とあって、邑人たちは梓を丁重にもてなした。
「あずささま、あちらよ!」
「あちらにね、たからものが、たくさんあるの!」
そう言って無邪気に客人を慕い、まとわりつく子供らに誘われるまま、梓は海辺へと足を運んだ。
嵐のあとには、たくさんの漂流物が打ち上げられる。それらは邑人たちに、海神からの贈り物だと信じられていた。
梓が辿り着くと、意外にも砂浜は老若男女の姿で賑わっていた。面白い形をした流木や、珊瑚色の貝殻を手にした子供たちが、きゃっきゃと歓声を上げながら通りすぎていく。微笑ましいその光景を、梓は視線で追いかけた。
「……っ!」
そして、あるひとりの少女から目が離せなくなった。
日に焼けた邑人たちとは異質な、白皙の肌。腰の辺りまで伸びた、ぬばたまの髪。海の彼方へと向けられた黒い眼差しは、何かを焦がれるような切なさを湛えていた。
「あっ、わたつみの姉さまだ!」
梓の右手を引いていた少女が、嬉しそうに声を上げた。
「わたつみの、姉さま?」
「そうよ。嵐のあとに、わたつみのかみさまが運んで下さった、きれいなお姉さま」
「でもね、何もおぼえてないのですって」
少女たちは競うように「わたつみの姉さま」について、自分たちが知る限りのことを喋った。けれど、そのほとんどが、梓の耳を通り抜けていった。ただ、件の少女を見つめることしか出来なかった。
やがて、その視線に気づいた彼女が顔をそっと上げた。その面差しを真正面から受け止めることとなった梓は、漏れそうになる悲鳴を堪えた。
「……あの、どちらさまですか?」
明らかに自分たちとは違う、品の良い身形をした青年の眼差しに、二十歳に満たない少女は戸惑うように口を開けた。
「その、痣は……」
「え?」
その少女の掌には、半楕円の赤い痣がくっきりと浮かんでいた。まるで、何かを強く握り締めていたような――その、何処か見覚えのある形に気づいたとき、彼は堪えきれずに彼女との距離を詰めた。
いつも首にかけてしまっている櫛を取り出し、少女の掌に押し当てる。青年の全身が、震えた。
「……嗚呼」
櫛と痣は、見事に重なりあった。少女が、驚いたように目を瞬かせる。
「わたしの名は、梓」
その声は、みっともないほどに震えた。それでも、梓は懸命に言葉を紡いだ。
「君の名は、常橘。あの日、わたしが見つけた、大切な人……」
彼女が忘れてしまった記憶を手繰りよせるために。ひとつ、ひとつ丁寧に。
あの日、伝えられなかった想いと共に――。
「君を、ずっと、愛していたよ」
彼の告白に応えるように、少女の瞳から透明な滴が零れ落ちた。
わたつみに捧ぐ手向け花 白藤宵霞 @shoka_s
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