わたつみに捧ぐ手向け花
白藤宵霞
前篇
常橘(とこたち)が拾われたのは、彼女が十になる年のことだった。
その頃、彼女が住まう村は大規模な大乱に見舞われ、老若男女問わず多くの死者を出した。後に、倭国大乱と呼ばれ、やがて大陸の書に名を刻むこととなる女王誕生のきっかけともなったその大乱は、罪もない少女から多くのものを奪っていった。
宛のない道を、首を斬られて死んだ母の頭を抱えながら、幽鬼の如く彷徨う。
しかし、幼い身体は限界も早い。母を抱く腕は痺れて感覚を失い、引きずるようにして歩く素足はじゅくじゅくと彼女を苛んだ。
(……もう、歩けない)
一度浮かんでしまった弱音を圧し殺す術を、そのときの少女は知らなかった。
「っ……ぅ……」
ぺたりと尻餅をついた彼女は、そのまま声もなく泣いた。煤汚れた頬の上を透明な滴がひとつ、またひとつと零れ落ちていく。
このまま枯れ果ててしまえば良いのに、と少女は思った。枯れ果てて、そして、萎れて死んでしまえたら良いのに、と。
そのとき、途方に暮れた幼子に小さな影が重なった。
「親父さま、この子を屋敷に連れて帰りましょう」
霞んで見える視界を懸命に上げれば、それは少女よりもいくらか年上に見える少年だった。
「だ、れ……?」
常橘が掠れる声で問いかけると、少年は榛色の瞳を柔らかに細めた。
「わたしの名は、梓」
血で固くなった少女の手を取り、少年は親しげに言った。
どうやら彼の名前であるらしい言の葉を、常橘は幼い口内で転がす。
「あず、さ……さま……?」
「うん。……わたしと、一緒に帰ろう?」
そう言って差し出された手は、ひどくあたたかかった。
◆
若草の香りが漂う道を、少女は大きな籠を抱えて歩いていた。木の蔓で編んだ籠は、たくさんの野苺で満たされている。その一粒を、彼女の細い指先が摘まみ取った。
(美味しい……)
口内に広がる甘酸っぱさに、少女はこっそり微笑んだ。と、そこへ、彼女よりも長い影が重なった。
「何をしてるの、常橘?」
聞きなれた青年の声と共に、真横から伸びた手が赤い果実を浚う。その様子に少女は、あ、と声を上げた。ぱちぱちと、ぬばたまのような瞳を瞬かせる。
「梓さま」
「おはよう。これから厨に行くんだろう? 近くまで手伝うよ」
名を呟くと、彼は明るく微笑んだ。そして、当たり前のように少女の手から籠を奪い取り、そのまま並んで歩き出した。
今年、十八になる青年は名を梓と言う。国長の次男であり、六年前、少女を拾ったその人である。
彼の元で手厚い手当てを受けた少女は「常橘」という大層な名前と共に、屋敷の下女として迎えられた。拾われた直後はまるで悪鬼のような有様だった少女だが、いざ血と泥を洗い流して見ると、その下からは固い蕾のような白皙(はくせき)が現れた。それはまるで、初夏に咲く花橘に似ていた。
「梓さまは、これから母屋へ?」
「うん。親父さまに呼ばれたんだ」
常橘が尋ねると、梓は亡き母親譲りの榛色の瞳を眇め、頷いた。
その、陽に透かしたような淡い髪と優しげな瞳の色が、常橘は好きだった。
「今の時期だと、今年の春のお祭りについてでしょうか」
春を迎え、国内では農耕や漁が始まる。それに先立ち、今年の豊作を祈る祭を執り行うのも国長一族の役目だった。梓も、将来、国長となる兄の補佐役として、十四の頃から様々な仕事に携わっていた。
「そうかもしれないね。まぁ、親父さまのあの様子だと、特に悪い報せではないだろうけど」
常橘の言葉に軽く頷きながら、青年は再び野苺に手を伸ばした。それに気づいた常橘が、彼の袖を引っ張る。
「梓さま、あまり食べ過ぎないで下さい」
彼女がやんわりと嗜めると、梓は「ごめん、ごめん」と無邪気に笑った。
その横顔を見つめながら、少女は小さく嘆息した。それは十六という実年齢よりも大人びて見えた。
常橘を送り届けた梓が母屋へと足を踏み入れると、そこには既にふたりの男が控えていた。上座に座るのは、国長の武彦。その傍らには、梓よりも十歳年上の長兄が座していた。
「親父さま。お呼びと伺い、参上しました」
「梓か。まぁ、適当に座れ」
その言葉に従い、梓は長兄の隣に腰を下ろした。目が合うと、互いににこりと視線を和ませる。ふたりは異母兄弟の間柄だったが、年が離れていることもあり仲は良かった。
それぞれの母親に似た兄弟たちとは異なり、父・武彦は見上げるほどの大男だった。山に囲まれた荒れ地と漁猟によって生計を立てる一族の長らしく、日焼けした大柄な見た目はまるで大岩のようだ。
ただ、深い苦悩の皺に埋もれた、少しだけ垂れた目の形だけは、息子たちとの血の繋がりを感じさせた。
「――突然だが、交易を広げたい」
いつものように、しばらく談笑を交わし合った後、武彦はそう切り出した。
「……交易、ですか」
梓の代わりに、兄が父の言葉を反芻する。そうだ、と武彦が地響きのような声で答えた。
「お前たちも知るように、この国の土地は狭く、豊かとも言えない。これまで、我々は海の幸を頼りに、何とか暮らしてきた」
武彦の言うように、梓たちの住まうこの国は決して豊かとは言えない土地にあった。山海に沿った邑には四千戸余りの人が住まうが、彼らの生活は漁を中心として営まれていた。背後に聳える山は深い草木に覆われ、限られた狭い農地では国民を養うだけの収穫も得られない。国長の一族と言えど、贅沢とは程遠い生活をしていた。
「しかし、かつて女王国が台頭する前、奴国(なこく)は大陸に使者を送り、そして当代随一の権勢を誇った。我々も、この豊かな海を利用しない手はない」
「それで、交易……ですか。確かに危険がないわけではありませんが、成功すれば得るものは多いでしょうね」
兄たちの会話に、梓はごくりと唾を呑み込んだ。
倭の大国の王たちがこぞって関係を望んだ大陸と、この海の幸ばかりが頼りの小国が、直接、渡り合う――その先進的技術や物資を、いち早く手にすることが出来る。その広大な計画に、年若い心が奮わないはずがなかった。
「そこで、その責任者として梓を指名したい」
武彦の鋭い眼差しに指され、梓は隠しきれない喜びをその面に浮かべた。
「わたしが、交易の責任者……」
「お前なら出来るな、梓。一族の男として、この国へ豊かさをもたらす道標となれ」
そう厳かに告げると、彼はふいに目許の力を緩めた。
「……近々、持衰(じさい)を選ぼう。お前の旅路が、幸あることを願って」
それは国長というよりも、父親としての慈愛に満ちた表情であった。
「有難うございます、親父さま。必ず、必ず、此度の大役を成功させてみせます」
父の言葉に、梓は頭を垂れた。その胸には、大きな役目を任された誇らしさが沸き上がっていた。
しかし、数日後、事態は思わぬ方向へと動いた。
西の邑の偵察へ出掛けていた梓は、帰宅早々、母屋へと呼ばれた。そこには、父と兄、そして兄の実母が肩を並べていた。
「梓さんっ!」
挨拶もそこそこに、義母が声を上げる。今にも泣き出しそうな彼女の横では、父が渋面を作っていた。
そして、彼らの前には、額を床に擦り付けた常橘の姿があった。その異様な雰囲気に青年は表情を強張らせる。
「梓さん! どうか、あなたからも言い聞かせてやって下さいっ!!」
「一体、何があったのです、母上」
癇癪を起こさんばかりの義母の様子に、梓は救いを求めるように兄の顔を、次いで父の顔を見た。しかし。
「……常橘が、此度の持衰になりたいと申し出た」
「っ!?」
父の口から告げられた事実に、梓は言葉を失った。
大規模な航海の際には、必ず「持衰」と呼ばれる呪術師が立てられた。髪を梳かさず、シラミも取らず、衣服は垢まみれのままで、肉食せず異性とも交わらずに航海までを過ごす。
船が無事に故郷へ帰ればそれは持衰の功績とされ、奴隷や財貨を与えられる。その代わり、病人が出たり、船が遭難した場合の責もまた、持衰に求められた。
航海が成功すれば莫大な財産を手に入れられるが、失敗すれば生命を失う。それは、大きな賭けでもあった。
「常橘が、持衰になる必要などないだろう!」
少女の細い肩を掴み、梓は憤った。
いつもは柔和な面差しも、口調も、影を潜め、それは常橘を強く責め立てた。
肩先に食い込む爪が、少女の柔らかな肌を傷つける。それらの全ての痛みを堪えるように、少女は唇を噛み締めたまま、青年を見上げた。
「……けれど、わたしは、梓さまのお役に立ちたいのです」
ぬばたまの双眸が、梓を見つめる。
そこには切実で、そして揺るぎない決意が宿っていた。
「わたしは、そんなことは望んでいない。……きっと、大丈夫だから。君はこの屋敷で、わたしの帰りを静かに祈っていてくれたら、それで良い」
少女の間違いを諌めるように、梓はゆっくりと語りかけた。
彼女が自分に恩を感じているのは痛いほど分かっていたけれど、それでも、そんな危険を冒してまで何かを返して欲しいとは思えなかった。
「だから、持衰になるのは諦めるんだ。……良いね、常橘?」
「……」
けれど、青年の言葉に無言を貫くばかりで、常橘は決して頷こうとはしなかった。
結局、彼女の意思を動かせる者は誰ひとりとしていなかった。その頑なさには、さすがの武彦も持衰となることを許すほかなかった。そして、国長である父の決定ともなれば、梓に反論する余地はない。
航海までの間、持衰には様々な制約が課せられる。そのため、彼女は使用人としての役目も一旦返上し、屋敷から離れた小屋で生活を始めた。
その間、彼女が顔を合わせるのは、食事を運ぶ下戸と、持衰を監視する責任者の男のふたりだけである。それさえも必要最低限に抑えられているため、常橘はほとんど他人と接することはなかった。梓とも、長い別れになった。
そして一ヶ月の潔斎の後、常橘は梓の航海に従事する持衰となった。
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