九話 極寒の熱
「あまり、出過ぎになられないよう」
行軍の最中、馬を寄せてきたチュウに、話しかけられた。
「悪いが、それは承知できん。俺は、バガツールであり続ける必要があるのだ」
確かに、前年の活躍によって、
冒頓は、自分の欲望を実現するため、すべてを犠牲にする覚悟でいる。そして、なんの気
「まだまだ認められてはいないのだ、俺は」
つぶやくように言った。
チュウは、
「わかりました。なら、せめて、私かキのどちらかを常にお側に置かれますよう」
守る者の気持ちも理解してほしい。そう言いたいのだ。
「それなら承知できる。苦労をかける」
冒頓は謝罪に近い口調で、首を縦に振った。
「バガツール様に拾っていただけなければ、
受けた恩を返す。チュウなりの義理立てである。冒頓は、心に何か物足りないものを感じた。
――あの偽装退却作戦を立てたことまで知れ渡れば、俺の置かれる立場も多少は違ってくるか――
ふと、思った。
しかし、父も冒頓もその事実を意図的に
冒頓の
内には認められ、外には舐められなければならない。難題だった。そう考えると、
一方、父はなぜ黙っているのか。後継者の
再び、
しかし、戻ってきた斥候の報告を聞いて、その余裕は簡単に吹き飛んだ。息を
敵の数が
なぜ、敵軍が増えたのか。じっと考えた。
行軍してくる道程で、他の諸王が兵を貸したからだ。しかし、一諸王の軍隊に、他の諸王が加勢するのか。しかも、独断専行の軍隊に、である。
が、もし、今迫りくる軍隊が、
――
数が少ないから。迎撃してくるのが速かったから。自分の目算は正しいに決まっているから。
実際のところ、対する敵軍が九千だとわかっていたのなら、冒頓は迷うことなく、撤退を決断していた。
「
思考を打ち消すようなキの言葉に、はっとする。
二度と立ち止まらないと、去りゆくナルの背に
第一に、迫りくる軍が、丁零王の本隊であると決まったわけではないのだ。こちらの目算が外れたと決まったわけでもない。ありもしない事態を必要以上に恐れ、思考の海に沈むのは、
――まだ、どこか甘い――
そう実感せざるを得なかった。
敵の本隊かもしれない。その可能性も念頭に置いて、立ち回ればよい話だった。
対処の方法はふたつ。このまま
「前進する」
もはや安全に撤退できる
基本的に、追う側と追われる側では、追う側のほうが有利である。背中を向けて
もっと言えば、ここは敵の領内であり、地理的にも相手に分がある。こちらの知らない経路を通って、追いついてくるかもしれない。
つまり、事ここに至っては、戦うしかない。すみやかに敵軍を撃破したのち、撤退するしかない。一番、安全だ。
そんな状況に、自軍を
「三千を
チュウに言った。三千とは、元々チュウに預けてあった、あの三千である。
「後発、ですか」
チュウは、唐突な冒頓の命に、
「そうだ。こちらの足並みが
匈奴軍にとって、最も困るのが、
一方のこちらに
九千程度なら勝つ自信はある。それくらいの訓練はやってきた。敵軍とは、吐いてきた
しかし、三万となると話は別である。
だからこそ、
――待つより、今すぐ攻撃したほうがよいのではないか――
敵にそう思わせるのだ。相手の兵力が増えるという
チュウと三千を残し、前進した。
「ここに陣を張って、待ち構えるという手は、やはりあり得ませんか?」
ちょうど、小高い丘の頂上に至ったとき、キが確認してきた。ほとんど岩山と言ってよい。一片の草も生えない
なるほど、陣取れば間違いなく、有利に戦える場所だった。
「駄目だ。通り過ぎる」
くどいようだが、敵が待ちより攻撃を選ぶように立ち回るのが
「承知」
キも自軍の置かれている状況を理解できているのか、それ以上は食い下がらない。一応、確認を取っただけだろう。
丘を越え、不毛な平地に入った。その中央で陣を
時を置いて、チュウの部隊も到着する。その動きを見た敵の斥候が、匈奴軍の足並みは揃っていないと誤認してくれればよいが。
はるか先に黒い影が、ぽつぽつと現れた。影は、その数を増やしてゆく。敵軍だった。正面である。
明らかにこちらの不利。そう分かっていても、攻撃するしかない。
軍を三段に分ける。各段との間、そして各隊との間には、十分な空間を
チュウは一段目に、冒頓とキは三段目に入った。
「進め」
剣を中天に
近づいてゆくと敵の矢が、次々と飛んできた。一方、こちらはまだ
敵の陣容もはっきりする。前に騎兵、後に歩兵。
さらに近づく。
突如として、匈奴軍の前方の二段が、下がった。段と段の
その動きを見た丁零軍は、『一段目と二段目の隊が、矢の圧力に耐え切れず、勝手に撤退したのだ』と認識した。戦闘前にやった、一部の部隊を遅れさせるという小細工も、いくらかは効いていた。元々、足並みのちぐはぐであった軍隊が、敵を目前にして、ついに崩壊したと思ったのだ。
この機を逃すまいと、敵の騎兵は、歩兵を置き去りに、突撃を
先頭部隊となった匈奴軍の三段目は、敵がやって来るのを認めると、足を止めた。冒頓も、そこにいた。
冒頓は、
鏑矢とは、簡単に言えば、
強兵なのだろう。先頭で突っ込んでくる敵兵ひとり。
その者目掛けて、撃った。
何かを切り裂いたような音が戦場に
味方を
直後、三段目の味方は皆、一様に射撃を始めた。キも、鬼のような
丁零兵が悲鳴を上げて、落ちる。落ちる。
敵の先陣は完全に乱れた。
一段目、二段目が引いた以上、三段目も当然、引くはずだと思い込んでいた。すでに勝ったと思い込んでいたのだ。であるのに、手痛い反撃を食らったのである。
すると、今度は三段目が下がり始める。
冒頓とキも、他の全員の後退を見届けたのち、下がった。
頭上を矢が飛んだ。坂の上に残された、敵歩兵によるものだろう。
三段目は、先に下がっていた一段目と二段目のさらに後ろへと引いた。
匈奴軍は崩壊したわけではなかった。すべて訓練のとおりだった。
第一段、第二段に
敵が
再び、先頭に立った一段目。すでに、突撃の準備は完了していた。
「続け」
チュウは、そう叫ぶと突っ込む。気迫に満ち満ちていた。勢いを完全に
チュウを先頭に、一段目が敵の騎兵を突き破った。続いて、後方の歩兵へも襲い掛かる。
「第二段、突撃」
二段目も攻撃を開始する。
最後に三段目も、弓を剣や槍に持ち替えたのち、突っ込む。
冒頓も、剣を振りかざした。キが奇声を上げている。
三段目が、敵に接するころ、チュウ率いる一段目は、歩兵の波すら突き抜け、坂の
味方が
勝負はついた。
――勝った――
北方である。
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