四話 冒頓、誕生

 当初、会見に乗り気でなかった月氏王も、匈奴側の使者が例の青年ひとりであることを知って、気が変わった。

 ――わしの愛馬を奪ったあの若造の顔、今一度見てやるわ――

 と、考えたからである。


 予定の地に、会見用の天幕が張られる。月氏側は、王と、信用のおける従者が数人。匈奴側は、青年のみ。残りの者は、事が成るのをそれぞれの陣営で見守る。


 農耕民の場合と異なり、遊牧民の間には細かな礼儀作法はほとんどない。ただ互いに、軽くこうべを下げ、向かい合って座った。青年は人質時代、何度もこの王と顔を合わせている。


「久しぶりだな……と言うほど、時は経っておらぬか」


 月氏王は、苦虫をつぶしたような顔でつぶやいた。ももに受けた矢傷が痛むらしかった。


 今より行われるのは、講和交渉である。匈奴が勝利したのだから、敗れた月氏から賠償として、どれだけの財を匈奴に払うか、を決定するための会見。少なくとも、月氏側はそうとらえていた。

 けれども、青年は開口一番、意外なことを言った。


「王には、しばらくお世話になりました。ですから、せめてものお礼として、私が奪った、あなた様の馬を手元にお預けする」


 王は瞠目どうもくし、護衛の者はざわつく。


「こたびの戦い、我らの負けは火を見るよりも明らか。であるのに、勝った者が敗けた者に馬を手渡そうというのは、いかなるわけか」


 王は、心の動揺を押し隠すように、つとめて静かに言った。内心では、小躍りしたかった。

 死んだり、傷ついたりするのを恐れて、戦では極力乗らないようにしていた。それほどまでに、大切にしていたのがナルである。


「いえ、私は決して『差し上げる』とは言っておりません。『お預けする』だけ。あの馬は、私が命がけであなたから奪ったもの。戦士のおきてでは、戦場における戦利品は、得た本人の物であるはず。ですから、あの馬はあくまで、私の物です」


 ――こやつ、なにが言いたいのだ――

 青年の不遜ふそんな物言いが、月氏王にはひどく不快だった。


「では、問いを変えよう。お主の物であるはずの馬、なぜ敗者のわしに預けんとするのか」


 ――きた――


 この次の台詞せりふを言いたいがために、たったひとりで会見にゆくなどと、見得みえを切ったのだ。族長になりたいという野心を自覚した今になってようやく、自分の言動の意味が理解できる。


 青年は、なんとか気持ちのたかぶりを抑えようと、鼻で空気を吸い、それを口から吐き出した。

 そして、言った。


「私が父より、族を引き継ぎましたら、改めて、お預けした馬を返していただきたいのです。その馬に乗って、私が、王にとって目障りな東の賊めを誅滅ちゅうめついたしましょう」


 もし、父の部下が会見についてきていたら、決して口にできない言葉だった。心配なのは、王のそばに控える従者だが、用心深い王のことだ。きっと口の堅い者ばかりであろう。そう考えるしかない。


 長い沈黙が、天幕中を支配した。皆、青年の言わんとするところが分からなかったのだ。

 しかし、月氏王だけは察する。そのあたり、彼も根っからの指導者であった。


 もちろんだが、月氏王は、頭曼が、実の息子を見殺しにしたことを知っている。ではなぜ、見殺しにしたのか。頭曼にたばかられたとわかった今なら、わかる。新妻の子を世継ぎにしたいがためだ。


 今後も、実の父親に命を狙われるかもしれない。青年の命も将来も、頭曼とその新妻の胸三寸むねさんずん次第で決まる。

 であるはずなのに、なぜ目の前にいるこの若造は、自信満々に、『父から族を引き継ぐ』などと言えるのか。答えは一つしかない。


 ――こやつは、父を殺して、族長になるつもりだ――

 その手助けを自分にしろと言いたいのだ。もし、手助けをしてくれるのなら、族ごと自分に臣従し、東の賊、つまり、東胡を討つ、と言っているのだ。月氏王は、そう解釈した。


 馬云々うんぬんに関しては、臣従の意思表示であろう。中国では、王が将軍を任命する際、剣や斧をさずける。その例の、剣や斧を馬に変えたに過ぎない。月氏王が、青年に馬を授け、その馬に乗った青年が戦をやる。


 ――確かに東の連中は気がかりなところ――

 東胡は、モンゴル高原東部から大興安嶺だいこうあんれい山脈にかけて、着々と勢力を伸ばしていた東の大勢力である。月氏としては、匈奴なんぞより、よほど厄介な相手。匈奴勢力を無傷で取り込み、それをそっくりそのまま東胡に対する盾として使うというのは、悪くない手である。


 ―― 第一、いったん支配下におさめてしまえば、馬を返すなどという口約束、どうにでもできるではないか――

 と、考えた王は、かなり小狡こずるい。


 問題は、青年の申し出が、頭曼の考えた、こちらを油断させるための罠だった場合である。王は、一度、すでにだまされているのだ。非情な人質作戦で。


 しかし、

 ――ふん。あの馬が帰ってくるのであれば、怖くない――

 と、思い直した。あくまで、大事なのは愛馬である。

 また、

 ――たとえ罠であっても、こちらが油断しなければいいのだ。頭曼に気を許さなければよい――

 とも考えた。


 が、月氏王の認識は根本から間違っていた。本当に、警戒すべきなのは、頭曼ではない。目の前で、何食わぬ顔をしている青年だった。なまじ、えなかったときの青年を知っているからか、王は、彼が羊から狼にその姿を変えているという事実を見逃した。

 戦で奮迅ふんじんの活躍ができたのは、乗っていた馬のおかげであるし、偽装退却の作戦を立てたのは、頭曼である。そう考えてしまっていた。 


「よかろう。申し出を受けよう」


 いまだに、青年の真意をはかりかねている従者たちをよそに、月氏王は、承諾した。こうして、奇妙な会見は終わりを迎えた。


 『たとえ、青年が頭曼抹殺に失敗しても、匈奴は内部で争い、弱体化するはずだ』、という目算も月氏王にはあったことを書いておかねばならない。




 しばらくのち、月氏陣営から匈奴陣営へ、大量の家畜と贅沢品、そして奴婢ぬひが運ばれた。月氏王と青年が示し合わせた結果であった。家畜と贅沢品は、所詮、頭曼への目くらましで、本命は奴婢。奴婢とは、その字面じづらどおり、奴隷のことである。


 続々と運ばれてくる物資を見て、頭曼は満足げに笑っていた。

 こんな頭曼でも青年から会見の結果を報告されたときは、機嫌を悪くした。せっかく手に入れた名馬を月氏のもとへ返すことになった、と聞いたからである。

 しかし、長男から、


「敵の王は、あの馬を失ったことを、ひどく気に病んでいるようで、あのままでは話し合いになりませんでした。ですから、返すと言うよりなかったのです」


 と、説明されると、頭曼は、たちまち機嫌を直した。馬が惜しいという感情より、月氏王をそれほど弱らせたという嬉しさが勝ったのだ。息子は、父のゆがみきった性情を、完全に把握し、手玉に取った。


 ちなみに、月氏王が、『馬を返すという約束を反故ほごにしてやろう』と思っていたのと同様、青年も月氏に従属するという約束を守る気はさらさらなかった。


 さて、月氏側は、約束を果たした。今度は、匈奴側の番だった。ナルとの別れである。ナルを連れてゆくのは、もちろん青年の役目である。


 ――おそらく、今生こんじょうの別れになる――

 手綱たづなを手に取り、ナルを引きながら、青年は思った。


「お前は、俺に命を与えた。礼を言う」


 天幕の前で、短い別れの言葉を伝える。その二言ふたことだけで十分だった。

 

 命とは、つまり、生きる理由わけである。

 青年が変わる、最初のきっかけを与えたのは、ほかならぬ、このナルだった。あのとき、突然、ナルが走り始めなければ、自分は生きることすら諦めていた。おのが野心に気づくことすらなく、死んでいた。


 ――俺はもう二度と立ち止まるまい。お前がおらずとも、走る。駆ける――

 改めて、ナルに誓う。ナルのおかげで手にしたこの野望を、必ずや現実のものとするのだ。


 ナルの手綱。月氏兵に渡す。

 

 ――これでよかったのだ――

 心の中で、何度も何度も、そう繰り返しながら、月氏兵に連れられてゆくナルの背中を見ていた。

 ナルは、ただの一度もこちらを振り返らなかった。



 帰り際、青年とくつわを並べた頭曼は、上機嫌に言った。


「よくやった。大手柄だ」


 頭曼が初めて送る、息子への褒め言葉だった。


 敵の駿馬を奪い、王庭から逃亡してきた。それだけでも本来褒められるべきことであるのに、戦においても味方を勝たせた。

 また、個人の戦いぶりも見事だった。誰よりも早く敵に突っ込み、勇敢な姿を見せた。名馬を一頭手放しはしたものの、講和も有利な条件で結んできた。非のつけようがない。


 兵士たちも口々に、青年を褒めそやしていた。


 ――彼こそ次の族長に相応ふさわしい――

 誰も口には出さないが、そういった風潮が軍の内部に満ち満ちていた。


「褒美をやらねばなるまい。一万の兵を与える。丁零ていれいの様子がきな臭い。そのそなえとする」


 ――お前が跡継ぎでもよい――

 頭曼からすれば、その意思表示に近い。だが、まだ声に出して、言ってやる気はなかった。兵をきたえさせて、将として戦をさせる。


 ――それすら不足なく、こなすようならその時こそは――

 という目論見もくろみだった。


 丁零とはモンゴル高原の北、バイカル湖周辺に勢力を築いていた遊牧民である。時々、匈奴領をうかがう動きを見せていた。


「それは光栄です」


 短く応える。

 青年は喜んだ。だが、実の父から褒美をもらったためではない。

 ――父を殺すための一万だ――

 と思ったからである。

 頭曼はどうも楽観的に捉えすぎていた。もう父と子の間には致命的な穴が開いてしまっていたのに。


「しかし、丁零への備えなら、北へむかうことになりますか?」


「左様」


 頭曼は、息子の問いにうなずいた。


「それならちょうどいい。さきに受け取った奴婢の良い使い方を思いついたのです」


 青年の言葉に頭曼は、眉をひそめた。


「奴婢なんぞいかがするのか」


 そもそも、頭曼は疑問に思っていた。豚や牛などの家畜や、酒や金銀などの贅沢品を手に入れたのは嬉しい。だが、奴婢をこれほどの数、受け取って、どうするつもりなのか、と。


「妙案があるのです。どうか、私に任せては頂けませぬか。必ず、族のためになります」


 元々、頭曼から命じられずとも、『奴婢の良い使い方を思いついた。戦の手柄として、北へゆかせてほしい』と、嘆願するつもりであった。最近、丁零の動きが怪しいから、その際、頭曼から私兵をもらえるだろうという予測もあった。


 頭曼は、相も変わらず、自信満々な様子の息子を頼もしく思い、こころよくこの申し出を承知した。

 彼は、またも失策したと断じてよい。生まれ変わった息子を愛し始めていた。その愛が頭曼という人間を弱くしていたのかもしれない。




 ところで、月氏庭からの逃亡劇や、その後の戦での奮戦をもって、青年は周囲からある通称で呼ばれるようになり、青年自身も好んで、その通称を名乗った。


 その通称とは、『バガツール』。

 勇者という意味を持つ言葉である。


 そして、この音を漢字に表して書くと、『冒頓』となる。


 以降、青年のことは、『冒頓』あるいは『バガツール』と書く。

 モンゴルの草原に、最初に君臨することになる覇王の名である。

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