五話 奇妙な集落
例の月氏王との密談からすでに一年が経過していた。
――この馬では、物足りぬ――
寒さにかじかむ手を
決して、今、彼の乗っている馬が
しかし、ナルと比べれば、速度も乗り心地も格段に劣っていた。一度でもナルに乗ってしまえば、どんな名馬に乗っても物足りなく感じるものなのだろう。ナルに
「兵の動きに、何かご不満でもありましたか」
槍を手にした男が一騎。こちらへ駆け寄ってくる。
体格だけで、
キは、
北に着くと、冒頓は、管理を任された
冒頓は、
軍事訓練の真っ最中であった。ひとりひとりが槍や剣を振ることから始まり、現在、最終段階に入っていた。
いまだに雪の残る原野に、黒や茶の塊が、点々と展開している。騎兵の
塊のひとつひとつに『
――ようやく、ここまでやれるようになった――
訓練に
月氏との和平成立後、彼が最初に着手したのは、父から任された一万の私兵を組織化することだった。
まず、見どころのありそうな十人を選び出し、指示と訓練の方法を教え込む。これが、千長である。その千長ひとりひとりに、また優秀そうな者を十人付ける。これが『
十人の兵卒をひとりの什長が、十人の什長をひとりの百長が、十人の百長をひとりの千長が、そして十人の千長をひとりの冒頓が監督するのだ。
軍事組織を、以上のような十進法によって統率するというやり方は、
しかし、当然、単に組織化しただけでは、軍は強くならない。
ただでさえ、冒頓が自軍に求めるものは大きい。欲するのは、ひとりが、ふたりにも三人にも相当しうる精鋭である。族長の座を手にすれば、十万をゆうに超える軍勢を指揮することになる。その大軍勢の中核を担える軍隊が欲しかった。
だから、新兵同然の彼らに、冒頓は、
大雪だろうが、大雨だろうが、関係ない。ただの一度たりとも訓練を中止することはなかった。むしろ、悪天候に慣れさせる好機だとすら思った。いつも穏やかな青空の下、戦ができるとは限らないのだ。
―― 人とは、野心のためなら、これほど冷酷になれるものなのか――
訓練のたび、そう思う。だが、すぐにそんな感情を頭の
――この程度ではぬるい――
血のつながった父親を殺そうとしているのだ。どれだけ冷酷になっても、なりすぎるということはない。何を犠牲にしても族長の座を奪う。
半面、父は、冒頓を大して警戒していないようだ。
一万の兵を預けた上に、北に自分の土地までやったのだ。暗に、『世継ぎはお前だ』と言ってやったようなものだ。だから、反乱など起こさないだろう。無意味だ。大方、そう思っているに違いない。
だが、冒頓は、一度殺されかけているのである。いくら今は自分を認めたような態度をとっていても、いつ頭曼の心が変わるか、知れたものではない。愛する
さて、そんな過酷な訓練にやすやすとついていけたのが、すぐ隣で、冒頓の顔色をうかがっているキだった。
「いや、兵の動きは悪くない。むしろよい。よく励んでいるとすら思う」
冒頓は、そんなキに対し、取り
「そうでしたか。ずいぶんとお顔色が悪かったので」
機嫌が悪いのは事実だった。
しかし、口が裂けても、『自らの意思で手放した馬を、今更、恋しく思っていたのだ』とは言えない。
だから、
「別のことを考えていた」
と、はぐらかすより他なかった。
ナルと離れ離れになってから、すでに一年が経っている。
――いつまでも
と、自分ですら思う。
「私の早とちりでしたか」
キは、ぽつりとそう
ふいに、吹く風の質が変わった。空を見ると、日が傾き始めていた。
「バガツール様。そろそろ」
キの言葉に、冒頓は
ちょうど、ひとりの兵が、
心配そうに仲間が駆け寄っているが、彼も遊牧戦士である。無意識のうちに、大怪我を負わないような落ち方をちゃんとしている。言葉もまだ怪しいうちから、馬と接している遊牧民だからこそ、できる芸当であった。
「今日の訓練は、ここまでとする。食事の準備をせよ。それと、誰か、倒れた者を
冒頓の言葉を皮切りに、兵士らが、あてがわれた幕舎へと、ぞろぞろ引き上げてゆく。みな一様にくたびれた表情を浮かべていた。
さきほど倒れた兵は、同じ隊の仲間ふたりに支えられ、運ばれていった。
「バガツール様。やはり……」
ぼろきれのようになって運ばれていく兵士を見つめて、キが言いかける。
「言うな。酷なことをさせているのはわかっている」
キが何を言いたいか。そんなことは、彼の暗い表情を見れば、一目瞭然だった。厳しすぎる訓練への苦言。それ以外にない。
普段、たるんでいると見た兵を容赦なく叩きのめすキだが、裏では彼らのことをよく気に掛けていた。少なくとも、冒頓なんぞよりは、はるかに兵卒ひとりひとりを愛している。
兵士たちも、戦やそのための訓練だけをしていればよいというわけではない。平時は牧民として、家畜の管理をやらねばならない。それを考えれば、やりすぎだ、というキの主張も十二分にわかる。
それでも、訓練をぬるくするわけにはいかなかった。訓練で気絶するか、戦で死ぬか。どちらかマシかなど考えるべくもないのだ。
また、訓練を
兵本人。仲間の兵。残された者たち。訓練をぬるくしたところで、結局誰のためにもならない。
そう言い訳してみたところで、
――ずいぶんと身勝手な理屈だ――
と、冒頓は、心中で吐き捨てる。
冒頓は、あくまで自分の欲望のために、兵を鍛えているだけなのだ。兵や女子供のためを想って、訓練を課しているのではない。しかし、この勝手な理屈が間違っているとも思っていない。
「すぐに幕舎で休まれますか?」
厳しい訓練について、それ以上食い下がらず、キは話題を変えた。
「いや。久々に『集落』の様子を見に行ってみようと思う。そろそろ、『チュウ』も帰ってくる頃合いだろう」
暗かったキの表情に、ぱっと光が宿った。
『チュウ』とは、先に書いた、『奴婢の中から選び出した三人』のうちのひとりである。
これぞ軍人というような、
「では、護衛の者を招集せねば」
「必要ない。俺とお前だけでゆく」
「帰るころには、すっかり日が落ちているだろう。
どんな時期であろうと、北の夜は冷える。一歩間違えれば、凍傷で耳や指が飛ぶ。防寒対策は必須であった。
ちなみに、上衣とは羊の毛を用いた
幕舎で待機させている千長のひとりに、『戻り次第、集落のほうへ
幕舎群のある丘を、すこし南西に下りてゆくと『それ』はある。
二重の土塁と
そのひとつひとつに
また、夕暮れのため、各住居に
それは遠くから望むと、とても幻想的な光景だった。
護衛の兵を除いて、住民の全員が奴婢という奇妙な集落である。
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