三話 欲と欲の結合
「
眼前の敵を斬って捨てたのち、味方の隊長が叫んだ。待ってました、とばかりに戦闘へ参加していた匈奴の全騎が、散るように退却を始める。青年もそれに
「追え!」
それまで戦況を見守っていた月氏王が、
平素の月氏王なら、戦闘に参加する敵軍が異様に少ないことを
――散々、
気持ちが
頭曼に裏切られ、その息子に愛馬を盗まれた。それだけでも、はらわたが煮えくり返っていた。なのに、今度は、
――あの子の尻尾すら掴めそうだ――
そう思うと、追撃を緩めるという選択肢は頭になかった。
頭曼は
当然、匈奴兵は、不意を衝かれたように大慌てで、頭曼を追いかける格好になる。そのさまは、月氏兵からすると、自分たちの追撃を恐れて、敵が
勝利を確信した月氏軍は、さきほどまで匈奴のいた小山を越えて、一気に攻め下った。
あとは、逃げ
しかし、匈奴兵の眼前には逃げる者も惑う者もいなかった。代わりにいたのは、待ち構える者。
風を切るような音がした。それも四方から、である。
直後、太陽を覆わんばかりの無数の矢が、降った。
驚く間もなく、月氏軍は、矢の嵐に飲まれる。
脇にいた味方が、大地に倒れるのを見て、月氏王は、自身の身体から怒りという名の熱が引いていくのを感じた。
「退却だ。退却せよ!」
大慌てで、全軍にそう命じる。
見渡す限り、匈奴の兵が展開しており、そのすべてがこちらへ向かって、矢を射かけている。
――いた――
月氏王は、自分の物であるはずの駿馬に乗る若造を、匈奴軍の中に見つけた。何を考えているのか、わからぬ顔をして、馬上で矢を
またも頭に上っていきそうな血をどうにか抑え込み、逃げ場所を探すのに集中する。
あった。唯一、敵兵がいない場所。つい先ほど、駆け下りてきた山。
月氏軍は
山を登る間、容赦なく、矢が追ってくる。
月氏王は、
それでも、なんとか山を越えて、転がり込むように平地へ出る。
少し前まで、勝利を確信して、ここを猛然と駆けていたのだ。
――それが今は、この
乾いた笑いしか出なかった。
振り向くと、匈奴軍が猛追してくるのが見えた。それも驚くことに、三方向から、である。
どうも包囲して、自分を今の山に閉じ込める
――恐ろしい――
月氏王は、匈奴の抜け目なさに、心底震えた。
――負けた――
偉大なる月氏の王には、相応の自負があった。族をここまで大きくしたのは
そんな傷心の月氏王だったが、さきほどまで自軍が陣取っていた丘の上を見て、希望を取り戻す。
援軍が到着していた。
頭曼は、再度山の上に陣を張りなおし、敵軍を
「
と、吐き捨てた。烏孫とは西域にいる遊牧民で、当時、月氏に従属していた。途方もない距離を進み、助勢に来たことになる。
月氏王が敗走中に察したように、実は青年の献策で、別の場所にも兵が伏せられていた。匈奴軍が陣を敷いていた山の両脇である。彼らは、追撃してきた月氏軍が山を越えるのを見届けたのち、敵の退路を断たねばならなかった。彼らがきっちり退路を
が、迂回部隊を受け持った将の指揮がまずく、退路を閉じられなかった。大失態である。しかし、その将には、なんと一切、
「おのれ。あと一歩のところで」
と、頭曼は
大層悔しがっている父に対して、青年の心は不思議と冷めていた。
――この軍ではこれが限界だろう――
諦観。達観。確信に近いものがあった。
まず、兵力が足りない。包囲がうまくいっていたとしても、後から駆けつけてきた、つまり今、匈奴軍の眼前に陣取っている、援軍に突破されていたのではないか。
また、兵ひとりひとりの動きが悪い。むろん将の質が良くないから、練度が今ひとつだから、というのもあるが、それ以上に指揮系統に問題があるように思えた。一言で言うのならば、組織力の欠如。組織全体を作りかえねばならない。だが、それを行うには、今の青年の身分では無理である。
――族長でなければ……――
青年は、父の顔を見た。
「これ以上、戦果は望めません。援軍が来たとはいえ、あれほど手ひどくやられたのです。和議を提案すれば、連中も受けるしかないでしょう」
そして仕方なく、父にそう提案した。
月氏の主力は撃滅したのだ。
――敵に大きな
両軍、
「では、使者を
「父よ。その使者ですが、私に行かせてください」
自然と、そんな言葉が口をついて出ていた。
「お前に、か?」
「はい。必ずや、有利な条件で和を結びます」
こたびの戦い、大勝できたのは、青年の献策に乗ったからである。
――最後の最後まで、こやつにやらせてみるか――
という気に、頭曼はなった。
――弁はどれほど立つかも確かめたい――
という考えもあった。戦での勇気は存分に見せてもらった。では、交渉事はどうなのか。それを試す。
「よし、任す。数騎、護衛の兵をつけてやる」
命の取り合いをしていた相手と、今から会うのだ。当然の判断だった。しかし、青年はかぶりを振って言った。
「それには及びません。月氏との交渉には、私ひとりでゆきます」
「なぜだ」
頭曼も
「我らは勝った側なのです。勝者の側が、敗者を恐れて、従者をぞろぞろと引き連れてゆくようでは格好がつきません」
一応、筋は通っていた。少しでも弱みを見せると、交渉の前から舐められる。
「だが、さすがにひとりでは」
「ひとりがよいのです。奴の下にいた私はよく知っています。あの王は用心深い。しかし憎い私が来ると聞けば、用心をかなぐり捨てて出てくるはず」
匈奴側からすれば、なんとしてでも、月氏王自身を交渉の場に引きずり出したいのだ。そうであればこそ、勝者は匈奴であり、敗者は月氏であるという形が鮮明になる。
「わかった。好きにしろ」
――生まれ変わりつつある、こやつの力をもっと試したい――
という、親心と呼んでよい
一方の青年は、というと自分に驚いていた。あんな大胆なことを言った自分に、である。
――なぜ、会見に、しかも、たったひとりでゆくなどと
父の天幕を出て、会見の準備をしている際も、ずっとそれだけを考えていたが、ついに答えは得られなかった。
会見の場所は、まさに両軍がにらみ合いを続ける平原の中間地。当然、徒歩ではゆかない。馬でゆく。
兵のひとりが気を利かして、ナルを連れてきてくれた。さきの活躍に感じ入るものがあったのか、彼は好意的な
騎乗の前に、ナルの鼻元に手をやる。ナルは甘えるように、鼻をひくつかせた。
「俺は何がしたいのだ?」
唐突に、ナルへ問いを投げかけた。
――俺は族長になりたいのか?――
今度は、声には出さず、心の中で問うた。
ナルは首を
確かに戦の最中、少なくとも一万の兵を率いたいと願った。だが、たかだか一万の兵を率いるだけなら、族長になぞならなくてもよいではないか。
そのとき、ナルが青年の思考をいったんかき消すように
――そうだ。人の欲はひとつではない。俺は、うまくいかなかった包囲策のことを考えていた。次の機会があれば、今度こそ包囲を完成させたいと思った。そのために必要なのは自分が族長になることだ、とも。父では
「ああ……」
青年は
結局、ナルに問うまでもなく、答えは出ていたのだ。
――やはり、俺は族長になりたいのだな――
父を
族長となりたいがために、無謀な申し出をした。族長となりたいがために、たったひとりで会見に臨む。会見で何をすればよいのか。その構想は、頭の中にある。
青年は、長になって、何万もの族民を従える自分の姿を想像した。
――悪くない――
『大勢を従えて駆けたい』という欲と『族長になりたい』という欲が結合していくのを心の臓で感じる。
「俺は決めたぞ、ナル」
迷いを振り切るように、鋭い調子で青年は言った。
「だがな……、ナルよ。そのためには、お前と別れねばならん」
青年は、静かに
寂しげに自分を
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