終章 悲しみは永遠に消え去らない

 「あれ?」

 いつの間にか流れていた頬を伝う涙に雪乃は少し驚いた。手で涙を拭いて、布団の中でゆっくりと仰向けになると、真新しい布団の臭いが、雪乃の身体をやさしく包んだ。カーテンの隙間からは、柔らかな朝の光が差し込み、普段は使っていない客間の、少し殺風景だが、掃除が行き届いて清潔感のある部屋の中を、ボウと明るく照らし出していた。

 (変な夢だったなあ)

 雪乃はゆっくりと起き上がった。

 (なんで、あんな夢みたのかなあ)

 とは言え、覚えているのは夢の中の最後の場面。25年前のガス爆発の爆発現場で、自分が泣き崩れていた光景だけ。

 そう、25年前のあの時、実際に大声を上げて泣いていたのを雪乃は覚えていた。しかし、どうしてあの時あんなに泣いていたのか、どうしてあんなに悲しかったのかは、あのときも、今も、雪乃は全くわからなかった。

 (あんなこと、話していたからかなあ)

 布団を片付けながら雪乃は、昨日、瑞枝たちとの会話の中で、高校時代、急に豹変した自分の性格のことが話題になったことを思い出し、そんなことを考えていた。と言うのも、雪乃がすっかり変わってしまっていたのは、ちょうどあの事件を境にしていたからだ。あの事件の後、なぜか自分は生きていてはいけない人間なんだと思うようになり、自分は絶対人を好きになっていけない、人と関ってもいけないと、何か罪悪感のような思いに始終苛まれていた。そのせいか、どちらというと明るく社交的だった雪乃は、いつも塞ぎがちで、人を遠ざけるようになってしまっていた。あまりの変化に、両親もクラスメイト達も心配し、当時はまだ珍しかったメンタルクリニックに通ったりもしたが、結局、原因は判明せず、元のような明るい性格に戻ることも無かった。そのうち、だんだんと仲の良かったクラスメイト達も離れていき、高校2年の終わりには、瑞枝とも大喧嘩をして、高校三年の一年はほぼ一日中一人で過ごすようになっていた。そして、高校を卒業と同時、逃げるようにしてこの故郷旭川を去っていった。今でこそ普通に結婚し、なんとか家庭を持つまでに至ったが、積極的に外に出たり、人に会おうと思うようになったのは最近のことで、それまでは、極力人と関らないように、どちらかと言うと家に閉じこもりがちな日々を送っていた。何とか昔のような明るさを取り戻しつつある今でも、その罪悪感のようなものはずっと雪乃の心の奥底にあり、常に雪乃を悩ませている。ただ、どうしてそのような罪悪感を持ってしまうようになったのか、未だに思い当たる事はなにもなかった。

 簡単な身支度を済ませ、二階の客間から一階のリビングに降りてみると、瑞枝が既に朝食の準備をほぼ済ませて待っていた。

 「おはよう雪乃、よく寝れたかい」

 雪乃は、瑞枝の勧めるままダイニングテーブルの前に座り、少し重い感じの残る頭を抑えて言った。

 「おはよう、なんかちょっと…。寝不足じゃないとは思うんだけど」

 「なしたんさ。枕替わるとダメかい」

 二人分のお茶を持って、瑞枝は雪乃の正面に座った

 「いや、そんなんじゃないけど、なんか随分長い夢見てたみたい…」

 「なに、どんなのさ」

 「それがさ、中身はほとんど覚えてないのさ。でも、最後に、ほれ、あそこ。昔ガス爆発あった喫茶店の前で泣いてたとこが夢に出て、そこだけなぜか覚えてんだわ。そこで目が覚めた」

 「ガス爆発って…。あ、たまにみんなで行ったあそこかい。あんた、あん時近くに居たんだもんね」

 「うん、爆発あったとき、店の前で泣いてた」

 「なしてあんなとこ居たんさ」

 「それが、よく覚えてないんよ」

 「そー言えば、あんた一時期あそこに一人でよく行ってたね。そう、いつもあまりに慌てていくもんだから、男でも出来たんかと思って、一度、桂子と後つけた事あんのよ」

 雪乃は初耳だった。

 「そんなことしてたの」

 「したらね、喫茶店入るとこまでつけたんはいいけど、あんた、一人で本読んだり、宿題したりするばっかでさ、なーんもしないから、バカくさくてそのまま帰ったんだわ」

 言われてみれば確かにそんな記憶もあった。だけど、どうして一人でそんなところに通っていたのか、いくら考えても理由は思い出せなかった。

 「何してたんだべ、あたし」

 「あそこのマスターが目当てだったんでないの?」

 雪乃は、マスターの髭面を思い出した。

 「いや、ないない。あり得ない」

 「ま、そうだろうね」

 自分で言い出しておいて、瑞枝はあっさり同調し、苦笑した。

 「さあ、冷めないうちに食べな」

 瑞枝は、そういうと、味噌汁を温めなおしにキッチンへと向かった。

 「うん。ありがとう。いただくね」

 雪乃は軽く手をあわし、用意された朝食に箸をつけた。そのとき、ふと思い出したように、台所にいた瑞枝に尋ねた。

 「瑞枝、あたしさあ。あんときマフラー持ってたって話、聞かなかった?」

 「あんときって、いつ?」

 「ほれ、さっき言った喫茶店の事故のとき」

 瑞枝は、鍋の味噌汁を軽く混ぜながら、少し考えて答えた。

 「知らんわ、そんな、随分前だし」

 「そうよね…」

 少し残念そうに雪乃は言った。

 「マフラーって、あれ?いつも巻いてたあのピンクのやつ?」

 「いや、赤紫のチェックの男物」

 「いよいよ分からんわ。なに?そのマフラーがどうしたんさ」

 「いやね…」

 雪乃はそこまで言いかけたのだが、続く言葉が出てこなかった。なぜ、そんなマフラーのことを聞いたのか、それさえも思い出せなくなっていた。

 「あれ、なんだっけ」

 「なしたんさ、あんた」

 「なんで、マフラーって思ったんだべか。大切なもののような気もするんけど」

 「なあに、またおかしくなったんでないかい」

 瑞枝、笑いながらそう言った。そして、あったまった味噌汁をよそいながら、雪乃にたずねた、

 「雪乃、今、幸せかい?」

 「なによ、藪から棒に」

 瑞枝が突然言った意外な台詞に、雪乃は少し笑いながら答えた。

 「そーね。うん、子供は素直で可愛いし。主人も優しくて良くしてくれるし。とっても幸せだよ。幸せすぎて、なんか、悪い事しているみたい…」

 「なに、あのー、あれかい。あの『罪悪感』ってのは、まだあんの?」

 少し聞きにくそうにしながらも瑞枝が聞いてきた。高三のほぼ一年間絶交状態だった瑞枝とは東京に出てくる直前に仲直りし、その時、自分を苦しめている奇妙な『罪悪感』について告白している。ずっと気にしていたのだろう、雪乃を苦しめていた『罪悪感』が今どうなのか、瑞枝はそれを切り出すタイミングを見計らっていたように雪乃には思えた。だから、雪乃は正直に答えた。

 「うん…、あるよ。時折ぎゅっと胸が締め付けられるような気がしてたまらなくなる」

 「雪乃ぉ、あんたまだ…」

 心配そうな瑞枝の表情に、雪乃は慌てて答えた。

 「いや、いや、確かにつらいけど、あん時みたいになったりしないから大丈夫だって!」

 「そーかい?まあ、どんなにつらいことも時が解決してくれるって言うか、和らげてくれるって言う、あれなのかね?」

 瑞枝が言ったことは少し腑に落ちないと雪乃は感じていた。

 「うーん、ちょっと、違うんでないかな?つらさとか苦しさとかってあまり変わらない気がするんだけど…。慣れたっていうか。いや、違うなぁ。昔は、自分が生きてるって事自体、なんか許せないっていうか、そんな感じだったけど。今は、子供もいて、幸せに暮らしている自分を許せるっていうか、そのつらさごと受け入れられるって いうか…。なんか上手く説明できないんだけどそんな感じかな」

 「ふーん、なんだろう?母は強しってやつかねぇ」

 感慨深げに腕組みをして、瑞枝はそう言った。

 「うーん、それもなんとなく違うような気もするけど。そーなのかなあ」

 雪乃がそう言って思案げにしていると、ようやくよそった味噌汁を雪乃のところに持ってきた瑞枝が、こう切り出した。

 「ところでさあ、あんた飛行機夕方っしょ。それまでどっか出かけないかい?」


 「ほれ、着いたよ」

 瑞枝が車を止めたのは、随分と大きな時間貸し駐車場の一角だった。そこは、通りに囲まれた一角が全て駐車場になっており、建物が密集した中でポカリと開いた穴のようにも見えた。車は結構止まっているのに、えらく荒涼とした感じで、駐車料金を示す大きな黄色い看板だけが目立っていた。

 「ここって…」

 「うん、スカイビルの跡地。ここ映画館とかボウリング場とかあったの覚えてるしょ?」

 確かに、ここは大きなアミューズメントビルがあった場所で、地下にある映画館にはよく来ていた覚えがあった。記憶にあるその建物の姿を景色に重ねながら、また一つ、大切な思い出を失ったと雪乃は感じていた。


 その日の旭川観光は、旭山動物園で始まった。

 「全国的にも話題のスポットだし、まあ、縁起物みたいなものと思えば」

 と、瑞枝のわけの分からない言葉で連れてこられた雪乃だったが、ブームの先駆けとなった『行動展示』で見せる、動物の生き生きとした姿と、工夫の凝らされた施設は、やはり見ごたえがあり、留守番で残してきた子供には少し引け目を感じながらも、十分にこの動物園を堪能していた。ただ、子供の頃来たときの施設とはすっかり変わってしまい、古臭い、正直言ってみすぼらしかったその面影はすっかり無くなってしまっていることに、一抹の寂しさを感じてもいた。

 お昼は『ほしの』のラーメン。瑞枝は、雪乃が東京に行ってから出来た彼女の行きつけの店を勧めたが、やはり昔慣れ親しんだ味が食べたくて、ここにしてもらった。25年も経つと、店はすっかり代替わりしてしまっていたが、その味も、山盛りのもやしも、火が燃え盛る中、宙を舞うもやしの光景も全く変わっていなくて。雪乃はすっかり嬉しくなっていた。

 「さて、まだ大分時間があるね。次どうする?」

 ラーメンを食べ終わり、お腹もくちくなって、満ち足りた様子の雪乃に、瑞枝が尋ねてきた。

 「うーん、そうね。折角だから『街』行きたいな」

 「『街』?えー、昨日も行ったしょ」

 なぜか最後にもう一度『街』が見たい。雪乃は痛切に思っていた。

 「それでも行きたいの。いいでしょ」

 「しゃーないわね。あんま、見るとこないんだけどなあ」

 気が乗らない様子の瑞枝ではあったが、雪乃のためしぶしぶ車を『街』へと向け発進した。


 二人は買物公園を歩いていた。休日にも関らず『街』には人がなく閑散としていた。

 「『街』って、こんなに人少なかったっけ」

 「郊外にいろんなもん出来たからねえ。動くのは車だし、『街』だと車停めるのもお金かかるし、みんなそっち行っちゃって、街なんてもう誰も来ないのさ」

 午前中は晴れていた天気も、午後になると曇りだし、灰色の雲が空を埋めつくしえいた。景色もすっかり灰色一色に染まってしまい、その色彩が辺りを一層寂しい雰囲気にしてしまっていた。瑞枝は雪乃を先導するかのように一歩前に出て歩き出した。

 「ほら、ここにあった電気屋さんもなくなって、飲み屋とかそんなもんばっかになっちゃったもんね。もう、買物に来るとこじゃないよねえ」

 瑞枝は歩きながらあたりを指差し色々と説明してくれた。雪乃は頷きながら瑞枝の話を熱心に聴き、そして、辺りの風景を見回していた。しかし、ところどころ自分がいた頃にもあった建物が見えるものの、様子はすっかり変わっていて、何かピースの抜けてしまったパズルを見ている、そんな感覚に雪乃は襲われていた。

 「ほら、ここ」

 瑞枝がある交差点を指差した。横に『TOKUNO』と看板の入ったデパートが当時のまま建っていた。

 「雪乃が轢かれそうになったとこ」

 雪乃は、瑞枝の指差す交差点を見て、迫り来るトラックの姿が脳裏によみがえった。しかし、そこでぷつりと記憶が途切れ、どうやって助かったかは思い出せないでいた。

 「あん時、マジ焦ったさ。絶対死んだと思ったもの。したらさ、上手い具合に後ろに倒れて助かったものね。自転車なんてわやくちゃになってたしょ。あのまま轢かれてたら間違いなく死んでたわ」

 そのとき、雪乃の頭の中に文字が浮かんでいた。

 アア、ソウユウコトニナッテイルンダ

 雪乃は、交差点を見つめたまま呆然と立ち尽くしていた。瑞枝がその様子を見て心配そうに声をかけた。

 「あんた、どうかしたの?」

 雪乃はその声でふっと我に返った。

 「えっ、あっ…」

 「なんか、やなことでも思い出したんかい」

 瑞枝は、高校時代のように、雪乃の様子がまたおかしくなってしまうのではないかと不安になった。つい事故の話をしてしまった軽率な行為を、瑞枝は少し後悔した。

 「いや、なんも、なんもないって…」

 「調子わるかったら、休んでいいんよ」

 「いや、大丈夫だって。先行こう」

 心配そうに雪乃の顔を覗き込んでいる瑞枝に、笑顔を見せた雪乃は、そう言って歩き出した。そのとき、雪乃の目の前を白くふわふわしたものが飛んでいった。

 「あっ、雪虫。こんなとこで珍しい…」

 瑞枝の言うように、よく見るとそれは雪虫だった。それは、雪乃の目の前を暫くふらふらと飛んでいた。雪乃はその姿をじっと見ていた。

 「雪乃…」

 瑞枝が声をかけたが、雪乃はそのまま雪虫を見ていた。すると、雪虫は不意に動き出し、ふらふらと脇道へと入っていった。雪乃も後を追うように、脇道へと進んだ。

 「雪乃…ねえ、どうしたんさ…雪乃…」

 瑞枝も心配そうにその後を追った。すると、雪虫の行く先に一軒の小さな喫茶店が現れた。

 「あっ、これは…」

 思わず瑞枝が声を上げた。建物は若干新しくなっていたが、昔、皆で行った喫茶店、25年前あのガス爆発事故を起こしたあの喫茶店だった。外装も雰囲気も元のまま、そこに建っていた。今朝、夢で見たばかりの建物を前に、雪乃は驚いて立ち尽くしていた。

 雪乃は、喫茶店のショーケースの中に、見覚えのあるものを見つけた。雪乃はそれをよく見ようと、ゆっくりとショーケースの方に近づいていった。その見覚えのあるものは、大きなテディベアのぬいぐるみだった。ところどころ焼け焦げてかわいそうな姿になっていたが、その愛くるしい表情は当時のままだった。そして、そのテディベアの首には、深い赤紫色のチェックの柄をした男物のマフラーが巻きつけられていた。




 その日、マスターは25年前の事故当時の出来事を思い出していた。

 炎に包まれる自分の店を呆然と見ていると、背後で大きな泣き声が聞こえてきた。振り返ると常連客の女の子が、道に倒れこみ泣いている姿が眼に入った。近づいてみると、その子はショックと悲しみのあまり意識が遠くなりかけているように見えた。あわててその子を助け起し、駆けつけてきた救急車に乗せると、一息ついて再び自分の店の前へと戻った。すると、女の子のいたところに赤紫色のマフラーが落ちていた。あわてて、その子に渡そうとしたが、今度は自分が別の救急者に乗せられ、そのまま、病院へと連れられていった。

 幸い怪我は軽く、すぐに病院を出ることが出来たが、その後は、事故の後処理やら、現場検証やらでバタバタとした日々を送っていた。店の前で倒れていた女の子の事も気にはなっていたが、見舞いに行く暇もなく、そうこうしているうちに女の子は退院してしまい、マフラーは渡せずじまいだった。

 そんな中、焼け跡を整理していると、ショーケースに飾っていたテディベアが出てきた。少し焦げたところはあったが、奇跡的に焼け残っていた。マスターはすぐに持ち帰り、汚れを落とし、破れたところを修理して、そのまま自分の家に飾った。

 事故の原因は、数日前に行ったガス管工事の施工ミスによるもので、幸か不幸か、その後の賠償金やら、火災保険やらで、経済的な損失は最小限に抑えることが出来た。それでも、店の再建には数年の月日がかかった。

 店は、再建に協力してくれた多くの常連客に感謝の意をこめて、かつての店をそのまま再現することにした。寸分違わぬ様子で再建できた店と、入り口に立ち並ぶ大きな花輪を見て、マスターは感無量だった。開店の準備を全て終えたマスターは、最後にショーケースを開け、その中にテディベアを飾った。そして、その首に赤紫色のマフラーを巻いた。それから、もう20年近い月日が過ぎていた。


 思い出に浸っていたマスターがふと外に目をやると、ショーケースの前に一人の女性が立っていた。妙齢の女性ではあったが、その顔にかつての面影を見つけると、ショーケースの中からテディーべアを取り出し、首に巻いてあるマフラーをはずした。




 不意に、雪乃の目の前で、喫茶店のドアが開いた。そして、髭面の懐かしい顔が現れ、雪乃の前に赤紫色のマフラーをそっと差し出し、一言言った。

 「これ、あなたのですね」

 雪乃は、ゆっくりとそれを受け取ると、手の中のマフラーをじっと見つめた。すると、弾かれたように雪乃の頭が動いた。その瞬間、雪乃の脳裏に様々な情景が一気に流れ込んできた。このマフラーを始めて巻いたときの表情や、ラーメンを食べるときの姿、自転車を一生懸命漕ぐ様子や、紅葉を見つめる瞳、喫茶店で本を読む佇まいや、最後に見せた優しい笑顔。雪乃は、全てを思い出していた。高校二年のあの時、冬を迎える直前の景色が色彩を失っていくあの季節、あの短い期間、自分には、大切な人がいて、かけがえのない時間とかけがえのない思い出があって、その全てを失ってしまったことを。それはもう存在しない時間で、自分の命と引き換えに失われてしまったことを。


 「うわああああああ!」

 手にしたマフラーをぎゅっと抱きしめると、突然、雪乃は泣き出した。その大きな声に、周りの通行人たちは驚いた。

 「雪乃!なに、どうしたんさ!」

 そばにいた瑞枝は、突然泣き出した雪乃に戸惑い、オロオロしているしかなかった。


 雪乃はあの時と同じように、ただ、ただ、悲しくて、ただ、ただ、切なくて、心の一番奥深いところから、次々あふれ出してくる涙を止める事はできなかった。時間が悲しみを癒してくれると言うのは、全くの嘘た。湧き上がる悲しみは、あの時と全く変わらない苦しさと痛みを伴って、次々と雪乃の心に襲い掛かってきた。


 ただ、あれだけ辛かったはずのこの悲しみも、あれだけ胸を締め付けて離さなかったこの切なさも、今ならすべて受け入れられる。だから、自分の記憶の奥底から、次々とあふれ出てくるこの悲しみとこの切なさは、絶対に忘れない。そして、今、瞼に浮かぶ面影を。かすかで、儚げで、ただ、ただ、どうしようもなく愛おしい、この面影だけは。もう二度と、絶対に、絶対に忘れない。

 雪乃は、悲しみにかすむ意識の底で強く、強く、そう思った…。


 その日、旭川に初雪が降った。雪虫の季節が終わる。 

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雪虫の消えるころには 津志 明日哉 @ryouryuu_as

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