消える時間
「なに…、これ」
動きを止めてしまった外の世界をみて、雪乃は静かにつぶやいた。
「時間の流れを極限まで遅くした。この光の外側全てのね。これで少しは時間が稼げる」
雪乃は、冬哉が何を言っているのか理解できなかった。ただ、首をかしげ冬哉をじっと見つめている雪乃に、冬哉は例のポケベルを見せた。それは、ポケベルと似たものであったが、よく見るとデザインも材質も全く違うものだった。
「これは、自分たちのサポートをしてくれる機械で、色々な情報を画面に表示したり、簡単な情報なら、直接脳に送り込んできたりするものなんだけど、情報だけじゃなくって、こうして時間の操作も出来たりする機械なんだ」
あっけにとられ、首をかしげたまま動かない雪乃に、冬哉は再び微笑みかけた。
「驚いた?未来にはこんなことが出来る」
「未来って…」
「俺はね、この時代からずっと先の未来から来たんだ」
冬哉の話はにわかに信じがたいものだった。
「あっちで時間の管理みたいな事をやっている。まだ、見習いみたいなもんだけど。で、時空に乱れが生じて、この時代にスーパーポジションが現れているのが確認されたんで、その原因を調べに来た」
それは、まるでSF小説みたいで、現実のものとは雪乃には思えなかった。少しでも理解しようと必死に考えてもますます混乱するだけだった。雪乃は耳慣れない単語を聞き返すことしか出来なかった。
「ス、スーパーポジションって、な、なに…」
「そうか、そっから話さないといけないな。前にこんな話をしたと思うんだけど、時間は未来から過去に向かって形作られているって」
その話もあまりよく理解はできなかったが、印象にははっきり残っていた。雪乃はゆっくり頷いた。
「今、この俺たちが過ごしている現在という時間は、無限の可能性のある事象が重なり合った状態から、一瞬先の未来に導かれて一つの事象に収束したものなんだ。そしてその過程が連なって、未来から過去へと順番に一つの時空が形成されている。ここまでわかる?」
雪乃、ちょっと自信なさげに少し小首をかしげながらも小さくうなずいた。
「けど、過去に何らかの変更が加えられてしまうと、その連なりが崩れてしまい、一つの事象に収束することなく、いくつかの可能性のある事象が、重なり合った状態で同一時空上に出現してしまう。その状態をスーパーポジションと呼んでいる」
「それって、どうゆう…」
「そうだね。具体的な現象としては、逃げたはずの猫が後ろで寝てたり、通り過ぎたはずのバス停にまた止まったりとか、他にも色々おかしなことがおきてなかった?」
「したら、あれって…」
猫の事、バス停の事、机の花束の事や、自分と同じ姿の少女と出会ったこと。ここ最近遭遇した不思議な現象を、雪乃は思い出していた。
「そう、スーパーポジション。異なった事象が一つの時空に重なり合って出現したために起こったこと。そして、それが一つ一つ収束していって、元とは違う時間の流れが出来上がっていくことで、スーパーポジションも解消される」
冬哉はここで一呼吸おくと、更に続けた。
「で、俺はスーパーポジションの発生の原因、つまり、過去がどこで変えられたかを探り、それを未然に防ぐ。更には、原因となる事象、つまり、過去が変えられることになった事象が起こるのを防げなかったとしても、過去を再修正して、元の時間の流れに近い状態に引き戻す。過去が変えられても、スーパーポジションが収束するまでの間、元の時間の流れも重なりあった状態で存在しているからね。その間に再修正するんだ。ちょうど、交差点で道を間違ったときに、次の角で曲がって、元の道に戻って行くみたいに。それが俺の任務だ…」
「任務…」
「そう、任務。でもね、俺は大きな失敗をやらかしだ」
「失敗って?」
冬哉は、急に少し早口になって、話を続けた。
「もともとこの時空に存在しない自分が、不確定要素になりうるって事は十分予想できていたし、気をつけてもいたよ。それに君がこの現象の中心にいることも分かっていたけど、こちらが確認できたときには、もう君の周りの時空は乱れてしまっていて、君がこの先どうなるのか、どんな人生を歩むのか、全く分からなくなっていた。だからこそ、そっと君のそばにいて、何が起こるのかずっと見張っていて、改変の兆候があれば対応しようとしていたけど…」
冬哉は、なにかごまかしたり言い訳しようとすると、早口でまくし立てる癖があると雪乃は感じていた。だから、言ってる内容はよくわからなかったが、肝心なことをなかなか言わないでいることだけは雪乃にも理解できた。雪乃はすこし焦れた。
「だから、失敗ってなんなの?」
冬哉は、一瞬言葉を止めると、フウと大きくため息をついてから言った。
「俺自身が、過去を変えてしまったんだ」
「それって、どうゆう…」
「雪乃、君はね。あの時。あのトクノの前で、トラックに轢かれて死んでいた。本来の時空ではね」
あの時の光景、雪乃の視界一杯に迫ってきたトラックの姿が雪乃の脳裏に浮かんでいた。あの時、本当は死んでいた。本来なら、自分はこの場に存在していない。一瞬だけ見たあの光景。教室が悲しみに包まれていたあの光景。あれは、自分が死んでしまったときの光景なんだ。それがあの時間本来の教室の光景だったんだ。そう気づいても、それはすぐに受け入れられるものではなかった。雪乃は自分の足元がぐらぐらと崩れていくような感覚に襲われていた。
「自分が取り返しのつかないことをしたんじゃないかってことは、すぐに気付いた。でも、本来の時間の流れでは君が死んでいたなんて事は分かっていなかったし、たとえあのまま事故に遭ったとしても助かってた可能性もあったわけだし、あそこで事故に遭わないのが元々の流れで、事故で未来が変わってしまうのを俺が防いだ可能性もありうるとも思っていたし。とにかく、その時点では君の周りの時空がひどく乱れていて、正確にトレースすることが出来なくなっていたんだ。それで、色々なことがはっきりとわかるまで、近くで見守る事にしていたんだ」
冬哉はここで一呼吸置いてから話を続けた。
「暫くすると、すこしずつ、時空の乱れが収束していくにつれて、俺が何をしたのか、君が本来どうゆう運命をたどっていたのか分かってきた」
「それって、いつ?」
「えっ」
「いつ分かったの?」
「あのサイクリングの帰り…」
そうあの帰り、ポケベルの音がした後、冬哉の雰囲気が急に変わった理由が雪乃には分かった。冬哉は自分が起こしてしまったこと、自分がしなければならないことが、あの時知ったから、あんなに厳しい表情で考え込んでいたのだと。だから…。
「だからあの後、俺は自分の失敗を取り戻すために、元の状態に戻そうとした」
「元の状態って…」
『元の状態』その言葉が指す意味に雪乃は気づいていた。でも、冬哉はその意味をはっきりということは出来ず、『元の状態』という表現を変えずに話を続けた。
「元の状態…に戻すとき、すぐに行動に起こしたり、直接手を下すようなことは出来ないんだ。それも無理やり時空を改変することになって、新たな歪みが発生するから。それに、時間を変えてしまったものには、手痛いしっぺ返しがくるし。でも、こうゆう大きな変化があると、起こりうる可能性、つまり、時空の選択肢の一つに、元の世界へとつながるような流れが自然と発生する。ちょうど、地震の揺り戻しのようなものと思ってくれればいい。そして、どんなことが起こるのかは、この機械でわかるから、その『揺り戻し』が起こるのを待って、そこに君をうまく誘導してあげればいい」
雪乃の脳裏には、あの夜、雪乃の家の近くで言った冬哉の言葉と、コンビニの事故の映像が浮かんだ。
「コンビニの…。あの事故に遭遇したのは、君がそこで事故に会うように俺が仕向けたからだ。元の状態に戻すために。それが任務だから…」
「じゃあ、あたしと一緒にいたのも…」
「いや、本当は君とこんな風に近づくつもりはなかった。自分のことは知られないようにして見守っているつもりだったし、最悪の事態…」
冬哉の言葉がここで途切れ、冬哉は伺うように雪乃の顔を見た。『最悪の事態』この言葉の意味することを気にして、この後の言葉が言い出せなくなっているように雪乃には思えた。
「大丈夫…。続けて」
今更、そんなことはどうでも良かった。雪乃は、冬哉に続けるよう促すと、冬哉は軽く頷いて、話を続けた。
「うん、最悪の事態になったとしても、全部君にはわからないところで事を起こすつもりだった。でも、俺の存在が君に知られることになってしまって、このまま君に見つからないように見守っていくことが難しくなったから、思い切って君に近づくことにした。それに…」
なぜか再び、冬哉の言葉は途切れた。結局、冬哉はそこで言いかけてた言葉を飲み込んで、話を続けた。
「いや、…。結果的には君の気持ちを利用するような形になってしまって…。そのことはすまないと思っている。ずいぶんとひどい話だ。我ながらあきれるよ。でもね、もう安心していいよ。スーパーポジションももう収束したんだ。もう確定した。君がもう死ななくてもよくなった」
今まで、厳しい表情で話をしていた冬哉が、ここで雪乃に微笑みかけた。
「収束…?確定…?私、死ななくていいの…?」
「うん、確定した。重なり合って存在していたいくつもの事象が、一つの時空の流れに収束したんだ。この流れで君は、17才で人生を終わらせることはなくなった。80年ぐらい先の、君の寿命が尽きるそのときまで、君は人生を全うできる。これで丸く収まったんだよ」
死ななくてすむ。確かに自分にとっては良いことなのだが、決して『丸く収まった』とは、雪乃には到底思えなかった。
「でも…。でもね、それって時間の流れが変わっちゃうってことでしょ」
「そうだよ」
「それって、いいの…?大丈夫なの…?」
雪乃のその問いかけに、少し慎重に言葉を選びながら、冬哉は答えた。
「時空の流れが変わってしまったのは確かだけど。元の時空の流れが『正しい』もの、とは誰も決められないんじゃないかな。君がこのあとも生きていく時間の流れって言うのも、それはそれで『正しい』ことで、誰も否定なんか出来ないんじゃないかな。こんな発言、自分の職務上許されることでは無いんだけどね」
違う!私はそんなこと聞いているんじゃない!。
「いや、そうじゃないの…。変わったことで、冬哉さんのいた未来に何か影響があって、大変なことになるんでないの?だから、必死になって…、任務を…、果たそうとしてたんでないの」
何か大変なことが起こるから、悩んでいたんでないの?悩んで、悩んで、それでも、私を殺そうとしたんで無いの?雪乃は心の中で叫んでいた。
「いや、この変化が自分の時代にどんな影響を及ぼすか、よく分からないんだ…」
「よく分からないって…」
「この変化が、この先の未来にどんな影響を及ぼすのか見定めるのに、もう少し時間がかかる…」
うそ!そんなはずが無い!第一、今までいってきた話とどこか辻褄が合わないよ。
どこに辻褄の合わない部分があるのか?この違和感の正体を探るため、雪乃は冬哉の言葉の断片を思い出して、繋げていった。
「だって、おかしいよ。さっき、言ったじゃない。確定したって、私が80年くらい先まで生きるって」
「それは…、自分たちの時代はもっとずっと先の話で」
「でも、未来から順番に収斂して形作られているんでしょ。だったら、ずっと先の未来の方がずっと先に確定してるんじゃないの?」
黙り込んでしまった冬哉を見て、雪乃は悟った。やはり、分かってるんだ。分かって何か隠してる。冬哉さんの時代に起きる何かを。私に言えないくらい大変な何かを。
「分かってるんでしょ。動物園の帰りに、本当は私が死んでいたって分かった時点で、全部分かってたんでしょ」
「いや、あの時はホントに。まだ君を起点に多くの分岐が存在していて…」
「あの時…?じゃあ、今は…」
そう、特に昨日、冬哉の態度はどこかおかしかった。しかも、急に様子が変わったようにも思えた。分かったのがあの時でないとすれば、昨日…。
「そう、昨日…。映画の後、冬哉さんちょっと変だった。あの時でしょ、分かったの…。それは、凄く大変なことだったんでしょ。だから…」
あなたは、私を突き飛ばした…。雪乃はその言葉を飲み込んだ。
これ以上はごまかせないと、冬哉もようやく悟ったようだった。下をむいて、冬哉はポツリと一言言った。
「君には関係ないことだ」
『関係ない』その言葉に、雪乃の抑えていた感情が弾けた。
「関係なくない!私を助けたから、私が死ななかったから、変わったんでしょ。だったら、関係なくない!」
冬哉は下を向いたまま、なにも言わなくなってしまった。
「ね、お願い。何が起こるのか、私知りたい。いや、知らなくっちゃいけないと思うの。だから、お願い」
冬哉は雪乃のすがりつくような言葉とは裏腹に、強固な意志が瞳に宿っているのを感じた冬哉は、その重い口を開いた。
「君は、そのうちある人と結婚し子供を作る。けど、その人は本来別の人と結婚し、子供を授かるはずだった。そして、その子が結婚して子供を産んで、そうして何世代か続いて、そのうち生まれてくるはずだったのが、俺だ。だから…」
重い口調で話し出した冬哉だったが、ここで冬哉は微笑を浮かべると、実に事も無げに一言こう言った。
「俺はもうすぐ消える」
それは、雪乃にとって最も耐えられない、受け入れがたい事実だった。雪乃は、冬哉の顔を見つめながら、小さく、小刻みに頭を振った。
「いや、ありえない…。そんな…」
信じられなかった。目の前にいる大切な人が消えてしまう。それも、自分の命を助けたから。そんなこと、あっていいはずが無かった。だから、雪乃は目の前の事実、冬哉が今ここにいる、その事実にすがった。
「だって、私が助けてあなたが消えるなら、その時点で消えちゃうんでないの?でも、あなた、いまそこにいるっしょ。消えてないっしょ。だから、これからも大丈夫なんでないの」
しかし、冬哉は雪乃がすがった事実を、簡単に否定した。
「確かに、時間が変われば、瞬時にその影響が反映しそうだけど、実際は瞬時に波及する事はなくて、全てが確定するまでタイムラグのようなものがあるんだ。それは、全ての事象を原子レベルまで一つ一つ辻褄合わせしながら収束してるから、その分猶予があるんじゃないかって考えられている。そしてその間、元の時間の流れも『重なり合った状態』で存在していて、全てが確定した時点で消えるんだ」
それでも雪乃は、簡単に納得はしなかった。
「でも…、でも、おかしいの。消えるはずないの!だってあなたが消えたら、私、助からない。誰も助ける人がいない。だから、ありえないの、そんなこと。絶対、ありえないの…」
「初歩的なパラドックスだね」
冬哉は、少し微笑んだ。
「でもね、変えられた過去が確定したら、もう覆せないんだ。たとえパラドックスの状態になったとしても、原因があいまいなまま、若しくは何かにすり替わって結果だけは残る。うまく辻褄だけは合うように出来ているんだ。だから、もう覆らないよ。パラドックスは起きない」
雪乃に、もうすがるものは残されていなかった。抑えきれなくなった感情は、塊りとなって冬哉へとぶつけられた。
「じゃ、なしてあん時助けたの!あたしなんか!コンビニだって!昨日だって!今も!助けなきゃいいっしょ! あたしなんか助けなくても、全部、全部元に戻るだけっしょ!」
その感情は自分にも向けられた。
「そんな…。いいしょ…。そのまま…。私なんて…。ほっとけば…。なんで…」
苛立ちは悲しみへと変わり、涙になって雪乃の瞳から零れ落ちていった。
「これも前に言ったと思うけど、強い意志が、時間を、運命を変えてしまうことがあるって。覚えてるかな?」
雪乃は、ゆっくりと顔を上げ、小さく頷いた。
「いくら自分が本来この時空にはいない不確定要素だといっても、時間を変えるのは容易ではないんだ。物理法則、つまり、宇宙の大原則を捻じ曲げる事になるから。だから、あの時は俺の強い意志が働いたんだ。君を助けたいって言う、強い、強い意志が」
「強い意志…」
その言葉が意味するものを、雪乃は分からないでいた。
「ここに来たのは大分前なんだ。もう1年近くになるかな…。ずっと、近くから君を見ていた」
「一年も…、ずっと…?私、全然気づかない…」
「そうだろうね。元々、この時間の人間じゃないから。違う時間の人間は、すぐ近くに立っていたとしても、きちんと認識されないんだ。単なる景色、電信柱や路傍の石ころぐらいにしか認識されない」
「でも、冬哉さん、今、私、あなたのことちゃんと見えてる」
「大きくこの時間に干渉してしまったからね。それ以前にこの時間に長くいすぎたのかも」
雪乃は、あの事件の直前、冬哉を見ていた。『TOKUNO』の看板の真下に立っていた姿を雪乃は思い出した。思えばあの時から、時間が少しずつおかしくなっていたのかもしれない。
「任務で君の事見ていたんだけど、君みたいによく笑う子は初めてだったんだ。俺らの時代は人間関係も希薄で、感情表現にも乏しい。もともと、こんなにも長く女の子のことを見ていたことなんて無いけど、よく笑って、よく泣いて、感情表現が実に豊富で、いつも本当に楽しそうで、こんな子初めてだった。見ていると、自分も胸の辺りが、こう、ほっこりしてきて、とても幸せな気分になれたんだ」
話している間冬哉は、今まで見たことが無いような、やさしい笑顔を浮かべていた。すると、今度は急に目をそらし、また早口になって一気にまくし立てた。
「ホント、俺らの時代は、人間関係も希薄で、パートナーも優生学的に決まってしまうし、生まれてもすぐ施設とかで育てられるから、家族とかも良く分からないし、って言うか、人とどう接していいかも良く分からないくらいで、なんと言うか、こんな感情持ったこともないし、どう表現すればいいのかよく分からないけど…」
ここで、冬哉は雪乃のほうに向き直り、しっかり目を見て言った。
「たぶん、俺は君のことが好きなんだと思う」
突然の告白だった。
「だから、あの時、どうしても助けたいと思った。その事しか考えてなかった。でも、それでよかったと今は思っている」
嬉しいはずの告白も、雪乃にとって、残酷な、悲しい告白でしかなかった。
「良くない。全然良くない。それであなた死んじゃったら、どうしよもないしょ…」
「死ぬわけじゃないよ。ただ消えるだけなんだから」
消える。ある意味死ぬより残酷な言葉に、雪乃には聞こえた。
「いや、やだ、そんなの…。私生きてられない…。あなたを消して、私、生きてなんていられない…」
今にも大声で泣き出しそうになっている子供をあやすように、冬哉は雪乃に話しかけた。
「そんな事言わないで、もう確定したことなんだし、折角助けた意味がない」
「したら私、もう誰も好きになんかならない!もう絶対結婚なんかしない!それなら、大丈夫でしょ。冬哉さん、消えなくてもいいんでしょ」
「ダメだよ。そんなこと。いっぱい恋愛もして、結婚もして、子供も作って。思うように精一杯ちゃんと生きなきゃ、いっぱい笑って過ごさなきゃ」
「そんなこと出来ない!あなたが消えると分かってて、恋愛なんて絶対出来ない!笑ってなんて過ごせない!」
「大丈夫。このカーテンが消えたら、みんなすっかり忘れるから」
時は、雪乃に冬哉のことを覚えていることさえ、許してはくれない。
「そんな…」
「だって、俺は元から存在してなかったんだから」
「いや、やだ!そんなことありえない。忘れるなんて絶対!絶対にありえない!」
「忘れたほうがいいんだ。君のためだ」
「やだ!やだ!やだ!絶対忘れない!絶対誰も好きにならないし、絶対結婚なんてしない!あなたのこと、絶対、絶対、忘れない!」
冬哉だけでなく、冬哉と過ごした楽しかったあの時間すら、時は奪い去ろうとしている。全て、無かったことにしようとしている。そんなこと雪乃にはとても受け入れられなかった。冬哉の姿を、たくさんの思い出と一緒に、脳裏に刻みつけようと、雪乃は必死に冬哉のことを見つめた。ただ冬哉は、『忘れない』その言葉だけで十分だった。
「ありがとう…」
そう言うと、冬哉は視線を落とし、少し色が薄くなりかけた自分の手を見た。
「でも、もう時間だ…」
冬哉は静かに微笑んだ。
「ホント、全部消えちゃうの?何も…。思い出も…、残してはくれないの」
雪乃はすがるような目で、冬哉を見つめた。
「そう、これなら…」
冬哉、そっとマフラーを差し出した。存在が希薄になりかけている冬哉の中で、それだけがしっかりとその質感を維持していた。
「もともとここにあったものだから、残るかもしれない」
雪乃は冬哉のほうに駆け寄りマフラーを受けとると、マフラーを胸元でぎゅっと握り締めた。そして、顔をあげ、下から見上げるようにして、その潤む瞳で冬哉のことを必死に見つめた。見つめ合ううち冬哉は、そっと雪乃の顔に手をやると、ゆっくりと顔を近づけた。雪乃も目を瞑り、背伸びをするように少しかかとを上げた。そして、二人は静かに口付けを交わした。
やがて、二人の顔がゆっくりと離れた。雪乃は目を開け、冬哉を見るとその姿は少しずつ薄くなってくる。雪乃は冬哉のことを離すまいと、ぎゅっとその身体を抱きしめ、また、下から見上げるように、じっと冬哉の顔を見つめた。必死にその顔を網膜に焼き付けようとするかのように。
「短い間だけど楽しかった。夢のようだったよ。一緒の時間が過ごせて」
やさしく微笑みながら冬哉は静かにいった。その冬哉を見つめる雪乃の目には、大粒の涙があふれていた。
「泣いちゃ駄目だよ。笑って。笑顔が見たい」
冬哉のその言葉に、雪乃は必死に笑顔を作ろうとしたが、涙をこらえるので精一杯で、ぐしゃぐしゃの笑顔になってしまった。それでも、冬哉は、
「そう、その顔」
といってニッコリ笑った。つられて雪乃も、少しだけ微笑む事が出来た。
「本当に楽しかったよ。ありがとう」
雪乃は、冬哉を抱きしめる手に更にぎゅっと力をこめた。そして、必死に涙をこらえ、冬哉のことを見つめながらも、冬哉が消えていくその事実を拒むかのように、細かく首を横に振りつづけた。すると、冬哉は、最後にもう一度ニッコリ微笑んで言った。
「したっけ…」
ふっと、冬哉を抱きしめたその手に感覚がなくなった。やさしい微笑を残し、ついに冬哉は消えてしまった。同時に光のカーテンも消え去り、あたりのものが一斉に動きだしていた。人々が逃げ惑い。怒号と悲鳴が飛び交っていた。遠くでサイレンも響いていた。その中で雪乃は、手にマフラーを握り締め、顔を上に向けたまま、冬哉の顔があった空間をただじっと見つめ、しばらく立ち尽くしていた。そして、まだ冬哉がそこに居るかのように、誰もいない空間に静かに語りかけた。
「冬哉さん…。違うよ…。『したっけ』って、じゃあね、またね、って意味だよ…。また会えるときに使うんだよ…」
雪乃は、天を仰いだまま、涙をこらえ、そっと目を瞑った。
天を仰ぐ雪乃に一片の雪が降りてきて、その頬に止まった。そして、その雪は雪乃の頬を伝う一粒の涙に流されていった。雪乃は目を開けると、大粒の涙を浮かべながら、目の前の冬哉の幻影に再び語りかけた。
「だから冬哉さん、使えないよ…。だって、あたし、もう二度とあなたに会えないしょ…」
精一杯こらえていた悲しみが一気にあふれ出し、雪乃は大声をあげて泣き出した。
「うああああああ!」
手にしたマフラーがするりと地面に滑り落ちた。雪乃は全身の力が抜けたように膝を付き、崩れるようにその場に倒れこんだ。そして、倒れたままいつまでも泣き叫ぶ雪乃に、この冬初めての雪が容赦なく降り注いでいった。悲しみの中に埋もれ、次第に意識が遠のいていった雪乃は…
瑞枝の家の布団の中で、不意に目が覚めた。
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