そのとき、二人を残して…

 その日雪乃は、家に帰るとそのまま自分の部屋に籠もって出てくることは無かった。心配した母親が何度か覗きに来たが、ベッドで頭から布団をかぶり、顔を出そうともしなかった。母親は仕方なく、暫くそっとしておくことにした。落ち着いてから、ゆっくり話をしよう。そう思い、軽食だけ部屋に残して、部屋を後にした。

 雪乃はもう何も考えたくなかった。思い出したくもなかった。布団にくるまったまま雪乃は、

 (もう何も考えたくない!何も思い出したくない!)

 そう頭の中で繰り返していた。それでも、頭の中では、迫ってくるトラックの映像と、クラクションの音、「ごめん」つぶやく冬哉の声、そして、下を向いたまま目をあわせようとしない冬哉の表情が、繰り返し、繰り返し、フラッシュバックのように頭の中に浮かんでは消えていった。

 やがて、その映像は、冬哉との思い出の映像に変わっていた。初めて会ったときの困ったような表情、あの喫茶店での不貞腐れたような顔、初めて入ったラーメン屋での一気に食べる姿、マフラーをかけてあげたときの少し照れた表情。一つ一つ思い出していくたびに、雪乃はチクリと胸を指すような痛みを感じていた。しかし、その痛みは次第に別の思いへと変わっていった。

 (なぜ…)

 冬哉の表情、仕草。どれをとっても、冬哉があのような行動に出る気配は微塵も感じられなかった。理由も思いつかなかった。だからこそ、(なぜ?)と言う思いが強くなっていった。そして、もう一つ。理由が分からない、説明できない、だから全ては自分の勘違いだったんじゃないか?自分の間違いだったんじゃないか?と言う思いも。そう、第一自分を何度も助けてくれた冬哉がそんなことをするはずがない、そう思えて仕方が無かった。冬哉のことを信じたい、と言う想いが、強く雪乃の心の奥底にはあった。

 それでも…。

 自分の中で芽生えた疑念を雪乃は拭い切れなかった。今回のことだけではない、そもそも、疑念が芽生え始めた最初の出来事。コンビニでのあの事故があったあのとき、その前後の冬哉の行動だけは、いま考えても、色々辻褄の合わないことだらけだった。そして、事件前日の冬哉が言った言葉を思い出したとき、雪乃はあることに気づいた。

 『さっきのバス停のとこのコンビニで待っててくんないか?時間は、そうだな、8時くらい。遅れるかもしれないけど、立ち読みでもして待ってて』

 動物園の帰り、家の前で約束をしたときの言葉が、ついさっき、明日の約束をしたときの言葉と、妙に一致することに。

 『まずは、いつもの喫茶店、あそこで待っててくれないか?時間は、そうだな、十一時くらい。遅れるかもしれないけど、先入って待ってて』

 色々な疑問と、その答えを確かめたいと言う気持ち、そして、冬哉のことを信じたいという想い、そのそれぞれが大きく膨らんで、ぐしゃぐしゃに混ざり合っていくのを、雪乃は感じていた。


 その日は、朝から曇りだった。灰色の雲が空一面に立ち込め、紅葉もすっかり落ちて色彩を失っていた旭川の町を、グレーの色、一色に染めてしまっていた。空気は湿っていて、身を切るような寒さまでには感じなかったが、街に残っていた秋の温かみを奪うほどには冷たく、やがて訪れる本格的な冬を感じさせるに十分な寒さだった。

 灰色の景色の中を、雪乃は喫茶店に向かって歩いていた。途中、店のガラスに映る自分の顔をみて、雪乃は思った。

 (ひどい顔…)

 昨晩、雪乃は一睡もしていなかった。そのせいか、目には隈が出来、心なしか肌の色もくすんで見えた。おまけに、表情も硬く、強張っているようにさえ思えた。

 (デートに行くような顔じゃないよね)

 それでも、雪乃は喫茶店に向かっていた。今日行かなければ、冬哉には二度と会えない、そう感じていた。ただ、会ってどうするのか?どう振舞うのか?何も決めてはいなかった。とにかく、このまま二人の関係が終わってしまうことだけは、どうしても嫌だった。もっとも、冬哉が今日この場に現れる保証は無かったが、そのときは少なくとも、今日、この場所で何が起こるのか(あるいは、何も起こらないのか?)、それだけでも確かめなくちゃいけない、そう雪乃は考えていた。


 喫茶店の前には、冬哉がいた。店の中には入ろうとせず、喫茶店の前にある電柱に寄りかかり、下を向いて立っていた。雪乃は、その姿に気づくと、その場で立ち止まった。冬哉も、雪乃に気づき、ゆっくりと顔をあげた。

 「たぶんここには来ないと思っていた」

 冬哉が言った。

 「なして?昨日約束したじゃないですか…。早いですね。遅れるって言ってませんでした?」

 自分では、平然を装ったつもりだったが、雪乃の声は少し震えていた。表情も強張ったままだった。一方、冬哉のほうは、雪乃の問いかけに対し、黙ったまま何も答えようとせず、その場に立っていた。

 「なに、そこで突っ立てるんです?早く中入りましょう」

 雪乃は、早足で冬哉の前を横切り、喫茶店のほうへ進もうとした。すると、冬哉は雪乃の手を掴み、喫茶店とは逆の方向に手を引っ張った。

 「行くぞ」

 しかし、雪乃はその場でぐっと踏ん張り、動こうとしなかった。

 「いやです」

 雪乃はじっと冬哉を見つめて言った。

 「まだどこ行くか決めてないっしょ。中入って決めましょう」

 そういって雪乃は、また喫茶店の方へ向かおうとするが、冬哉が強く手を引いて、雪乃を引きとめ、一言だけ言った。

 「駄目だ」

 雪乃は、今度は睨みつけるようして冬哉を見た。

 「駄目って、なにが駄目なんです?」

 その問いに冬哉は答えず、雪乃の手を握ったまま、少し下を向き黙りこんだ。

 「昨日、ここで待ち合わせしようって言ったの、冬哉さんですよ」

 追い討ちをかけるように雪乃は続けたが、冬哉は下を向いたままだった。雪乃はそのまま暫く冬哉の顔を見ていたが、ふうと一呼吸置いてから言った。

 「あそこで何か起きるんですか」

 その言葉に冬哉は、少し驚いたように顔を上げ、雪乃の顔を見た。雪乃は、見返すようにじっとその目をじっと見て、続けた。

 「そう、危ない事とか…」

 すると、冬哉は雪乃から目をそらし、再び強く手を引いた。

 「行くぞ!」

 「いやです!」

 冬哉は更に強く雪乃の手を引いたが、雪乃はその場に踏ん張って動こうとはしなかった。

 「いいから来い!」

 「いやだ!」

 「どうして!」

 「理由を教えてください!」

 ふっと冬哉の手から力が抜けた。

 「どうして、お店に行っちゃいけないのか、理由を言ってください」

 冬哉は雪乃の手を離し、再び下を向いてしまった。

 「言えないんですか」

 雪乃が問い詰めても、冬哉は答えようとしなかった。

 「じゃあ、いいです。行きます」

 雪乃はこう言うと、踵を返して再び喫茶店の方へと進もうとした。しかし、冬哉がまた雪乃の手を掴み、雪乃を引き止めた。

 「とにかく駄目だ!」

 こちらの問いには何も答えず、とにかく雪乃の事を力で引きとめようとする冬哉の態度は、雪乃には理不尽なものにしか思えなかった。その態度に、雪乃は今まで押さえつけていた感情が、声と一緒に噴出してくるのを感じた。

 「いやだ!離して!」

 そう言うと、雪乃は冬哉の手を振りほどき、大きな声でその思いのたけをぶつけた。

 「ここで決めようって、あんた言ったしょ!時間もこの時間って、遅れるかもしれないって、だから先に座っててって、あんた言ったしょ!全部全部、あなたが言ったことなのよ!」

 冬哉は相変わらず黙ったまま何も答えようとしなかった。雪乃は冬哉の顔を見つめて、今度はすがるような声で続けた。

 「お願い、行かせてよ…。あなたが言った時間に、あなたの言った場所にいたいの…。お願い…」

 冬哉は、そっと雪乃の手を取り、静かに言った。

 「もうこれで最後だから。カタがつくから…」

 カタがつく…。その言葉を聞いて、雪乃が再び大声を出した。

 「なにが最後よ!なにがカタがつくのよ!手、離してよ!あたしは中に行くの!」

 雪乃は暴れて手を振りほどこうとした。しかし、冬哉は必死になって手を離そうとはしなかった。

 「雪乃、やめろ!ちょ、待て!」




 その時間、喫茶店のマスターはカウンターで一息ついていた。今日は休日にしては客足が悪く、この時間、店には誰も客はいなかった。昼の仕込みや片付けなど、は全て終わり、やることもなくなっていたマスターは、自分で飲む分のコーヒーを入れるため、サイフォンに火を入れた。そして、カウンターの椅子に座り、ふと窓の外に目をやると、店の前いる二人の男女が目に入った。いつも来る女子高生と若者カップルのようだった。何やら二人はもめている様子で、女の子が必死に男の手を振りほどこうとしているのが見えた。ただならぬ雰囲気を感じたマスターは、二人の間に入ってとめようと、急いで店の外に出た。そのとき、マスターはこの選択が自分の命を救うことになるとは、夢にも思っていなかった。そして、この喫茶店の地下にある食糧庫では、数日前修理したばかりのガス管からガスが漏れて、そこに充満していたこと。そのガスが隙間から漏れて、今まさにサイフォンの火に引火しようとしていたことにも、全く気づいていなかった。




 「離してよ!離してったら!」

 雪乃の声が辺りに響き、雪乃は冬哉の手を振りほどこうと必死にもがいていた。その様子を見た喫茶店のマスターが、中から飛び出して、二人に声をかけようとした丁度そのとき、突然ドーンと大きな爆発音があたりに響いた。そして、強い爆風とともに、ガラスやら木片やら、細かい破片があたりに飛び散った。冬哉は雪乃を抱きかかえると、そのまま蹲り、降り注ぐ破片から身を守った。あたりは一瞬で真っ黒な煙に包まれていた。

 暫くすると次第に煙が晴れてきて、周りの様子が見えるようになった。雪乃は彼女を抱えていた冬哉の手をゆっくりと離して立ち上がり、喫茶店の方に振り向いた。そして、自分が入ろうとしていたところに何が起こったのか、雪乃は目の当たりにした。

 喫茶店の様子はすっかり変わってしまっていた。建物はそのままだが、ガラスが全部吹き飛び、中がめちゃくちゃになり、炎が噴出していた。あたりは、早くも逃げ惑う人と野次馬でごった返していた。そして、喫茶店の前には燃え盛る炎を見つめてマスターが立ち尽くしていた。

 雪乃は冬哉のほうへとゆっくりと振り返った。冬哉も立ち上がりこの惨状を見ていた。そして、雪乃が自分の方を見ていることに気づくと、冬哉も雪乃のことを見つめた。やがて、雪乃はゆっくりと冬哉に話しかけた。

 「あなたが…、やったの」

 冬哉はゆっくりと首を振った。

 「じゃあ、知ってた、の?…」

 今度は小さく頷いた。

 「あなた…一体…」

 雪乃の問いかけに、冬哉はやさしく微笑みかけ、答えた。

 「終わったよ。これでカタがついた」

 雪乃はただ呆然と冬哉を見つめるしかなかった。

 「これで確定だ」

 「確定って…」

 確定という言葉と、それを言うときに見せた冬哉のやさしい表情に、雪乃は一連の出来事が全て終わったことを感じていた。しかし、それが一体なんだったのか、雪乃は知りたかった。

 「どうゆう、ことなの。お願い…。教えて」

 冬哉を見つめる雪乃の目に強い意志を感じて、冬哉もゆっくりと口を開いた。

 「つらい話かもしれないよ」

 雪乃は小さく頷いた。

 「耐えられるかい?」

 「自信はないけど…。話して…」

 冬哉は小さく微笑んだ。

 「わかった。全部話そう」


 冬哉は、ジャンバーのポケットから例のポケベルのようなものを取り出し、指でその表面をなぞると、二人の周りに柔らかな光のカーテンが現れた。そして、その瞬間すべての音が消えた。いや、消えたのではない、すべての音がしなくなった。なぜなら、光のカーテン外側の世界では、すべてのものが動きを止めていたから。そのとき、二人を残して時間が止まった。

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