窓から吹き込む風が、開き切ったスカビオーサの花弁を一つ散らした。

 もうこの花の季節も終わりだ。

 雄蕊が零した花粉は、雌蕊だけではなく花びらも葉も花瓶もその下の白いリネンも汚してしまう。

 わたしは窓を閉め、カーテンを引いた。

 秋の夕陽は何故、真夏のそれよりもこれほど強烈で容赦ないのだろう。

 何かを恨むように、深紅に燃える。

「寒くなってきたわね、ニナ」

 わたしは揺り椅子に座る彼女に声をかけ、微笑む。

 刺繍は相変わらず、進まないままだ。

 でも人のことは言えない。

 わたしのクロッシェも、あの日から手が止まったままなのだ。

 いつまでも編み終わらないケープ。

 ニナの肩を温めることはもうないだろう。

「ニナ、いつまでも窓辺にいると身体が冷えてしまうよ」

 そう言うわたしに応えるように、椅子は揺れ、小さく音を立てた。

「聞いてる? 居眠りでもしているの?」

 からかうように言い、ニナに近づく。

 ふと視線を感じて振り向くと、鏡があった。

 いつもそこにあるのに、何度もその中の像にどきりとしてしまう。

 古い鏡は裏に塗られた硝酸銀の定着が悪く、映すもの全てを歪ませる。

 わたしの顔も醜く歪んでいた。

 ぞっとして、思わず頬に手をやる。

 するりとした絹の手袋の感触にいくらかほっとしたけれど、胸の中はざらざらと砂が満ちたように不快だった。

 気味の悪い薄汚ない鏡。

 でも捨てることができない。

 真鍮細工で縁取られた世界が時折、目が痛くなるほど鮮やかで明瞭に輝くから。

 花瓶の中のスカビオーサはまだ蕾を多くつけ、真夏の空のような色をしている。

 さっき窓を閉めたはずなのに、レースのカーテンは風に踊り、ニナのスカートの裾を翻して白い脚の上を嘗めていく。

 鏡の中でニナがこちらを向き、微笑む。

 少女のときと同じ、あどけない笑顔で。

 長い間……もうずっと長い間、彼女はこんなに綺麗で、穢れを知らないまま。

 わたしは鏡ごしにニナの頬に触れた。

 手袋を外し、鏡をなぞる。冷たい感触。

 ニナの頬は薔薇のように色づいているのに。

 鏡面を撫でる私の手の甲は、血管が浮き、薄茶色の染みができていた。

 爪はささくれて乾き、血の色を透かすことなく白く濁っている。

「ニナ……ニナ、どうしたらわたしはそこへ行けるの?」

 静かに、首を横に振る。いつもと同じニナの仕種。

「ニナ……行かないで。どこにも…行かないで」

 わたしの懇願を聞き、鏡の中のニナは悲しそうに眉を顰める。

 ああ、わたしはニナを愛しているのに、どうして彼女の悲しげな顔を一番美しいと思ってしまうんだろう。

「ごめんなさい、ニナ。ニナ……わたし……」

 反転した世界の彼女は静かに部屋を出て行った。

 急に鏡の中は色褪せる。映るのはただ、古ぼけた屋敷の内部と、素性を偽り一人住み続ける卑しい老婆だ。

 白い髪がほつれ、頬に落ちる。

 わたしは自分の姿を直視できず、鏡に背を向けた。

 揺り椅子は、誰も座っていないのにゆったりとリズムを刻んで前に後ろに動いている。

 その度に、背もたれにかけた白いワンピースも揺れた。ニナがよく着ていた物だ。

 揺り椅子から刺繍枠が落ち、乾いた音をたてる。

 わたしはワンピースを胸に抱き、床に頽れて泣いた。

 綿の乾いた感触。もうニナの体温など残っていない。

 それでも、私は必死で彼女の痕跡を求め、布地に顔を埋める。

 微かに、グレナデンの香りがした。

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ラストノート 絢谷りつこ @figfig

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