3
ニナの浮かれた声で目が覚めた。
リビングからわたしを呼んでいる。
「ねぇカヤ、まだ具合が悪い? 眠ってるの?」
そんな大声を出しておいて眠っているのでもない、そう思いながらわたしは編みかけのケープをベッドの中に隠し、下の階へ降りた。
「……どうしたの、ニナ」
ニナは上気した顔でわたしに近づく。
「また、何か見つけたの?」
「そうよ!」
ニナはこの屋敷を物色するのが好きだ。
わたしも最初はもの珍しさと必要に迫られて、何か使えるものはないかと探したが、すぐに飽きてしまった。
散らかった部屋と埃が煩わしかったせいもある。
「見て。これ、どこで見つけたと思う?」
そう言って悪戯な笑みを浮かべながら、小さな箱を掌に乗せて差し出した。
赤い包装紙で包まれた箱には、金色のリボンがかかっている。
包装紙の角は少し傷んで艶をなくしていた。
「さあ……ドレッサーの奥?」
「違うわ。そこは散々見たもの。もう変色したクリームの瓶があるだけよ」
わたしは小さく溜め息をつく。
まだ頭が痛いのだ。
「……ごめんなさい。カヤは気分が悪いんだったわね……」
花が萎れるみたいに頭を垂れ、ニナは俯く。
「大丈夫よ。でもそろそろ、どこで見つけたか教えてくれる?」
「書斎よ。デスクの抽き出しにあったの。それもうんと奥の方」
「秘密のプレゼントね。愛人にでも渡すつもりだったのかしら」
わたしが話に乗ったから、ニナはまた笑顔になり、リボンの端を摘んだ。
開けてもいい? と訊いているのだろう。
わたしは黙って頷く。
なんだか、小さな儀式みたいだ。
胸の奥がざわざわする。
間近にニナの顔があるせいかも知れない。
でも、何か嫌な感じがする。
避けられない残酷な運命を紐解くような。
ニナの細い指はするすると金色のリボンを解き、もどかしそうに少し眉を顰めて、赤い包装紙を剥ぎ取り、中から現われた深い緑の箱を開けた。
「綺麗……」
中を見て、ニナは呟く。
入っていたのは、香水だった。
お話の中の貴婦人が使うような、深紅の細い糸で編まれたポンプつきの、華奢な香水瓶。
薔薇の花びらを凍らせたような淡い淡いピンクの硝子は多面カットを施され、金色の細い文字で愛の言葉が歌うような曲線で書かれていた。
「どんな香りだと思う? ねぇ、吹いてみていいかしら」
ニナは指先でポンプを摘む。それが、赤い果実のように見えた。
「……変質してないといいけど」
「さあ…大丈夫じゃない?」
ジャムもクリームも大丈夫だったじゃないと言ってニナは笑う。
確かに、口に入れるものにはそれほど注意を払わなかったのに、香水ごときに躊躇する必要はない。
変質していたとしても、変なにおいに二人で顔をしかめるだけだ。
後は、窓を開けて空気を入れ替えればいい。
いっそ、毒でもかまわない。霧状になった毒がわたしたちの肺に忍び込む。
呼吸が止まってしまえばいい。
ああ、でもその前に、髪を梳いて綺麗な色のワンピースに着替えて、パントリーの奥にあった古いワインも開けてみたい。
大事にとっておいた干し肉と枇杷の缶詰めも食卓に並べて。
わたしの空想などはおかまいなしに、ニナは呆気なくポンプを指で押した。
ふしゅっと軽い音を立て、細かな霧がわたしたちの間に舞う。
途端、甘酸っぱい香りが広がる。
わたしたちは注意深くそれを嗅ぎ、顔を見合わせる。
「傷んではいないわね。いい香り」
嬉しそうにニナが言う。
柑橘系の爽やかな果汁と、蜜をたたえた花のような香りがした。
「官能的な香りね」
わたしは思わず息を詰め、口元に手を当てた。
「そう? わたしはおいしそうだと思うわ。なんだか、果物みたい」
ニナはきょとんと瞳を丸くして言う。
そして、今度は空中ではなく、自分の胸元へ香水を一吹きした。
「子供ね、ニナ。おいしそうだから官能的なんじゃない」
「嫌ね、カヤったら大人ぶって」
くすりと笑って、ニナは香水を振った辺りを撫でた。
鎖骨と、胸の膨らみの中間くらい。
わたしの表情が曇るのを、首を傾げながらニナは覗き込む。
大きめに開いた襟元から、少しだけ下着のレースが見えた。
「いやらしい香りよ。花が虫を誘うみたいな。浅ましくて愚かで……わたしは嫌いだわ」
呆れるほど原始的で純粋な誘惑。ニナの胸から香る甘いシロップ。
やっぱり、毒があるのだ。
だって胸が苦しい。
「……だって、奥さんを裏切って若い女に送るはずだった香水でしょう。穢らわしい。こんなもの、つけないで! ニナ、今すぐシャワーを浴びてその香りを落として!」
自分でも意外だった。わたしはいつの間にか、叫ぶように、懇願するようにニナに訴えた。彼女から立ち上る香りに心が乱される。
「カヤ、どうしたの。まだ頭が痛いの? 少し変よ。なんだか苛々して」
突然の癇癪に苦笑しながら、ニナはそっとわたしの額に触れる。ひんやりとした指先。
そう感じるのは熱があるせいかも知れない。
「ねぇ、頭はどの辺りが痛いの? キスをしてあげるわ」
「じゃあ、唇にして」
「……唇が痛いわけじゃないでしょう?」
穏やかな声で言いながら、ニナはわたしの唇に人指し指で触れた。
爪が上唇に当たる。
こんなとき、ニナは急に大人になったような顔をする。
わたしが意地悪を言ってからかっても、疲れて思い遣りのないことを言っても決して深刻な言い争いにはならない。
ニナがこうして寛大な笑みを浮かべるから、わたしは自分の卑小さに打ちのめされるのだ。
「……冗談よ。ニナのキスで頭痛が治るわけじゃないわ」
「もう、本当に機嫌が悪いわね」
そう呟きながら、ニナはわたしにキスをした。
唇がほんの一瞬重なる。
吐息が温かい。
それからニナはわたしの額と、こめかみと鼻先にもキスをした。
「カヤ、もう少し部屋で眠っていらっしゃい。それとも、ミルクを温めてあげようか?」
黙って首を横に振る。
ニナは困ったような顔をして、わたしを見つめている。
また、鼻孔をつく香り。
ニナの身体で温まり、濃度を増す。
「カヤ……どうしたの? 震えてる。寒いの?」
違う。違うのニナ。怖いの。
わたしが床にうずくまると、ニナも一緒に座り込んで、小さな子を宥めるように頭を撫でてくれた。
「大丈夫よ、カヤ」
そう言うニナの声も不安そうだ。
わたしたちは知っている。
もうすぐ、夏が終わること。
パントリーの中の食料はほとんど食べ尽くしてしまっている。
お財布のお金は、もう硬貨数枚しか残っていない。
魔法が溶けてしまう。
短い、蜜月の。
「ニナ、わたし…帰りたくない」
「わたしもよ、カヤ。ずっとここで暮らせたら……どんなにいいでしょうね」
細い腕が背中に回り、抱きしめられた。
柔らかい胸が頬に触れる。
綿のワンピースのさらさらとした肌触りに、熟れた果実の香りは不釣り合いだ。
嫌悪と陶酔で狂いそうになる。
「どこにも…行かないでね、ニナ。ずっとここで一緒に……いられるよね?」
ニナはただ頷き、わたしの額に頬を擦り寄せる。
わたしは恐る恐るニナの乳房に触れた。
ゼリーの固まり具合を確認するように慎重に。
ニナは少し戸惑うように息をつき、でも、そのまま触れさせてくれた。
胸元の釦を一つずつ外し、下着をずらして直に触れるニナの肌は、思っていたよりも温かくなかった。
でも気が遠くなりそうなほど柔らかい。わたしは白い膨らみに頬を寄せ、先端の果実を口に含む。
歯をたてると甘い果汁が迸るのではないかと想像しながら、無心に吸った。
「カヤがわたしの赤ちゃんだったらいいのに」
ニナが恍惚とした声で呟く。
本当に、そうだったらいいのに。
わたしは泣きながら、ニナの胸に縋りつく。
どうしたらいいのか、わからなかった。
庭を染める夕陽は大きく、赤い。
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