珍しくニナの方が早起きをしていた。

「どうしたの?」

「カヤ、静かに。猫がきているのよ。ほら、あそこ」

 ニナはテラスからそっと庭の様子を窺っている。その視線の先に、斑模様の猫がいた。

 猫はわたしたちが見ていることなどお構いなしに、庭を歩き回り、植物のにおいを嗅いだ。

 堂々とした様子は、わたしたちがこの屋敷の持ち主ではないことを悟っているように見えた。

「可愛いわね。何か食べるかしら? オイルサーディンくらいしかないけど」

「あんなに油っぽいものあげて大丈夫なの?」

 わたしたちは顔を見合わせ、答えが出ずにまた猫を見た。

 二人とも、猫を飼ったことがないからわからないのだ。

「ねぇニナ、あの猫、妊娠してるわ。おなかが大きい」

「本当ね。仔猫、いつ生まれるのかしら」

「そうね……」

 おなかはずいぶん大きいし、乳が張っている。多分、もうすぐ生まれる。夏の終わりか、秋の初めに。

 それを口に出せなかった。明日や明後日のことさえ考えたくない。未来なんてなければいい。

 ずっと、今日と昨日と一昨日を繰り返していたい。そうすれば、ニナとずっと一緒にいられるから。

「ニナ、知ってる? 牡猫のあれって棘があるんですって」

「え……嫌だ、どうして?」

「抜けないようによ」

 ニナの表情が強張る。まずいことを言ったような気もするけれど、わたしたちには仔猫の誕生を否定する必要があった。

 新しい命はいつも未来と共に無慈悲にやってくる。

「そんなひどい思いをしてまで繁殖しなくちゃいけないなんて……可哀想ね」

 胸を痛めるニナの横顔は美しかった。わたしは、彼女が苦しむときにとても綺麗な表情をすることを知っている。

 多分、笑顔より綺麗。

「痛かったでしょうね」

 可哀相な猫。可哀相なニナ。



 わたしたちは沈んだ気分のまま薄いパンケーキにすぐりのジャムを塗って食べた。

 蒸らす時間の足りなかった紅茶は渋くて尖った味がした。

 猫が怖かった。新しい命を内包した猫に脅威を感じた。

 いつもは二人で庭に出て、食べられる植物を探したり花を摘んだりしたけれど、今日はそんな気分になれなかった。

 まだ、あの猫がいるような気がして。庭が急によそよそしく見えた。

 わたしはケープの続きを編もうと思い、ニナには頭が痛いからもう少し眠ると言って寝室に篭った。

 ベッドに腰かけ、細い針を持ち糸をかけては抜いた。絡まり合い、糸は形を変えていく。

 それが昨日までは楽しく感じられたのに、今日は不気味で仕方なかった。

 最初は羊だった。

 毛を刈られて、糸に寄られて、染められて、綛糸にされて、それを巻取って玉にして、今度はケープに変わろうとしている。



 いろいろなものが変わっていく。

 月は欠け太陽は沈み星は流れ、花は枯れて実をつける。

 猫は孕み、ニナは日を追う毎に綺麗になって、大人の女に変わる。

 急に疲れを感じて、わたしは手を止め、ベッドに横たわる。

 嘘のつもりだったのに本当に頭痛がしてきた。

 なんだか、目の前が霞んで見える。窓からは午後の陽が射し込む。

 侵入する光は昨日より少しわたしに迫ってくる。

 微かな、秋の気配。

 午睡は重く、苦しかった。

 息ができない。

 身体が何かとろりとした液体に沈んでいく。

 薔薇を溶かしたみたいな色。

 でも、色づいているのは血のせいかも知れない。

 昔見た、本の挿絵を思い出した。

 石を抱いて水に沈む女。魔女裁判にかけられているのだ。

 あの魔女はニナによく似ている。



 可哀相に、本当はただの無力な少女なのに。

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