ラストノート

絢谷りつこ

 古い鏡は硝酸銀が浮き、気味の悪い染みができている。曇った鏡面に映るわたしの顔は、真鍮製フレームに入った半世紀も前の写真か、肖像画みたいだった。

 オーバルに切り抜かれた部屋も、何もかもが古くくすんで見える。真っ白なはずのレースのカーテンも、磨き上げた硝子の花瓶も、そこに生けたスカビオーサまで干涸びて見えた。

 今朝、庭で摘んだばかりなのに。

 わたしは庭仕事のために結わえていた髪を解いて胸の前にたらし、日に焼けたのではないかと思って鏡に顔を近づけた。

 でも、相変わらずそこに映るのは、霞がかかったような世界。



 視界の隅でニナがわたしを見て微笑んでいるのに気づく。彼女はお気に入りの揺り椅子に座り、白いワンピースの膝にはやりかけの刺繍を置いていた。

 刺繍枠には三十二カウントのリネンがはまり、ビオラの花弁が三枚ほど散っている。

「あまり進んでいないのね、ニナ」

「だって、カヤのように上手にできないもの」

 そう言って膨れっ面をする。小さな頃から変わらない、あどけない表情。少女の頃のままの、栗色のお下げ髪。

「ニナは根気がないのよ」

 わたしはそっとニナの頬に触れた。少し、痩せたような気がする。いや、違う。少女から、大人の女性になりかけているのだろう。

 頬のラインがシャープになった代わりに、胸元が豊かになり、腰や脚には柔らかい脂肪がついた。

 腰を捻ったときにできる服のドレープが、彼女の身体の変容を示していた。

 時折、息を呑むほど嬌艶なのに、ニナ自身はそれに気づいていない。無邪気で罪作りなニンフみたいだ。

「どうしたの、カヤ。元気がないわ。それに、手が冷たい。庭で冷えてしまったのね」

 ニナは立ち上がり、わたしの手を握った。ニナの手は温かくてすべらか。

 縋るように握り返すと困ったように笑う。

 可愛い、ニナ。

「カヤは座っていらっしゃい。紅茶を煎れてあげる。何がいい?」

「じゃあ、アッサムをうんと濃く煎れてミルクティーにして。なんだか、ちゃんと目が覚めていないみたいなの」

 まだ、夢の中にいるような気がする。あの鏡のせいだ。古くて曇った鏡が、現実感を奪っていく。

 少し身震いすると、ニナはそっと抱きしめてくれた。

 料理も裁縫も苦手なのに、ニナは紅茶を煎れるのだけは得意だった。

 丁寧に茶器を温めて、サンドグラスをひっくり返す。

 陶器製のそれには小さな薔薇が描かれていて、血のように染められた砂が括れた硝子の中を音もなく滑り落ちる。

 わたしたちはテーブルにつき、黙って紅茶を飲んだ。

 わたしが砂糖を入れないことを知っているくせに、ニナは勝手にキューブシュガーを落とした。

 小さくあっと声を出すと、ニナはまるで母親みたいな笑みを浮かべて、

「疲れてるなら、甘くして飲みなさいよ」

 と言う。王冠の飾りのついたスプーンでかき混ぜられ、砂糖の粒はすぐに溶けてなくなった。

 甘いものを口にするとお腹が空いていたことを思い出し、昨日焼いて残っていたスコーンを温め直した。

 ニナはクロテッドクリームと蜂蜜をこぼれるほどつけて、大きな口を開けてスコーンを頬張る。

 幼さと艶かしさが同居する、ニナの表情。唇の端についた蜂蜜を嘗め取りたい衝動を必死で抑えた。

「どうしたの、カヤ。変な顔をして」

「……ニナ、他の人と食事をするときはもう少し小さな口で食べることをお薦めするわ」「嫌ね、カヤの前でしかこんな顔しないわ」

 少し肩を竦めて笑う。

 ニナは知っているの? わたしの気持ちを。

 何も知らないままにそんな残酷なことを言うの?



 眠りに就く前に甦る記憶は夢と混じり合う寸前の、危ういバランスでわたしの目の前を行ったりきたりする。

 その感覚が怖くて、闇の中で目を見張る。でも微睡みはわたしを見逃してくれない。記憶の中の時間はデタラメに逆流する。



 ニナと二人、初めてこの屋敷に足を踏み入れたのは、梅雨が明けて初めての晴れた日だった。

 庭の緑は一年で一番鮮やかで、希望に満ちて輝いている。

 庭は寛大にわたしたちを迎え入れてくれた。

 わたしはクローバーの花輪を作り、ニナの頭に飾った。

 ニナはたんぽぽの茎で水車を作って、野苺で唇を染めた。

 花がそばにあれば、わたしたちはいつでも妖精になれる。

 ニナもわたしも、この屋敷を気に入った。

 噂されているような幽霊屋敷なんかじゃない、ここは魔法使いの庭だ。

 この土地の持ち主は知らない。もう何年も放置されたままのようだ。

 庭は手入れされることはなく、勝手に生命力の強い植物が蔓延っている。

 花は、盛大にはしたなく咲いていた。

 わたしたちは忍び込む子供を追い出し、門扉に新しい錠前をつけた。

 恐る恐る水道の元栓を捻ると、奇跡のように水が吹き出した。

 キッチンも浴室も使える。

 それだけでわたしたちは抱き合って喜んだ。

 屋敷の中はとりあえず使えそうな場所だけ掃除をして、クロゼットにあった着られそうな服とカーテンとテーブルクロスを洗濯した。

 そうするとずいぶん、部屋の中は清潔に見えた。

 荒れた庭はそのままにしておいた。人目から隠してくれるような気がして。

 実際、夜に見るとその生い茂った植物はかなり不気味だった。まるで、屋敷を守るみたいに。

 雨樋に座るガーゴイルはその光景を気に入っているように思えた。

 庭で花を摘んでいるとき、近くを通りかかったおじさんが、君らはこのお屋敷のお嬢さんかい、と訊ねた。

 わたしたちはできる限りの品のいい笑顔を見せ、屋敷の中を掃除するのを条件に、夏休みの間だけ友達と一緒に暮らすことを許されたのだと答えた。

 嘘が通用したのかどうかわからない。

 おじさんは笑って去って行った。

 そうして、ニナと暮らし始めた。

 わたしたちはそのとき、十七歳だった。

 食べものはパントリーにあった保存食を少しずつ大事に使った。

 粉類や砂糖、缶詰めバターは豊富にあったから、後は手持ちのお金で卵と牛乳を買い足して、パンケーキやスコーンを作った。

 庭にはハーブやベリー類も植わっている。

 以前ここに住んでいた奥さんは、お菓子を作るのが得意だったらしい。

 キッチンにはたくさん、お菓子の型とスパイス、それに手作りらしいジャムがあった。

 使いかけのものは黴びていたけれど、密閉されている分は無事だった。

 変なにおいもしなかったから、わたしたちはありがたくいただいている。

 クレソンとレタスとラディッシュはニナが種を買ってきて植えた。

 どれも割と簡単に食べられる状態まで育ってくれる。

 それに、クレソンとレタスは摘んでもまた新しい葉を収穫できる。

 ニナはクレソンとレタスに敬意を表すと言い、新芽に向かって小さな声で歌を歌った。

 わたしたちは満たされていた。ただ、暮らしていることのすべてが愛しくて幸せだった。

 屋敷の中はお伽話みたいだ。わたしたちは、二人共がお姫様で侍女だった。

 ここで暮らし始めた日のことを思い、わたしは溜め息をつく。あの頃だって不安でいっぱいだった。

 でも、今わたしの中で渦巻く不吉な雲に比べれば、それは懐かしくさえ思える。

 わたしは水を飲む為に身を起こし、椅子にかけた編みかけのクロッシェを手にした。

 羊毛のふわふわした感触は今の季節には似合わないけれど、その柔らかさに尖った気持ちが宥められる。

 ライラックみたいな綺麗な色。この部屋の衣装箱の隅で糸をいくつか見つけたのだ。きっとニナに似合う。

 彼女に内緒で編んでいるケープはもうすぐ完成する。

 編みかけのケープを胸に抱くと、少し埃のにおいがする。

 でき上がったら一度水を通したいけれど、どうやったらニナに見つからないだろう?

 他愛のない悩み。わたしたちにはたくさんの小さな悩みがある。

 ほくろの位置、髪を上手くカールできないこと、爪の形が悪い、猫舌。

 そんな些細な不満をいちいち口に出しては溜め息をつく。

 本当の不安が押し寄せる前に。

 わたしは眠る前に手を胸の前に組んでお祈りする。

 本当の作法は知らない。

 ただ、強く願うだけ。



 ニナも、私も、怖い夢を見なくてすみますように。

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