第6話 ママとわたし、そしてバーバ・ヤガー

 すみちゃんが話してくれたことは、呆気ないくらい普通のことだった。でも、すみちゃんにはそれが耐えられなかったのだ。すみちゃんを傷つけた事実は、まだすみちゃんを苛んでいる。もう終わるべきだと思うのに、まだ。

 ママからの夜の電話に、ニャオを抱きながら暗い声で出たら、ママが心配した。

「大丈夫?」

「うん」

「そっちは楽しい?」

「すっごく楽しい!」

「ならよかった。雪は本ばっかり読んで宿題を忘れるところがあるから、間に合いそうにないって落ち込んでるんだと思った」

「……え?」

「……ん? どうした?」

「ううん。何でもない」

 ママとは何食わぬ顔で雑談を交わし、電話を切ってからわたしは大慌てですみちゃんを呼んだ。

「すみちゃん! 大変!」

 すみちゃんは風呂上がりのパジャマ姿で走ってきた。ニャオはびっくりしてとっくにわたしの腕から逃れ、部屋の隅からこちらを見ている。

「どうしたの?」

「宿題! あと一日しかないのに何にもやってない!」

 すみちゃんが目を丸くした。わたしは本当にママの言った意味で落ち込んでしまった。すみちゃんがわたしを慰める。

「とりあえずー、寝るまでにちょっとやろっか」

「わかった……」

 わたしはカラフルなオレンジのリュックサックから宿題のプリントの束と教科書を取り出した。すみちゃんはわたしにつき合って、夜の十時まで宿題のわからないところを教えてくれた。

     *

 宿題が終わらなくて困っていた。もうママが迎えに来る日だ。今は昼の二時。すみちゃんときたら植物の世話にたっぷり時間をかけるから、わたしもそれにつき合ってしまって時間が二時間消失してしまっていた。おまけに朝のデッサンにも三十分つき合ったから、焦りが止まらない。

 すみちゃんは仕事を早めに切り上げてわたしの宿題を手伝ってくれた。答えは教えてくれないけれど、すみちゃんは意外に算数の教え方が上手だ。

「ママは何時に来る?」

「四時かな」

 それを聞いたわたしは必死になって宿題をやった。そのお陰で、宿題はママが来る十分前に終わった。多少埋まっていない解答欄があっても、もうどうでもいい。

 チャイムが鳴った。わたしとすみちゃんは大急ぎで玄関に出た。ママは相変わらず濃いめのメイクと都会的なファッションでそこに立っていた。お馴染みの人のはずなのに、この家では違和感があった。でも、とても懐かしい。ママは、わたしのママだから。

「宿題終わったー?」

 ママは疑わしげな顔をした。わたしは焦りながらも大きくうなずいた。

「本当に頑張ってたよー。ねえ」

 嘘の下手なすみちゃんがそわそわしながらママに言う。ママはすみちゃんをじっと見て、次にまあいっか、と表情を緩めた。

「お姉ちゃん、ありがとね。雪、楽しいって昨日言ってたよ」

「本当ー? よかったー!」

 すみちゃんが大喜びした。

「わたしも仕事が一段落したし、今週はご飯もちゃんと作ってあげられそう」

 ママはにこっと笑った。ママの笑顔は艶やかだ。わたしは結構好きだったりする。

 ゆっくりしていると家に帰るのが遅くなってしまうので、ママはわたしを急かして荷物を持ってこさせた。すみちゃんが台所に引っ込む。それからママにジャムの瓶を渡した。

「え、何これ。すごい」

 ママが持っている瓶は、バナナジャムの瓶と、大きいほうのぶどうジャムだ。わたしは驚いた。小さいほうの瓶をくれると思っていたから。

「ぶどうのジャムとバナナのジャム。雪と一緒に作ったんだよ。ねー」

 すみちゃんはわたしに笑いかけ、わたしも調子を合わせる。

「ありがとう。お姉ちゃんが雪にそういう体験をさせてくれるの、本当に嬉しい」

「ううん。わたしも楽しかったから」

 すみちゃんはにこにこ笑う。足元にニャオを巻きつけて。

 車に乗り込み、庭を出る。夕暮れの庭は植物を暗く見せ、得体の知れない魔女の庭、という感じだ。すみちゃんが手を振ってくれている。こちらが見えなくなるまで、ずっと。

 寂しいなあ、と思う。あっという間だった。もっといたかった。

「伯母さんは元気だった?」

 ママが運転席から訊いた。わたしは、うん、と答える。

「伯母さんは雪と相性いいみたいだからね。時々送り込んであげるんだよ」

「えっ」

 ママは忙しいからすみちゃんの家にわたしを預けるのだと思っていた。

「そしたら元気出るでしょ? 伯母さん、時間がずっと止まってるから、雪を送り込んでるうちに元気にならないかと思ってるんだよ」

 ママは多分、わたしが知っているということを知らない。でも、ママは続ける。

「一応妹だからね。励まさないとね」

 独り言のような言葉を、わたしは聞く。すみちゃんは、元気になってくれただろうか。時間は、少しでも動いただろうか。わたしはすみちゃんからたくさんの感動をもらった。わたしもすみちゃんを嬉しい気分や楽しい気分にしたい。

 国道は、草ぼうぼうだ。茜色の空の下に金色の稲穂が揺れる。田舎に引きこもる、わたしの伯母さん。すみちゃんは絵本の中のバーバ・ヤガーのように、子供がいなくなってほっとしていないだろうか?

     *

 すみちゃんが日本に帰ってきた。まずうちに寄り、それから家に帰るのだそうだ。わたしは中学校の制服を脱ぎ捨て、大慌てで普段着を着る。ニャオが足元でそわそわしていて、きっとすみちゃんに会いたいのだろうと思う。

ささやかなマンションの玄関で、ベルが鳴った。わたしは急いで走る。

「ただいまー」

 すみちゃんは相変わらずの薄いメイクで、見上げるほどではないけれど長身で、服装も地味だ。でも、お土産らしい大きな荷物を抱えていて、大きなリュックサックを背負っている。ニャオが興奮気味にすみちゃんを呼ぶ。自分からは来ない。そんな猫なのだ。すみちゃんは心得たもので、ニャオのところに駆け寄り、抱き上げていた。ニャオが満足げに喉を鳴らす。

「ルーヴル美術館はどうだった?」

 わたしが訊くと、「最高!」と答えた。

「人は多かったけど、絵は一つ一つが素晴らしくて、ずーっと見いっちゃった。怪しい人になっちゃうくらいじっと見てたよ」

 わたしは笑った。すみちゃんらしい。

 今日はママが遅く帰る日で、すみちゃんと会えるのはわたしだけだ。すみちゃんはニャオをうちに預けていたのだ。それを引き取りにきたということだ。ニャオは一週間ぶりのすみちゃんに甘えまくっている。ずっとごろごろと鳴いていて、うるさいくらいだ。

 すみちゃんはしばらく居間でわたしが淹れた紅茶を飲み、土産話をしてから、電車の時間になったと立ち上がった。

「ありがとうねー。ニャオも雪のお陰で落ち着いてたみたい」

「そう? 大暴れだったけど」

 わたしの部屋の小物はことごとくニャオに床に落とされていた。すみちゃんは豪快に笑った。

「ごめんごめん。まー、元気で何よりってことで」

 あれから何年か経ってから、すみちゃんがママに「ニャオを預かってほしい」と言った。理由を訊くと、「スミソニアン博物館に行きたい」と言って、わたしたちはびっくりした。すみちゃんは近所の高田さんに庭の手入れを一週間頼み、あとはニャオを預かってくれる人を見つけるだけだと言っていた。驚きつつも快諾し、すみちゃんはアメリカに旅立った。それから明るい顔で帰ってきて、半年後にカナダに、更に半年後に台湾のお祭りに出かけた。そして今度のフランス旅行だ。すみちゃんは今、人生を楽しんでいる。

 時間が、動き出したのだ。

 すみちゃんは明るい顔で帰っていった。「うちにもまた来てよね」と言いながら。

 すみちゃんは相変わらずあの田舎町でのんびりと暮らしている。最近、近所の人と婦人会の旅行に出たと言っていたが、近所の人とはうまく距離感が掴めるようになったらしい。いいことだ。

 小さなころのように、すみちゃんが作ったジャムやパンが食べたいと思った。あの頃のことが懐かしくてたまらなかった。

 今度、ママと一緒に行こうと思った。きっと、すみちゃんは大喜びして迎え入れてくれるだろう。そして、相変わらずいい魔女なのだと思う。

《了》

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わたしのバーバ・ヤガー 酒田青 @camel826

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