第5話 バーバ・ヤガーの真実
翌日は、香ばしい匂いで目が覚めた。ニャオが自力で引き戸を開いたらしく、畳の部屋にはわたし以外誰もいない。慌てて朝の支度を始めた。すみちゃんも、わたしに朝食の準備を手伝わせてくれていいのに。
台所の横の洗面所に入る前に、すみちゃんがいるらしい台所内を覗く。ニャオがキャットフードを急いで食べるときの、カッカッカッという皿が動く音がする。すみちゃんは冷蔵庫の横にある大きめのオーブンを見つめていた。
「すみちゃん、何作ってるの?」
そう訊くと、すみちゃんはにっこり笑った。「パン」と一言、こちらにトスするような言い方をする。
「パン? すごい! すみちゃんはパンも作れるんだ!」
すみちゃんは照れ笑いをする。そして一冊の古い本を見せる。どうやらパンの作り方の本らしい。
「作り方、覚えきれてないから全然すごくないよー。さあ、もうすぐ焼けるから顔洗ってきなよ」
すみちゃんが促すまま、わたしは洗面所に向かう。わくわくして、眠気はすっかり醒めていた。できたてのパンなんて、パン屋で買ったもの以外食べたことがない。
大急ぎで準備を済ませ、台所に向かう。オーブンのブザーが鳴り、すみちゃんはその縦に開く扉を開いた。途端に、熱気と蒸気と香ばしい匂いが押し寄せてきた。すみちゃんは厚手の調理用グローブを装着し、鉄の天板を半分取り出してトングでパンをどんどん大きなお皿に盛り始めた。大きな輪っか状のベーグルが六個。キツネ色に焼けて、色だけでも食欲を刺激してくる。
そうか、昨日ジャムを作ったからパンを焼いてくれたんだ。わたしはやっとそう気づいた。すみちゃんだって仕事があるはずなのに、何て優しいんだろう。
「熱いうちに食べよう。雪、ベビーリーフのサラダ作ってよ」
やっと仕事が与えられてほっとした。でも、ベビーリーフはすでに摘んでシンクに置いてある。それを軽く洗い、すみちゃんお手製のローズマリーのドレッシングを出して振っておき、すみちゃんはハムとゆで玉子とマヨネーズを合えたものをシンクの横から持ってきた。ようやく朝食が始まる。いただきますを言い、わたしたちはまずベーグルに昨日の余りのジャムをつけた。
「おいしーい」
「ホントだね」
わたしの言葉にすみちゃんが間髪入れず同意する。熱いくらいのパンに冷たいぶどうジャムをつけると、その香ばしさやら甘さやら果物独特の酸味やら、口の中が色々なおいしさで混乱するくらいのところに更に幸せな気分が押し寄せてくる。よだれが出すぎて困ったので、わたしはお茶も飲まずにパンを次々と食べた。バナナジャムをつけてもおいしい。すみちゃんが今日作った玉子サラダを載せても塩加減が絶妙で食が進む。
結局六つあった大きなベーグルは二つになってしまった。すみちゃんとわたしで二つずつ食べてしまったからだ。
最後にサラダをむしゃむしゃ食べ、わたしたちの朝食は終わった。
「すみちゃん、天才!」
わたしの言葉に、すみちゃんは、えへへと笑った。
「雪にとって楽しい三連休になるように色々計画練ってたんだけど、どうしてもこういう地味ーなことばっかりやっちゃうね」
「地味じゃないよ」
わたしはびっくりして言った。この素晴らしいもてなしの、どこが地味だと言うのだろう。
「すみちゃんはすごいよ。植物だって全部元気だし、食べ物に手をかけて丁寧に暮らしてるし、絵も描けるし。わたし、すみちゃんは魔女だって思ってるんだから!」
ついに言ってしまった、と自分で呆気に取られてしまった。すみちゃんが魔女、というのは自分の中での設定だとわかっている。すみちゃんが魔女のように一人で引きこもりがちに過ごしたり、薬草とされるハーブをたくさん育てたり、何でも作り出せたり、絵を描くときに魔術めいた迫力を出すことは確かだ。でも、わかっているのだ。魔女なんてこの世にいないと。いるとしたら、それはただの孤独で人に知られない才能がある人くらいで、それを大袈裟に評価しているだけなんだと。でも、わたしはすみちゃんを魅力と魔力のある魔女だと思ってしまう。頭では違うとわかっていても。
すみちゃんはぽかんとした顔でわたしを見た。
「魔女?」
わたしは慌て出した。手を大袈裟に振って、違うの、違うの、と繰り返し、とうとう黙ってしまった。すみちゃんはにっこり笑った。
「どんな魔女?」
「……優しくて、才能があって、魅力がある……」
すみちゃんは声を出して笑った。わたしはその笑い方が冗談を聞いたときのもののように感じられ、動揺した。
「ありがとう。嬉しい」
すみちゃんはにこにこ笑った。わたしはほっとして言葉を発しようとしたが、すみちゃんの次の言葉でそれは忘れてしまった。
「でもわたしは、そんなんじゃないよ」
*
すみちゃんの部屋で、昨日図書館で借りた本を読む。「モモ」はよく読んだらわたしが苦手な近代化が進んだ時代に書かれた作品で、少し残念だった。「狼王ロボ」に取りかかり、昼になるころには読み終えてしまった。迫力があって、狼のロボの気持ちが伝わり、共感してしまう。時計を見る。まだ十時半だ。仕方なく、再び「モモ」を読み始める。
せかせかとした時代の作品が、わたしは苦手だ。すみちゃんが普段しているように、ゆったりと時間が流れる児童文学はとても好きだ。「モモ」はゆったりと暮らしている人々が、時間に追われて心を失っていく様を描いていく。主人公のモモだけは心を失わず、人々から心を奪う時間泥棒に対抗するのだ。段々面白くなってきた。ファンタジックな部分が、この作品を救っていると思う。昼食の時間になり、すみちゃんと共に料理をして食べる間も忘れられなくなってしまった。後片付けをして、すみちゃんと共にアトリエに戻ると、わたしは「モモ」を大急ぎで読んだ。早く読まないと結末が逃げてしまいそうだ。
読み終えて、わたしはほうっと息をついた。素敵な読書体験だった。まるでその世界にいたようだった。時間泥棒が、すぐそこに息を潜めているような錯覚が起きた。「モモ」はすみちゃんの暮らしをますますいいものとして思わせてくれた。わたしも大人になったらすみちゃんみたいにゆっくりと余裕を持って暮らそう、と。
すみちゃんは相変わらず絵に熱中していた。わたしはすみちゃんに声をかけた。でも、気づいてもらえなかった。
昨日見つけた写真を探した。球体関節人形の写真の下をめくる。黄色い画鋲はあった。でも、写真はなかった。
*
「すみちゃん、『モモ』、面白かったよ」
仕事を終えたすみちゃんに、わたしは興奮気味に話しかけた。すみちゃんはにこにこ笑い、
「色々現実にあるものに当てはめちゃうようなことが書いてあるよね」
と答えた。わたしは「モモ」のいいところをたくさん挙げた。ファンタジー、勇敢な子供、斬新な敵……。中でもすみちゃんを大いに肯定していると思う、時間に追われないゆったりとした暮らしのよさを説明した。すみちゃんはうなずき、こう言った。
「わたしはそんな大したものじゃないよー。ただここで好きなように暮らしてるだけ」
「それでも、すみちゃんっていいなと思うよ」
「そう? わたしは、自分がそんなにすごいとは思わない」
「すみちゃん」
わたしはたまらず不安定な声を上げてしまった。すみちゃんがびっくりした顔をする。
「どうして自分のことそんな風に言うの? すみちゃんはすごいよ。手作りのパンなんて、わたし食べたことなかった。家庭菜園で作ったベビーリーフも、初めて食べた。すみちゃんが育てるハーブはみんないい匂いだし、バラの花もきれい。絵を描くときはちょっと怖いけど、すみちゃんの絵にはすごい力があるよ。どうしてそんなに自分のことを悪く言うの?」
目が潤んでしまった。すみちゃんは大慌てでわたしの肩に触れて少し屈んだ。
「ごめん! ごめんね。ついそういうこと言っちゃうの。褒めてくれて嬉しいよ。ただ、どう答えていいかわからなくて……」
「わたしはすみちゃんのこと大好きだよ。すごい伯母さんだって思うよ。友達に自慢してるもん。わたしの伯母さんは魔女だって」
「魔女なんだね。ありがとう。雪にとって魔女はいい魔女なんだね」
「うん。本当は魔女なんていないってわかってる。そんなの現実にはいないんだ。大袈裟に言ってるだけだって」
すみちゃんは一瞬考える顔をし、「ちょっと待ってて」と隣の寝室に入った。ごそごそと音がして、しばらくしてからすみちゃんは本を一冊持ってきた。それからその本のラベンダー色のしおりが挟まった部分を開き、見せてくれた。
「今も魔女はいるんだよ。タロットをして占って、悩みごとのある人を助けてる。薬草を色々使って、近代医学では治せないような症状を和らげることをやったりもしてる」
「本当? でもタロットって迷信でしょ?」
「この本ではね、この魔女は人の気持ちを読むのが上手で、聞き上手なんだって。タロットで言葉を引き出して、聞いてあげる。それだけで気分がよくなるらしいよ。それって充分魔術だし、魔女の行いなんじゃないかな」
わたしは目の前がぱあっと開ける気分になった。魔女はいるのだ。それはよくテレビで見る手品のような魔法ではないし、大袈裟なものではないけれど。
「じゃあ、すみちゃんはやっぱり魔女なんだ」
「そうかもしれない。昔魔女だと呼ばれた人たちは、孤独で孤立した人が多かったって言うから」
はっとした。それはわたしも本で読んだことだ。すみちゃんは少し寂しそうに笑った。
「写真、見たでしょ?」
「うん」
わたしはばつが悪い思いでうなずいた。すみちゃんは目を逸らし、こう言った。
「あの人、わたしの恋人だったの」
美大時代、すみちゃんは初めて恋をしたそうだ。相手は、優しくて穏やかで才能ある男の人。話が合って、よく美術館などに一緒に行くようになって、四六時中一緒にいるようになって、恋人になったらしい。その人は優しかった。とても。
「ドアを開けてくれるし、料理を作ってごちそうしてくれるし、デートの下調べもわたしよりきちんとしてくれる。わたし、本当に好きだった」
一年くらい経って、その人は大学院に進んだ。すみちゃんはイラストレーターの駆け出しとして、画廊に作品を売り込んだりしていた。生活がすれ違ってしまった、とすみちゃんは言った。
「いつの間にか、わたしからしか連絡を取らなくなったの。彼は会っても上の空で……。ある日、別れようって言われた。別の人と結婚するからって」
ショックで、二年ほど本当の引きこもりになってしまった。実家に帰り、この部屋でずっと泣きながら過ごしていた。それから、段々と外に出るようになり、イラストレーターの仕事も再開し、細々と暮らすようになった。おじいちゃんとおばあちゃんがずっとここにいていいよ、と言ってくれたのだそうだ。
「ありがたかった。こんなわたしに居場所をくれた。だから、わたしはここに住んでるの。心は、まだこんなに苦しいけど」
わたしはすみちゃんの淡々とした言葉を聞きながら、涙の筋が頬を伝うのを感じた。すみちゃんはわたしを見て、また「ごめんね」と慌てた。
「話しておこうと思って。気になってたみたいだから」
「すみちゃんは、まだ辛いんだね」
わたしは涙混じりに訊いた。すみちゃんはうなずく。
「でも、わたしはすみちゃんのこと大好きだよ。本当に。すごい伯母さんだもん。自慢だもん」
すみちゃんの目からも涙が溢れた。どんどんこぼれて、とまらない。
「ありがとう」
すみちゃんは震える声で言った。
「わたしも雪が大好きだって言ってくれてることを自慢にする」
それから、すみちゃんは自分の顔をぐいっと袖で拭くと、わたしの顔をティッシュで丁寧に拭ってくれた。
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