第4話 バーバ・ヤガーとジャム作り
「雪、梨食べる?」
帰りの車の中、突然すみちゃんが訊いた。わたしは一瞬考え、梨が好きなのでうなずいた。すると、すみちゃんは車のスピードを緩め、道路の左側にある小さな一軒のプレハブ小屋のある敷地に入っていった。周りは全てと言っていいくらい金色の稲穂が揺れる田んぼだ。こんなところに果物屋があるのかと、怪しく思ってしまうくらいだ。道路側ではのぼりがはためいていて、産地直売などの文面や、梨のイラストが踊っている。すみちゃんはその敷地の隅に、キッと音を立てて少し斜めに停めた。
プレハブ小屋には金属の看板が横にくっついていて、「産地直売梨・ぶどう」とペンキでシンプルに書かれている。どうやら地元の果物農家が育てた果物を買えるお店らしい。
「この店、今の時期しか開いてないんだよ」
と言いつつ、すみちゃんはお店の引き戸を引く。先に車が二台停まっていたのでわかっていたことだが、先客がいた。農作業に適したような上下のグレーのつなぎを着たおじさんが、熱心に梨を選んでいる。お店には、山積みになった様々な種類のパック詰めのぶどうと、ざるに山盛りの大きな梨が台の上に載っていて、奥に手拭いを被って首の後ろで結んだ格好のおばさんが立って「いらっしゃいませ」と笑いかけた。
「あっ、寿美子さん」
先客のおじさんがふと顔を上げてすみちゃんを見た。すみちゃんは「こんにちは、高田さん」と笑った。高田さんはわたしに目を移した。わたしはぺこりと頭を下げる。
「その子は?」
高田さんがすみちゃんに訊いた。わたしは頭を下げたのに挨拶を返してもらえなかったことに少し憤慨したが、大人なんてこんなものだ、と思い直してお店のおばさんを見た。おばさんは「こんにちは」と言ってくれて、切った梨を勧めてくれた。
「妹の佳代子の娘なんですよ」
すみちゃんがにこにこ答える。
「姪っ子か。たまにはいいでしょ、誰かが家にいると」
高田さんはすみちゃんに笑いかけた。意外に人懐っこそうだな、と思う。すみちゃんはうなずき、
「そうですね。雪は年齢のわりに落ち着いてるし、庭の手入れやら何やら、色々手伝ってくれて助かります」
と答える。高田さんがまたわたしを見る。感心そうな声で、「手伝いをするのか、いい子だなあ」と言った。少し得意な気分になった。高田さんに笑いかけ、わたしは梨をしゃり、とかじった。甘くて瑞々しい。口の中に甘い汁気が一気に広がる。それをごくんと飲み干し、「おいしい!」と声を上げる。店のおばさんが嬉しそうに笑みを深めた。
「おいしいでしょ。今年は雨が多かったから、汁気が多いのよ」
「じゃあ、これにします。三個ください」
すみちゃんがおばさんに言った。おばさんは、ありがとうございます、と袋に梨を詰め始めた。高田さんも梨を頼んでいた。驚いたことに十個も頼んでいる。家族が多いのだろう。
「寿美子さん、何かあったらうちや近所の人に言ってくれよ。庭の木の枝を切るくらいならおれもやったげるから」
高田さんがすみちゃんににっこり笑った。すみちゃんはにこにこしたまま「ありがとうございます。いつも助かってます」と答えた。
わたしたちと高田さんの梨の支払いが済むと、高田さんは帰っていった。すみちゃんはうなり始めた。どうしたのかと思ったら、ぶどうのパックを眺めている。
「すみちゃん、ぶどうほしいの?」
わたしが訊くと、すみちゃんはうなずいた。
「でも梨買ったしなあ。量的に食べられるかどうか。ぶどう、結構するし」
「あのう」
お店のおばさんがすみちゃんに声をかけた。すみちゃんはおばさんを見た。おばさんはにこにこ笑った。
「ジャムなんてどうですか? ぶどうのジャム」
「えっ、贅沢ですね」
すみちゃんは気後れしたような顔をした。すみちゃんはあまり裕福ではない。ぶどうをジャムにするなんてもったいないと思っているのだろう。
おばさんは後ろのほうからぶどうのパックを取り出した。
「これ、底のほうの実が潰れてるでしょう? 半額にしたら売れるかしらって、主人と話してたんです。ジャムにしたらおいしいですよ。すっきりした味になるので」
すみちゃんはまたうなり出した。しばらくうなり、それから「二パックください」と言った。おばさんはにこにこ笑い、「ありがとうございます」とパックを袋に詰め始めた。一パックにつき大粒のぶどうが二房だ。ジャムとしてどれくらいの量になるのかわからないが、ささやかなすみちゃんの暮らしにはちょうどいい量だろうと思う。
すみちゃんはほくほくした顔で店を出た。わたしも、ぶどうのジャムを作るのが楽しみでならなかった。
*
すみちゃんが器用に梨を剥いてくれた。ママがりんごや梨を剥くときは、八つに割ってから芯を切り出し、皮に包丁を入れていく感じなのだが、すみちゃんはくるくると機械のように梨一個を剥いていく。最後に八つに割るところは同じだ。わたしはしゃりしゃりと梨をかじる。梨一個一個やかじる場所によって味が違うのは面白い。すみちゃんもおいしそうにかじる。これは当たり、これは外れ、と言い合いながら、二人で二個分の梨を平らげた。ニャオに梨を勧めたが、鼻をふん、と鳴らして部屋の隅に行ってしまった。
「すみちゃんさあ、皆に優しくしてもらってるね」
わたしがふと言うと、最後の梨を口の中でもごもごさせながらすみちゃんが手を止めてこちらを見た。
「都築さんのおばあちゃんとか、高田さんとか、皆すみちゃんを大事にしてくれてる」
「わたしが独り者だから、気を遣ってくれてるんだよ」
すみちゃんが明るく言った。それからもの思わしげに遠くを見つめる。
「本当は、モクレンの木は自分で脚立使って伐れるし、わたし、そんなに近所づき合いって得意じゃないんだけどね」
「じゃ、どうして田舎に住んでるの? 田舎って近所づき合いが多いでしょ?」
実際、ママはそれがわずらわしいからこっちに住まなかったのだ。そういう人は多いと思う。すみちゃんは考える。
「やっぱり自然がたくさんあるし、庭で色々育てられるのは大きいかな。それにわたしは、長女だから。近くにある雪のおじいちゃんおばあちゃんのお墓を守らなきゃいけないしね」
よくわからない考えだ。長女だと、家についての責任を負わなければならないということだろうか。わたしなら、自由気ままにどこへでも行きたいのに。
「近所の人もね、悪い人たちじゃないからわずらわしいことがあっても平気だよ。四六時中構ってくるわけじゃないもん」
「じゃあ、すみちゃんはここから出てどこか遠くに行きたい、なんてことないの?」
すみちゃんはじっと考えた。頭の中で色々な遠くの国や場所が巡っているだろうことはわかった。すみちゃんは、「カナダ、フランス、ニューヨーク、桂林……」とつぶやき、また沈黙した。最後に出た結論は、呆気なかった。
「うん、どこにも行かなくていい」
「本当?」
わたしはびっくりして身を乗り出した。すみちゃんは、「植物の世話があるもん。行かないよー」と笑った。わたしは何だかやるせない気分になった。すみちゃんは、どこにでも行っていいのに。
「そんなことより、夕飯の準備の前にジャム作ろうよ。早くしないと潰れた分が悪くなっちゃう」
すみちゃんは立ち上がった。わたしはもやもやした気分を引きずりつつ従う。それから梨が載っていた皿を持って居間から台所に向かう。
広い台所だ。一人で使っているなんて信じられないくらい。おばあちゃんのためにおじいちゃんが作った台所らしい。シンクも横の作業台も広く、冷蔵庫置き場は狭くて最近の冷蔵庫は収まらないらしい。冷蔵庫は別の壁際に置いてある。すみちゃんはそこからさっきのぶどうのパックを取り出し、ジャム作りの古い本を持ってきて調べ始めた。「甘さは控えめがいいなー」なんて言いながら。
わたしはきれいな状態の上のほうのぶどうを二、三粒、つまみ食いした。濃厚で甘さの刺激が強いくらいだ。とてもいいぶどうだった。すみちゃんに怒られはしなかった。すみちゃんも食べていたからだ。
すみちゃんはわたしに戸棚からグラニュー糖を出させて、量らせた。それからレモン汁の瓶を確認し、テーブルに置いた。それからわたしたちはひたすらぶどうの実を二つに割り、竹串で種を取り出した。いつまでも終わらなくて退屈したが、すみちゃんは絵を描いているときのような集中力を発揮してわたしよりたくさんのぶどうから種を取った。
下ごしらえの済んだぶどうを中くらいの鍋に入れ、グラニュー糖をまぶす。しばらくしてグラニュー糖によって汁が出てきてから、すみちゃんはコンロの火を点けた。
「わあっ、いい匂い」
わたしが言うと、すみちゃんも鼻をひくひくさせた。ぶどうの渋味と甘味と酸味が思い出され、口の中で広がって、よだれが出てきそうな香りだった。
「いい香り。さあ、ジャム瓶を煮ようか」
すみちゃんが新しい大きめの瓶一つと小さい瓶二つを持ってきて、蓋を外して大鍋に入れてコンロの火を点けた。びっくりしていると、「瓶も殺菌するんだよ」とすみちゃんは笑った。わたしはその間もまだそのままの形のぶどうをかき混ぜ、すみちゃんを見ていた。すみちゃんは五分ごとにわたしと交代し、わたしたちはジャムが焦げつかないように気をつけた。いい香りは台所中を満たした。ニャオはこの匂いが嫌らしく、交代のときに行ってみたら、居間の隅で香箱を作っていた。
ぶどうの形が崩れ、透明な中身と濃い紫の皮が解け合って、皮の色に染まってきた。心なしかかき混ぜるへらごしにとろみを感じる。わたしがかき混ぜる横で、すみちゃんが浮き上がった皮だけボウルにすくい始めた。ぶどうも少しだから当然なのだが、皮の量はとても少なかった。すみちゃんはブレンダーを甲高い音で鳴らしながら皮を砕く。それからまた皮を鍋に戻す。
ぶどうは、最初の鍋の状態から半分くらい減っていた。熱気で、汗が出た。すみちゃんの額も汗で光っていた。
火を止め、すみちゃんがレモン汁を鍋に入れた。段々とろみが増え、ジャムは完成した。先に大鍋から取り出して乾かしておいた大きめの瓶と小さい瓶一つに、目一杯注ぐ。余った分はお皿に入れ、中身の詰まった瓶をまた煮る。こうすると瓶が密封されるらしい。
それからわたしたちはぶどうジャムの匂いが充満した台所で、今度はバナナジャムを作った。元々あったバナナに、少量のグラニュー糖を混ぜて煮込み、レモン汁を加えるだけ。こちらはぶどうジャムより手間がかからなかった。これも小さい瓶に詰める。バナナジャムは日持ちしないらしい。早く食べないとね、とすみちゃんは言った。
お皿に注がれたまだ温かい余り物のぶどうジャムとバナナジャムを、わたしたちは焼いたトーストを小さく切ったものにつけて食べた。濃厚で、できたてのほんのりした温かさがたまらない。ぶどうジャムもバナナジャムも、酔っぱらいそうなくらい果物の甘さがあった。
夕飯がお腹に入らなくなるので、二人でトースト一枚を平らげてからは、お皿のジャムは片づけた。瓶のジャムは常温で冷やすことになった。すみちゃんはわたしが帰るときにジャムを持たせてくれるらしい。それがとても楽しみで、わたしはうきうきした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます