放命権

 黒板に最後の数式を書いたと同時に、四限の終わりを告げるチャイムが鳴った。


「よし、じゃあ、今日はここまで。号令お願いします」


 俺の指示を受け、号令係が号令を掛ける。制服を来た少年少女は疎らに頭を下げ、あいさつをする。それに続いて、俺も軽く頭を下げ、教室を後にした。


 なんてことのない、いつもの光景。俺はとある公立高校で数学の教師をしている。教師になって三年。教師に成りたての頃は毎日が新鮮で、やること成すこと、全てが楽しく思えていた。だがしかし、そんな日々は長くは続かなかった。度重なる研修と、生徒との関係づくりの難航。そして、生徒の保護者から日夜送られて来る要望という名のクレーム。そんな毎日に俺は嫌気が差してきていた。


「新藤先生。今日もコンビニ弁当ですか?若いからって、あんまり自分の体を過信するのも良くないですよ」


 職員室に戻り昼食を取っていると、先輩の先生から注意を受けた。


 俺だってそんなことは分かっている。最近では幾ら寝ても体の疲れが取れないし、車での通勤に慣れたせいか、少しの階段でも息が上がるようになっていた。学生だった頃に比べて、自分が老いたことくらい、自分が一番分かっている。


「今度はちゃんと、自分で作ってきますね」


 そう言って、適当に愛想笑いを浮かべた。






 放課後の職員室。俺はとあるネットニュースをパソコンで見ていた。そこに書かれていたのは、「120歳の男性、遂に生命更新止める」というものだった。「生命更新を止める」というのはつまり、「放命権」を行使したということだ。


 放命権とは、我々人間に平等に与えられている権利の一つで、「生存権」と対になる権利のことである。簡単に言ってしまえば、「死ぬ自由が保証される」というものである。つまり、この120歳の男性は生きることよりも、死ぬことを選んだのである。「生命保証制度」が実施されて以降、人間は何十年だろうと生き続けることが可能になった。そんな世の中で、この男性は遂に長きにわたる人生に終止符を打ったのだ。


「120歳か。よくもまあ、そんなにやることがあったな。さぞかし、充実した人生だったんだろうな」


 記事を読み終えると、俺はそんなことを呟いていた。






 そんなある日、一通の封筒が送られてきた。送り主は高校の時の同級生で、今でも連絡を取り合っている比較的仲の良い友人だ。何かと思い中身を確認すると、そこに入っていたのは、結婚式の招待状だった。そこには幸せそうな表情を見せる友人と、これといって美人ではないが、人の良さそうな女性が写った写真も同封されていた。招待状のメッセージを読んだ俺は、堪らずそれをゴミ箱に投げ捨てた。


「あああ!!何なんだよもう!!」


 自分より先に結婚するという友人に腹が立ったのか。それとも、自分の現状に嫌気が差したのか。明確な理由も分からず、俺はただ、必死に頭を抱えていた。






「先生って、何か趣味とかあるんですか?」


 帰りのホームルームが終わり、生徒が開放的になる頃、俺はとある女子生徒に話し掛けられていた。


「先生の趣味?うーん、特には無いかな」


 これまで二十数年生きてきたが、これといった趣味が無いことをこの時初めて自覚した。それまで、何となく過ごしたせいか、夢中になれるものが何一つとして無かったのだ。こう言っちゃなんだが、勉強だって好きじゃない。スポーツもたまにテレビでやっているのを見るくらいだ。音楽も、芸術も。趣味といえるものが俺には無かったのだ。


「先生って何か、機械みたいですよね」


 目の前の少女は悪びれる様子もなく、面と向かってそう言ったのだ。仮にも君の目の前にいるのは教師なのだぞ。そう口にしたくなるほど、その言葉は強烈なものだった。


 「機械みたい」。それはつまり、俺には人間味が感じられないということなのだろう。そんなことを他人から言われてみろ、誰だって傷付くぞ。それで傷付かない人間こそ、それこそ機械だろう。少女にそのように言われ傷付いた俺は、少なくともその点に於いては人間らしいと言えよう。そんなことより、何故この女子生徒は俺にそんなことを言ったのだろうか。


「そうかな?」


 俺は自分でも分かるくらいの引き攣った笑みを浮かべてそう答えた。


「だって、先生の授業って何か機械がやってるみたいで面白くないんですよね。それに、先生って他の先生に比べて無愛想じゃないですか。だから、何か機械っぽいなあって」


 今どきの若者はこれ程までに物事をはっきり他者に伝えるのか。そう思える程、この女子生徒は随分はっきりと物言いをしてきたのだ。正直、逃げ出したい気持ちで一杯だった。それもそうだろう。生徒にそんなことを言われるような教師など、教師として失格も当然ではないか。そんな大人が、どうして子供たちの前で教鞭を執ることが出来ようか。


「だから先生、もっと笑ってみてくださいよ。おばあちゃんが言ってましたよ。人生笑ってれば幸せになれるって」


 笑っていれば俺もあいつと同じように結婚できるのか。笑っていれば、俺も120歳で亡くなったあの男性のように生きている意味が見い出せるのか。腐りきった俺の心はそんなことしか考えられなかった。


 その後、俺に伝えるべきことを伝えた女子生徒は、俺に挨拶をして俺の前から去って行った。一体、何がしたかったのだろうか。わざわざ俺に言う必要のあることだったのだろうか。それとも、単に俺のことをおちょくっているのだろうか。若い先生はよく女子生徒からからかわれると、先輩が口を酸っぱくして言っていたのを思い出す。ただ、俺に分かることは、何の理由もなく笑うなど、俺には出来ないということだ。


 その夜、俺はお笑いの動画をネットで見ていたが、何の感情も生まれなかった。






 それから数日が経ったある日こと、担任しているクラスのある生徒が連日欠席していることが妙に気になった。元からクラスの輪には入らず、友達とわいわいしているような生徒ではなかったが、ここ最近、それが著しく感じられていた。まさかと思い、俺はその日の放課後にその生徒の自宅を訪問することにした。


 すると、迎えてくれたのはその生徒の母親だった。リビングで話を聞くと、数日前から様子がおかしくなり、遂には部屋から出てきてくれなくなってしまったというのだ。その話を聞いた時、俺は何故か共感してしまった。いや、それよりも、俺はこの生徒を羨ましいとさえ思ってしまった。クラスに馴染めないという理由で学校を休み、終いには部屋に閉じこもってしまったのだ。出来ることなら、俺だってそうしたい。


「先生、うちの子と話をしてくれませんか?」


 我が子のことが心配で堪らないのだろう、こんな俺に話をしてくれと頼んできたのだ。立場上、ここで断る事も出来ない俺は、必死に体裁を取り繕い、その子の部屋の前まで案内してもらった。そして、二人で話がしたいと伝えると、お母さんは黙って頷き、一階のリビングに戻って行った。


「急に訪ねて悪いな。俺だ」


 鍵が掛けられた扉の手前。ここに立った瞬間、俺は本来やってはならないことをした。それは、教師であることを辞めたのだ。


「俺な、正直お前が羨ましいよ」


 俺は、取り繕うことなく、本音を告げた。すると、部屋の中から返事が返ってきた。


「先生何言ってるの・・・?」


 突然の俺の発言に戸惑いを隠せないというような返事だった。それでも、俺は続けた。


「お前はさ、どうして今そこにいるんだ?」


「そんなの・・・、学校に居場所が無いからだよ・・・」


「でも、お前にはその部屋という居場所があるよな。俺はな、それが凄く羨ましいんだ」


「先生、家無いの?」


「そういうことじゃない。自分を守れる何かがあるというのが、純粋に羨ましいんだよ。お前はさ、何で人間は生きてるんだと思う?」


 俺は思わずそんな質問を投げ掛けた。


「分からないです・・・」


 当然と言えば当然の答えが返ってきた。


「俺はさ、生きる意味を見出すために生きてるんじゃないかなって思うんだ。だから、お前が分からないと言った、それで俺は正解だと思うんだ」


 俺はいつの間にか、自分のあまりにも下らない人生論を語り始めていた。


「でもさ、よく考えたら別に無理して生きる必要って無いんだよな。お前にはまだ無いけど、大人になるとさ人間には「放命権」って言う権利が与えられるんだよ。お前も公民の授業で習っただろ。それってつまりさ、人っていつ死んでもいいってことなんだよ。だからさ、無理に生きてく必要って無いんだよね。今の世の中ってさ、手続きをしただけで何年も生きていけるだろ?それってさ、凄いことなんだよきっと。だって、誰も死を恐れてないんだから。昔の人はさ、自分がいつ死ぬか分からない恐怖を抱えて生きてきたんだよ。俺も感じたこと無いから分からないけどさ。でもさ、それってきっと自然な事なんじゃないかな。人って、死んで終るじゃん?今はさ、生きたいだけ生きて、満足したら死ねるじゃん?つまり、何が言いたいかっていうとさ、別に、無理して生きる必要って無いんだよね。こんな事をお前に言うのは間違ってると思うけどさ、俺も人間なんだよ。俺今さ、自分って何なんだろうなって凄く思うんだ。お前達はさ、未来に向かって頑張ってる訳じゃん。お前だってそうだよ、だって、これまでは学校に来てた訳だろ。でもさ、俺はもう何も無いんだよね。だってさ、いつだって終わりに出来るんだぜ。芸能人とか、周りの人とかさ、みんな何年も生き続けてるけど、俺はそんな人達が凄いって思うんだよね。だって、生き続けるだけの何かがここにある訳でしょ?俺にはそんなものがないんだもん。夢中になれるものだって無い。教師という職だって、ただ何となくやってるような、そんな人間なんだぜ。そんな人間にあれこれ言われてお前もそろそろうんざりしてると思うだろうからこれで終わりにするけど、お前にはこんな人間になって欲しくない。何もかもが自由な今の社会で、お前には本当の意味で自由であって欲しい。何もまとまってない話でごめんな。別に無理して学校来いとは言わないから、何かあったら学校も頼ってくれよ。じゃあな、俺もう帰るな」


 何を言っているんだろう。何故俺は、こんなことをこの子の前で話してしまったのだろう。全てを口にした後、俺は酷く後悔をした。







 その数週間後、全員揃った教室では相変わらず数学の授業が行われたという。






 「生存権」。それは「人間が人間らしく生きる権利」。


 では、「放命権」とは一体どんな権利なのだろうか。

 



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生きる権利と、死ぬ権利 新成 成之 @viyon0613

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