易水
結局、李左車は
一行は燕との国境付近の
かすかに震える伸びやかな歌声に聴き入るうち、不思議と李左車の心は静まり返っていくようだった。
──風、
壮士ひとたび去って復た還らず
どこか聞き覚えのある歌詞が、心に沁み入っていく。目の前を流れ行く易水のように、旋律は朔風に乗り静かに流れていった。
「見事なものだ」
女人が歌い終えると、自然と李左車の口から感嘆の声が漏れた。
女人は振り返ると、透き通るような白い顔にかすかな笑みをうかべ、一礼した。
「たしか、荊軻のことを歌ったものであったか」
「仰るとおりです。かれはこの河のほとりで送迎の者に別れを告げ、秦へと向かいました」
女人の顔に、どこか寂しげな影がさした。荊軻を直に知るものだろうか。
「私は、これから
「どちらからいらしたのですか」
「
「燕は、これからどうなるのです」
女人は憂いを含んだ声で問うた。李左車はつとめて穏やかに話す。
「案ずるな。漢は虎狼の国ではない。漢と燕が戦うことにはならないだろう」
虎狼の国とは秦のことだ。漢はすでに滅びた秦の轍を踏んではならない。戦を仕掛けて諸国の恨みを買ってはならないのだ。あくまで交渉で事を決するため、李左車は荊軻のたどった道を逆に辿り、ここまで赴いたのだ。
「ほんとうに、戦は避けられるのですね」
「そのために、私はここまできたのだ」
「それはようございました。私の師も、燕の民が憂いなく暮らせる世を望んでおりましたから」
「そなたほど見事な歌を歌う弟子を育てたのなら、その師はさぞ高名な者だったのだろうな」
「ええ、今はもう、この世にはおりませんが」
それは誰なのか、と李左車が問うことはなかった。女人が空を見上げたのにつれ、李左車も自然と首を持ちあげた。雁の群れが錐の形を作り、蒼穹の中を北へと飛んでいく。ふたたび、女人は歌いはじめた。祈りにも似た歌声を背に聞きつつ、李左車は雁が空の果てへと消えていくのを眺めていた。
井陘落日賦 左安倍虎 @saavedra
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