敗軍の将

 結局、陳余はその日のうちに勢いづいた漢軍に攻め立てられ、捕らえられた。

 韓信は河のほとりで陳余の首を刎ねたあと、決して略奪をしないよう部下に厳命すると、井陘せいけい城に入城した。韓信の後ろを進む李左車は、漢軍が厳正な軍規を保っていることにおどろいた。


(すでに民の心まで掴んだか、韓信)


 馬上から井陘の民の顔を眺め、彼らの表情が恐れから安堵に変わってゆくところを李左車はみた。この時代、戦に勝った側は戦場での略奪を許されている。それをしないだけでも、韓信はかなり上等な部類の将といえた。


 陳余の邸宅に入った韓信は不思議なことに、李左車を上座に据え、師弟の礼を取った。李左車は困惑を隠せない表情で、


「韓信殿、なぜ私を斬らぬのか」


 と言った。韓信はかしこまった表情を作る。


「広武君の策でこの城を取れたのに、斬ることなどできましょうか」

「しかし、私は生き恥をさらすつもりなどない」

「なぜ、生きていることが恥なのです」

「私の策を逆用されて、趙は破れたのだ。私は責任を取らなくてはならない」

「死ねば、責任を取ったことになるのですか?」


 韓信はまっすぐに李左車を見据えた。本気で李左車が何を言っているのかわからない、という様子だった。


「敗れたものを皆殺すのなら、我等は項羽となんら変わりません。たとえ敗者であろうと、ともに生きることを目指しているのが漢なのです。貴方のような有為な人材ならなおさらのこと」

「趙を滅ぼしたこの私がなんの役に立つというのだ」

「趙が破れたのは貴方のせいではなく、成安君の責任です。貴方は最後まで成安君を信じたというまでのこと」

「なぜ、成安君がこの城を出るとわかったのだ」

「成安君は、追い詰められている私を見れば今こそ武功を立てる好機だと思うでしょう。貴方が私を討つところを黙ってみているはずがありません」

「しかし、私は韓信殿が別働隊にこの城を攻めさせるつもりだと警告しておいたのだが」

「貴方がそう忠告することもわかっていました。そして、そう言えば、成安君は貴方が手柄を独り占めしようとしていると考えるであろうことも」

「ああ……」

 

 李左車はしばらく言葉を継げなくなった。韓信は自分よりも正確に、陳余の器を測っていた。沈痛な面持ちで黙り込み、しばらく呼吸を整えてからようやく声を発した。


「──そこまで読んでいたのであれば、やはり私には最初から勝ち目などなかったのだな」

「我々のほうが少々狡賢かった、というだけのことですよ」

「仮にそうであったとしても、負けは負けだ」

「しかし、広武君の策を聞かなければ、私は今ここにはいなかったでしょう」

「なぜ、私が裏切ったふりをしているとわかったのだ」

「勘、でしょうかね」

「勘か」

「人が嘘をついているかどうかは何となく伝わるものです。やはり、貴方の顔を見に来てよかった」

「なるほど、そういうことか」


 韓信のように、将軍自ら従者に化けて敵将に会いに来るような大胆さは自分にはない。これで勝てるはずはない、と李左車は思った。


「しかし、私が生きていて役に立てることがなにかあるだろうか」

「将軍には、私の師父となっていただきたい」

「なんと」


 李左車は目を丸くした。敗軍の将を師と仰ぐなど、聞いたことがない。


「趙の事情は、誰よりも貴方がよくご存知でしょう。それに、漢は降伏した者も重用すると評判になれば、我が漢につく国も増えるではありませんか」

「そこまでおわかりなら、私も役に立てるかもしれない」


 李左車はようやく首を縦に振った。国を失った今となっては、この男のもとで趙の役に立つしかない、と思い定めた。


「将軍は、今この趙には何が必要だと思われます」

「まずは兵の休養が必要だ。しばらく戦をやめ、戦死者の追悼を行い、民の力を養うことこそが肝要。漢が天下を欲するなら、無名の師を興していると思われてはならない。今後、漢軍はしばらく兵を用いないほうがいいのではないか」

「私は今後燕を攻めるつもりでしたが、それではいけませんか」

「それでは趙の兵を疲弊させるだけでなく、燕の民も危険にさらすことになる。かつて秦に追いつめられた燕が何をしたか、将軍も知っていよう」

「なるほど、私もこんなところで刺されるわけにはいきませんからね」


 韓信は深く納得した様子だった。かつて燕は秦に荊軻けいかという刺客を送りこみ、秦王を亡き者にしようとしたという。韓信が燕を攻めようとすれば、再び荊軻のようなものが現れないとも限らないのだ。


「兵を用いずして勝つことこそ上策。漢が敗者の趙を厚遇したと喧伝すれば、諸国は漢になびくだろう」

「しかし、本当に戦わずして燕が我が漢に降るでしょうか」

「念を入れるなら、漢と戦っても決して勝てない、ということも伝える必要があろう」

「どうすればそれが可能でしょうか」

「韓信殿が鮮やかな奇策を用いてこの井陘せいけい城を乗っ取った、と吹いてまわればよい。漢は到底太刀打ちできる存在ではない、と思わせるのだ」

「しかし、それでは……」


 嘘をつくことになる、と韓信は言いたそうだ。こういうときの韓信は、ひどく子供じみた表情になる。


「韓信殿、何が本当であるかなどこの際大事なことではない。ほんとうに大事なのは、燕の戦意を喪失させることだ」

「貴方の働きは知られずともよいのですか」

「敗軍の将が影で何をしたかなど知っても仕方がない。韓信殿には、誰も思いもつかない奇策を繰り出す名将でいてくれなければ困る」

「でも、私は貴方の策を借りただけなのに」

「いつまで駄々をこねておられるのですか。皆が望む姿を演じることも一軍の将たるものの務めですぞ」


 脇に侍る蒯通かいとうに言われ、韓信は萎れたようにうつむいた。まるで師に叱られて縮こまる生徒のようだ。


「どうせ貴方の功名を宣伝するなら、なにかこれという言葉がほしい。韓信殿、今回の戦いを象徴するような作戦名は何かないだろうか」

「作戦名、ですか」


 韓信はひどく神妙な顔つきで考え込むと、


「──背水の陣」


 そう、低く呟いた。そして慌ててかぶりを振った。


「いや、これはいけません。川を背負ったから勝てたのではなく、あくまで成安君の油断を誘えたから勝てただけのことで……」

「よいではないか。背水の陣、それでいこう」


 李左車が言うと、韓信は照れたように少し顔をそむけた。


「漢の大将軍韓信は、あえて兵を死地に置く背水の陣で趙の油断を誘い、兵を城からおびき出した。川を背にした兵は必死に戦い、かえって趙軍を苦戦させた。死地を逆に活かすその発想はとても常人の及ぶところではない──とでも吹いてはいかがか」

「どうもかなり誇張が含まれているようですが」

「それでよいのだ。燕が戦意をなくしてくれればそれでいい」

「そんなものでしょうか」


 韓信は少し首を傾げていたが、やがて一言、


「わかりました」


 と短く言った。その様子に苦笑しつつ、蒯通が口を開く。


「燕の説得には私が参りましょう。隣国の趙がよく治まっている様子を説いて聞かせれば、燕も無駄な抵抗はしないのではないかと」

「いや、使者ならばむしろ私のほうがふさわしかろう。韓信殿が敗者をどのように扱ったかを、この身をもって示すことができるのだから」


 目を見張る蒯通を前に、李左車は続ける。


「私が燕を説いて、漢と戦うよう仕向けるとお疑いか」

「いえ、決してそのようなことは」

「燕は敗軍の将の扇動になど乗らない。安心されよ」


 李左車が笑みを作ると、韓信もつられたように笑った。翳りのない、良い笑みだと李左車には思えた。

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