背水

「ならば、この井陘せいけい城を落とす策をお教えしよう。まず韓信殿にはこの河の前に陣を敷いていただく」


 李左車は机のうえに地図をひろげると、井陘城の西を流れる河を指さした。


「しかし、それでは兵を死地に置くことになりますが」


 蒯通かいとうの伴の者が、はじめて口を開いた。茫洋とした風貌の割には鋭いところがあるようだ。


「ほう、そなたは死地の意味を知っているのか」

「この者はいささか兵法に通じております。おかげで道中も退屈せずにすみましたよ」


 蒯通は大柄な男を一瞥すると、視線を李左車に戻した。


「ここに兵を置くのは、成安君をおびき出すためだ。成安君も川を背後に背負うのが不利であることは知っている。確実に勝てると見れば、成安君も全軍を率いて追って来よう」

「しかし、それでは水際に追い詰められて負けるだけではありませんか」


 供の者は不思議そうに李左車をみつめた。李左車は男に向き直り、声に力を込める。


「この策はここからが肝心なのだ。川を背負えば、韓信は兵法を知らぬと侮った成安君が井陘せいけい城を空にしてでも追ってくる。その隙に、漢の別働隊を間道づたいに走らせ、井陘せいけい城を占領すればよいのだ。戻る城を失った趙軍の士気は地の底まで落ちる。そこを漢軍と我が軍が協力して叩けばよい」

「なるほど、お見事な策です」


 伴の男が声に感嘆をにじませた。わずかに頬も上気している。


「しかし、本当にそううまく行きますかな。もし成安君が追ってこなければ、この策は成就しませんが」


 蒯通は顎に手を当てつつ、少し考え込む素振りをみせた。


「だからこそ、全力で負けたふりをすることが肝心になる。まずは私が出撃し、韓信殿と戦うので、漢軍には陣太鼓も打ち捨てて逃げていただこう。本当に潰走したと見せかけなければ、成安君は出てこない」

「全力で芝居を打つというわけですね」

「そういうことだ。成安君に怪しまれないよう、私も本気で追撃する」


 李左車が語気を強めると、伴の男が愉しげに笑った。


「何をそんなに嬉しそうにしている」

「広武君のお考えを直接うかがう機会など、あるとは思わなかったものですから。これで成安君はもう滅びたも同然でしょう」

「喜ぶのはまだ早い。成安君を井陘城から出すことができなければ、死ぬのはそなたの方なのだぞ」


 それこそが李左車の策だった。陳余には決して城から出ないよう忠告した上で、死地に兵を置いた韓信を自ら討ち取ればいい。漢が別働隊を出してきても、井陘城に残った陳余に返り討ちにされるだろう。


「それなら心配はありますまい。成安君は必ず城を出てきます」

「なぜそう思うのだ」

「なんとなく、そんな気がするだけです」


 伴の男の言葉に李左車は妙な胸騒ぎを覚えたが、その気持は心の奥に押し込めた。


「それでは、私は急ぎ漢軍の軍営に戻り、この策を将軍に伝えます。貴方のご無念、我が漢が晴らして差し上げましょう」

「最後に、ひとつお願いがあるのだが」

「なんなりと」

「陳余の首は、この私に取らせていただきたい。あの男だけは、この手で始末してやらなければ気がすまない」

「もちろんですとも。広武君のお力添えあってこそ、我が漢は成安君を破れるのですから」


 蒯通が満足しきった様子の笑みを浮かべると、李左車は軽く鼻を鳴らし、片頬を歪めた。なるべく昏い笑みを作ったつもりだった。


(韓信は、私の提案に乗らざるをえない)


 そう、李左車は読んでいた。韓信軍が趙軍によりはるかに少ない兵で趙に進軍してきた以上、勝つには李左車の提案を受け入れるしかない。奇策を用いなければ、井陘城を取ることなど叶わないからだ。


「陳余は、その身で我が兵法の真価を知ることになろう」


 言い終えると、自然と顔がほころんだ。蒯通の童顔を眺めつつ、せいぜい今だけいい気になっているがいい、と李左車は思った。




 ☆




「あれを見よ。韓信とは聞きしにまさる愚か者だ。川を背後に背負うとは、兵法の初歩すら知らぬと見える」


 李左車が一万の兵を前に声を張ると、兵の間から笑声が湧いた。井陘せいけい城の西には、二万ほどの韓信軍が陣を敷いている。軍の間に林立する赤い旌旗が、北風を受けてはためいていた。対峙する李左車軍は、歩兵の左右に騎馬隊を配し、左翼の騎馬隊を李左車が率いている。


(我が騎馬隊があれば、たとえ倍する軍でも破れる)


 趙は武霊王が胡服騎射を取り入れて以来、強力な騎馬隊を養成している。北辺では騎馬民族の匈奴ともしばしば戦ってきた趙軍はその戦法も取り入れ、中華ではもっともよく騎馬の運用法を知る国となっている。

 李牧は、しばしば趙の北辺をおびやかした匈奴を破った。その李牧の兵法を受け継ぎ、趙の騎馬隊を率いる李左車は韓信に負ける気がしなかった。しかも今、韓信は自ら兵を死地に置いている。


(これで、負けろという方がおかしい)


 李左車は、韓信が別働隊に井陘城を襲撃させるつもりであることを、あらかじめ陳余に話している。陳余が井陘城を動かなければ、韓信に勝機はない。陳余が城壁から見物しているあいだに、李左車は韓信を討ち取るつもりでいた。


 戦は、李左車の弓兵隊が矢を射かけるところからはじまった。

 放物線を描き飛来する矢を、韓信軍は盾を構えてしばらく防いでいたが、やがて恐れをなした様子で退却していった。李左車の周囲の兵からは嘲りの声が飛ぶ。


(それでいい)


 もちろん、これは打ち合わせ通りの動きだ。矢の応酬すら恐れて退却した、と見せかけるつもりなのだ。逃げ続けて時を稼げばいずれ陳余が城を空にして追ってくると韓信は思っているはずだが、それだけは実現しない。


 李左車は中央の歩兵に韓信軍を追わせた。兵力で劣っていても、逃げる敵を追う側は有利となる。練度の優れた趙軍はすぐに韓信軍に追いつくと、激しく干戈を交えはじめた。韓信軍の兵はしばらくは抵抗していたものの、すぐに押され気味になり、盾や矛すら打ち捨てて我先に逃げ出す兵が続出していた。


(人は、演じた通りのものになるのだ)


 潰乱する韓信軍を、李左車は馬上から満足気に眺めやった。たとえ演技であっても、逃げているうちに兵は怖気づくものだ。兵力の不足を追跡する側の士気の向上で補う作戦は、見事に当たった。


「我に続け。一気に方をつけるぞ」


 李左車は自ら騎馬隊を率い、潰走する韓信軍を追った。韓信軍の大部分はすでに隊列を乱しており、軍隊の体をなしていない。多くの兵はどこまでも逃げようとするが、すでに目前に川の流れが迫っていた。


「ここが貴様の墓場だ、韓信」


 李左車の騎馬隊は逃げ散る兵を矛先で次々と屠り、馬蹄のもとに蹂躙し、辺りに死の暴風を巻き起こしていた。李左車が矛を振るうたびに血風が巻き起こり、緑の下草が血で染め上げられていった。李左車隊の餌食にならなかった兵のなかには川の流れに身を投げ、そのまま流されてしまうものもいる。

 一方的な殺戮が続く中、ひときわ目立つ羽飾りのついた兜をかぶっている一騎が目に入った。その男の周囲の十数人の兵だけが、果敢に李左車の兵と戦っている。明らかに雑兵とは違う精鋭だ。


(あれが韓信か)


 李左車はそう直感すると、急いでその大将をめがけて突撃した。この手で韓信を討ち取れれば、陳余も私を認めるだろう──という期待が、まだこの時の李左車の胸にはあった。


「韓信殿とお見受けする」

「貴殿は?」

「李牧が孫、李左車」


 その名乗りに恐れる風もなく、韓信らしき男は馬を飛ばしてまっしぐらに李左車めがけて駆けてきた。堂々たる体躯と精悍な表情には、さすがに一軍の大将らしい風格がある。男の繰り出した刺突を李左車が首をひねってかわすと、熱風が頬の脇を吹き抜けていくように感じられた。


(これは、股潜りなどではない)


 一個の屹立する武人の姿がそこにはあった。何度も矛を交えるうち、男の腕前が尋常なものではないことがわかった。しかし十合、二十合と戦ううち、次第に男の手元に乱れが生じてきた。


(さすがに疲れているか)


 川を背にして戦い続けたせいか、男の矛の勢いはおとろえ、ついに李左車に矛を叩き落されてしまった。続いて李左車が矛の柄で胸を突くと、男の身は地面に投げ出された。


「なにか言い残すことはないか、韓信殿」

「敗軍の将に言い残すべきことなどない」

「私に嵌められたことを恨まぬのか」

「最後まで気を抜かぬほうがよいぞ、李左車殿」


 男は唇の端を吊り上げた。この期に及んで何を言うか、と李左車が矛を振り上げたその時、肩口に鋭い痛みが走った。


「ぐっ──」


 李左車の右肩に矢が突き立っていた。矢の飛来した方に目を向けると、馬上で悠然と弓を構える男の姿があった。その隣には、蒯通かいとうが影のように従っている。


「お前は、あの時の」


 その男は、蒯通かいとうが伴として連れてきた男だった。茫洋とした見かけのくせに、妙に兵法に通じていたその男の姿は強く印象に残っていた。


「少々、時を稼がせていただきました。あれをご覧ください」


 男が指さした方角からは、群雲のような大軍が押し寄せていた。方方に「陳」の字を刺繍した旗がはためいている。李左車の胸の中に、濃い霧のような絶望がひろがった。


(なぜ、今頃になって成安君が……)


 漢の別働隊が襲撃してくるから井陘城を決して離れてはいけない、とあれほど念を押したではないか。なぜ、私の忠言に耳を貸さない。血が出るほどにきつく唇を噛むうち、やがて陳余の軍の中から悲鳴があがった。


「あれを見よ!井陘が奪われてしまった」


 遠く井陘城を見やると、城壁には漢軍の赤い旌旗が立ち並んでいた。陳余の軍勢は大混乱に陥り、にわかに攻勢に転じた韓信軍に次々と追い散らされていった。李左車はがくりとその場に膝をつくと、力なくうなだれた。


「──私の負けだ、韓信殿」


 韓信は馬を降りると、李左車の前で身をかがめ、


「貴方は私に負けたのではありません。成安君に足を取られただけです」


 そう、静かに言った。李左車は何も言い返すことができなかった。


「皆の者、李左車殿をお守りせよ。この方は我が漢の恩人だ」


 そういった後、韓信は何事か周囲の者に命じていたが、李左車の耳には目の前を流れる川の音ばかりが残り、他になにも聞き取ることができなかった。

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