策謀

 その翌日、蒯通かいとう井陘せいけい城で陳余と面会していた。陳余は蒯通を一目見るなり椅子から立ち上がり、大仰な仕草で両手をひろげた。


「おお、蒯先生ではないか。よくぞおいでなされた」


 立派な口髭を蓄え、上背のある陳余は上辺はいかにも君子にみえる。しかし、この雄大な体躯のなかの脆弱な部分をこれから揺さぶってやる、と蒯通は心中で密かにほくそ笑んだ。


「さあ、こちらへ参られよ。先生とは積もる話もある」


 陳余は蒯通を上座へと座らせた。こうした鷹揚な振るまいだけは板についている。


「昨日は井陘の街をしばらく歩きましたが、さすがによく治まっている様子。貴方の徳がすみずみまでゆきわたっていると見えます」

「私がこの地にいられるのも、全て先生のお働きあってのこと。先生にそう仰っていただけるのならば、私としても本望というもの」


 蒯通は、陳余とその親友である張耳ちょうじが秦末の混乱に乗じて范陽はんように攻め込んだとき、攻撃を恐れている県令を安心させるため改めて范陽の県令に任じるべきだ、と説いた。この策が功を奏し、趙の三十余城はまたたく間に降伏した。戦が得手ではない陳余は、内心胸を撫で下ろしていたものだ。


「しかし、私の心はどうにも晴れないのです」

「なにか、この地にご不満でも?」

「いえ、そうではないのです。この地がよく治まっているからこそ、この井陘が漢の手に渡ってしまうことが無念でならないのです」

「はて、どうも腑に落ちぬことを言われる。我が趙は精兵二十万を擁しており、韓信など物の数ではない。我が軍が韓信を破るのは、壁が卵を圧するほどにたやすきこと」

「恐れながら、成安君はわかっておられません」


 蒯通は静かに頭を振り、言葉を続ける。


「韓信の率いる兵は少数なれど、彼は国士無双と讃えられる英傑にございます。いかに趙の兵が精強であるとはいえ、これを打ち破る奇策が彼の者にないとは考えられません」

「あの股くぐり風情に何ができよう」

「ああ、そのように敵を侮っておられるからこそ危ういのです。広武君も嘆いておられましたぞ」

「なに、李左車が?」

「はい、広武君は貴方が頑なに韓信の才をお認めにならないことを危ぶんでおられました。このままでは趙が滅びるのをこの目で見ることになってしまうと」

「広武君がそんなことを……」


 陳余の顔に怒気が立ちのぼった。あとひと押しだ。


「広武君は、趙を守りたいなら二十万の兵すべての指揮権をこの私に与えるべきだともおっしゃっていました。李牧の兵法を受け継ぐ自分こそが、趙兵をもっともよく使いこなせるのだと」

「本当に、そんなことを申したのか」

「広武君は少々お酒を過ごされていたゆえ、抑え込んでいた本音が出たようです」

「ふむ……」


 陳余は渋面を作ると、腕組みをして考え込んだ。陳余の心の柔らかい部分がついに露出したように、蒯通には思えた。


「私も広武君同様、趙の行く末を憂えるものでございます。いかがですか、広武君に全軍の采配を任せてみては」

「先生は、この私では韓信に太刀打ちできないと言われるのか」

「信頼できる者にすべてを任せるのも、主君の度量にございます」

「はは、今回ばかりは先生も臆病風に吹かれているご様子。韓信ごときを恐れるとは、先生ほどの御方でもときに人を見誤るらしい」

「ですから、そのような油断こそがこの国を滅ぼすと申し上げているのです。どうか広武君をお用いなさいませ」

「くどい!もう下がられよ」


 拳を小刻みに震わせつつ、陳余は怒鳴った。蒯通は無言で一礼すると、そのまま退出した。


(愚か者め。自ら翼をもぎ取るか)


 もし自分が陳余なら李左車を使いこなして天下すら取れる、と蒯通は思っていた。陳余にそれだけの度量がないことを、今は感謝しなければならない。蒯通がこれから赴こうとしているのは、陳余の首に手をかけようとしている男の陣だったからだ。




 ☆




「やあ、待ちわびたぞ、先生」


 帰還した蒯通を出迎えるため小走りで本営から出てきたのは、どこか茫洋とした男だった。

 いつも少し背を丸めているため、長大な体格の割には威厳がない。将軍らしく威儀を整えようという気など、この男にはまるでないようだ。兜の派手な羽飾りも、どこか一兵卒に無理やり大将の格好をさせているようなちぐはぐさがある。


「で、どうだった。陳余とはどんな男だった?李左車は大人しく引っ込んでいてくれそうか?井陘の民の様子はどうだ?」

「質問は、一度にひとつだけにしていただきたいものですな」

「ああ、すまない。どうも知りたいことが多すぎてね」


 韓信は照れたように兜を叩いた。邪気のない笑みが、面長な顔に浮かんだ。


(まったく、これではただの孺子こぞうではないか)


 蒯通は苦笑した。まるでこの世界に生まれでたばかりの赤子のように、韓信は目に映るあらゆるものを知識として取り込みたがる癖があった。縦横家として韓信に仕えていた蒯通は、彼の求めに応じて持てる知識を韓信に授けた。

 驚くべきことに、韓信は一度聞いたことは決して忘れなかった。すべての知識がいつでも使えるように頭の中に配置され、韓信は日に日に将才に磨きをかけていった。昨日撒いたばかりの種が芽吹き、またたく間に大樹が育ち葉を繁らせる様を、目の前でみせられているようだった。


「ではひとつづつお答えいたしましょう。陳余は予想通り、つまらぬ男でした。かの者が李左車を重く用いることはあり得ないでしょう」

「なぜ、そう言える?」

「李左車の才能に嫉妬しているからです。李左者が武功を立て、己の名声を凌ぐ存在になることを恐れているのです」

「どうもよくわからない話だな。私が武功を立てても、漢王が私を恐れることなどありえないというのに」


 韓信は首を傾げた。本当に陳余の気持ちがわからない、という様子だ。


(だから、あんたは孺子こぞうだというのだ)


 韓信は間違いなく天才だが、人の心の機微に関する洞察だけは致命的に抜け落ちている。そこを補うのが自分の役目だと、蒯通は思っていた。


「で、李左車はその状況を黙って受け入れるだろうか」

「それは今後のこちらの働きかけ次第です。彼もまた兵法家なれば、陳余などよりも仕えがいのある主人を求めるかもしれません。将才のあるものは、存分に采配を振るえる場所を欲していましょう。うまくゆけば、我が漢に寝返らせることも可能ではないかと」

「それはそうだな。項羽が私の才をまるで買ってくれなかったからこそ、私は漢に仕える気になったのだし」

「そして井陘の民ですが、こちらの工作が功を奏し、陳余よりも李左車に尊敬を抱くようになっております。この下準備があればこそ、あの二人を離間させることが叶いました」

「なるほど、そういうことか。どうも先生は、私とは違う部分でものを考えているらしい」


 感心したように言うと、韓信は一人頷いた。


「おそらく陳余は今後、李左車を冷遇するでしょう。これでかなり我々も戦がやりやすくなりました。しかし、依然として趙の大軍に寡兵で挑まなければならないという状況は動きません。将軍にはなにか良い策がおありですか」

「ない」

「ない、ですって」


 さすがに蒯通も唖然とした。自分に矢継ぎ早に質問を浴びせたのは、次の一手を打つためではなかったのか。


「あくまで私の頭の中にはない、と言っているのだよ。何もかも自分で考えなければいけないというわけでもあるまい」

「では、どうするというのです」

「井陘城を落とす方法なら、李左車こそが一番よく知っていよう。彼の頭を借りればいいのさ」


 蒯通は韓信の頭の回転についてゆけない。蒯通が驚きに目をしばたいているうちに、韓信はくるりと彼に背を向けた。


「今回は、私も直に彼の顔を見てみるとしよう。何かいい知恵も浮かぶかもしれない」


 呆気にとられている蒯通を後に残し、韓信は足早に陣幕の中へと歩み去ってしまった。




 ☆




「今度はどのようなご用件かな、先生」


 少し面やつれした李左車が、再び自宅を訪れた蒯通と対面していた。蒯通は、今度はやけに大柄な伴を連れてきている。護衛なのだろうが、あまりものの役に立ちそうにも見えない。


「恐れながら、将軍もそろそろ身の振り方をお考えになったほうが良いのではないか、と申し上げたいのです」


 恭しく一礼した後、蒯通は滑らかに話しはじめた。


「身の振り方とは」

「この趙におられては、貴方の身に危険が及ぶやもしれません」

「そのようなことが」


 あるわけがない、とは言えなかった。陳余はすでに李左車の指揮権を削り、李左車は一万の兵しか動かせなくなっていた。その上、この一万で韓信を撃退せよと命じられていた。そんなに将才に自信があるのならその兵力で漢軍を退けてみせよ、ということだ。


「成安君の元では、あなたはその将才を存分に発揮することもできないでしょう。このまま、ここで朽ちてゆくおつもりですか」

「生きていれば、いずれまた功名を立てる機会も訪れよう」

「残念ながら、それは甘い見通しと言わざるを得ません」

「なぜ、そう思われる」

「成安君は、韓信の力を借りて貴方を始末するつもりなのではありませんか?」


 李左車は唾を飲み込んだ。あり得ない話ではなかった。李左車と韓信を戦わせて李左車が敗死したら、陳余が自ら兵を率いて弱った韓信を叩けば良い話なのだ。


「仮に成安君にその気がなくとも、一万の兵で韓信と戦うとなれば苦戦は必至。そのような状況に貴方を追い込んだ趙に、それでも仕える意味はあるのですか」

「我が李家は祖父の代より趙に忠誠を誓っている。今さら他に行く場所などない」

「漢に降られてはいかがですか」


 しばしの間、沈黙が場を支配した。やがて、李左車が絞り出すように声を発した。


「……先生は、漢の使者なのか」

「いつ切り出したものか迷っておりました。将軍はこの地におられるより、漢にその身を置かれたほうがその才を存分に発揮できるでしょう」

「漢王は人を大事にする、とは聞くが」

「今この趙を攻めようとしている韓将軍も、項羽に仕えているときは無名の存在でした。漢王がその才を見出したからこそ、今大将軍として采配を振るうことができているのです」

「そしてこの私の首に手をかけようとしている、というわけか」


 李左車が自嘲気味に笑うと、蒯通の伴の男が悲しげに顔を歪めた。


「ですから、そのようなことになる前に、漢に降られてはいかがかと申し上げているのです」

「そういうわけにはゆかない。成安君は私の妻子のために新しい邸宅を建てたと称してふたりを強引に呼び寄せ、私兵に周囲を見張らせている。私が漢に降れば、家族は殺されるだろう」


 李左車は吐き捨てるように言った。陳余はどこまでも小さい男だ。恨みを買うようなことをわざわざしておいて、それでいて李左車が裏切ることを恐れている。


「──では、こうしてはいかがでしょう。我らが示し合わせた上で、井陘せいけい城を落とす策を考えては」


 蒯通はささやくように言うと、いつも浮かべている笑みを消した。


(この機会に成安君に復讐せよというのか)


 とても、そんな気にはなれなかった。いくら陳余に愛想を尽かしてはいても、この趙を売り渡す気になどなれない。そもそもどうやってこの井陘せいけい城を落とせというのか──と、そこまで考えたところで、李左車の頭をある考えがかすめた。


(この状況を逆に利用すれば、たとえ一万の兵でも韓信を破ることができる)


 会心の笑みを浮かべると、李左車はおもむろに胸中の秘策を語りはじめた。

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