【特別読み切り】淋しき王は天を堕とす -千年の、或ル師弟-/守野伊音

角川ビーンズ文庫

特別読み切り




 人間の王には、人間神の懐で眠った百年の闇があった。

人間の王が、人の子であった最後のときより続く黒がある。それは夜ではなく闇だったと、人ではなくなった子どもは知っていた。闇は、憎悪で構成されていた。憤怒と嘆きもそこに確かにあったのに、それら全ては憎悪に包まれ、全ての熱量を憎悪へと変えた。憎悪が願いとなり、憎悪が力となり、憎悪が希望となり、憎悪が未来となった。

 天界が堕ちたあと、人間はその闇を忘れた。光を力とし、夢を希望とし、喜びを未来とした。解放に喜び、自由に涙し、脅威のない空に夢を見た。天人が空から落としていた影が消えたことに、全ての解決を見た。

 これでもう影は落ちないと、安堵した。何者もいなくなった空をほっと見上げた人間の足元には、人間が落とした影が広がっていたけれど、人間は気にも留めなかった。

 けれど、その闇は千年を経ても途切れず薄れず、永劫続いていくのだということを、王は知っていた。



 血を吐き出した唇が、次に吐き出す音は憎悪であるはずだった。そうであるはずだった。そうでなければならなかったのに。

『ルタ』

 いつも何も変わらぬ穏やかな口調で王の名を紡いだ女の命は、ぶつりと事切れた。

 王の手には、師である女の胸を突き刺した剣が握られている。剣の先から血が流れ落ち、また一つ、闇は濃くなった。



「おっはようございます、王様ー! 今日も寝起き悪いですね!」

 突然闇を切り裂いた光に痛む眼孔と、闇の余韻を切り裂く勢いが良すぎる声に、ルタは薄目を開けた。

「王様! 今日のご予定は如何致しましょう! 凄くいい天気なので、町に行ってみませんか!? それとも、朝一番の仕事として、朝っぱらから王様の掛布を引っぺがす無礼を働く私をクビにしてみるなど如何でしょうか!」

 潜り直せないようにしているのか、くるくると掛布を巻いて足元に纏めたアセビは、腰に手を当てて指を振った。大体いつも機嫌がいいアセビは、今日も今日とて機嫌よく、いかに自分がクビになるのにふさわしい人間であるかを熱心に説いている。

「……うるさい」

「クビですか!?」

「うるさい」

「あ、はい」

 ぴたりと黙ったアセビの肩越しには、カーテンを開け放たれた窓が見える。いい天気だと言ったアセビの言葉通り、綺麗に晴れ渡った青空が広がっていた。



 毎夜繰り返す夢がある。毎夜毎夜、千年間、一日も欠かさず。

 実際にあったことを、許されざる大罪を、繰り返し、繰り返し見続ける。

 眠りは毎夜必ず訪れる。変化はほとんどなく、疲労することも特別ないはずの日常で、深い眠りが必ず訪れるのだ。深く眠りすぎると夢も見ないと聞く。なのに、夢だけは欠かさず鮮明に。

『ルタ』

 毎夜、師を殺す。もう山のように積み重なった師が、師を刺し殺した剣が、闇を濃くし続ける。恨み言を聞ければよかったのだろうか。

『ルタ』

 そうすれば、師に殺される夢を見ることはできたのだろうか。

『ル──』



「おっはようございまーす、王様! 今日は雨なので、室内で読書日和ですね! ついでに、朝からうるさいこの私をクビにしてみては如何でしょうか!」

「……うるさい」

 今日は、太陽光という援護がないからか、掛布を剥ぐや否や激しく揺さぶってきたアセビを、ぶつ切りになった夢の違和感でじろりと睨む。しかしアセビは怯むことなく、逆にずぃっと顔を近づけてきた。

「王様って、寝起き悪いですよねぇ。ぐっすり眠れるのはいいことなんですが、朝起きれないんじゃ、ぐっすり眠れているとは言い難いのかもしれませんね」

 夢見がよかったことなど、人間であった数年の間にあったかなかったか程度のおぼろげな記憶でしかない。神の懐で眠った百年の闇は、王と闇の距離を近づけた。闇との距離の取り方を知らず、望んでもいない。師の夢を見なくなることを、望んでいるわけではないのだ。だから、眠りたくないと思ったことはない。師を殺すのではなく、師に殺されるのであればどれだけ喜ばしいかと、この期に及んで救いを求めるかのような思考がちらりと頭を過るだけだった。

 求めているのは救いではなく罰なのだ。なのに、師はそれすらも王に与えてはくれないのだ。師は、いつも、いつも、恨み言どころか憎しみの視線すら向けてはくれず、絶えていく。

『ルタ』

「王様―」

 一瞬蘇った夢の余韻は、能天気な声で蹴散らされる。

「夢見でも悪いんですか?」

「…………何故だ」

「ちょっとぼんやりしているみたいでしたか、ら、……はっ! 王様が、私とうるさい以外の会話を! ……え? そんなに夢見悪かったんですか?」

「うるさい」

「あ、はい」

 驚愕で仰け反っていた姿勢はあっという間に戻り、遠慮なく覗きこんでくる。

「いつも憂鬱そうに起きるので、少なくとも楽しい夢を見ているようには見えなくてですね。夢を覚えていない可能性もありますから一概に夢見が悪かったと言えるわけではありませんけど……はっ! 起きたら私と会わなければいけないのが憂鬱で!? それは確かに憂鬱ですねクビにしてください!」

「うるさい」

「ですよね!」

 何故か普段から隙さえあれば、隙がなくとも、如何に自分がクビにふさわしい人間かを熱弁して捻じ込んでくるアセビは、今日もクビにならずにがっくりと肩を落とした。

「……俺の夢見はお前の仕事の範囲じゃないだろう」

「何言ってるんですか、王様。仕事であろうがなかろうが、王様より大事なことなんてありませんよ」

 何を不思議なことを言っているのだと言わんばかりの顔で、アセビはきょとんとした。

「というわけで王様! 夢見が悪ければ好きな方と一緒に眠られたら如何でしょうか! どんな悪夢を見ても、目覚めたら目の前には好きな人! ほら楽園! 痛ったぁ!?」

 目を輝かせて楽園について語っていたアセビは、手刀を叩きこまれた脳天を両手で押さえ、悶えながら床に沈んだ。



 夢は今日も続く。千年続いた同じ夢を、王は見続ける。

 闇の中、血を流す師がくるりと能天気な姿に変わり。

『王様―!』

 嬉しそうに笑って、ルタを呼んだ。


『王様!』

 いつも、愚かしいほどに嬉しそうに呼ぶものだから、つい、口を開きそうになる。何か伝えたい言葉があるわけではない。伝えるべき言葉があるわけでもない。そんなものは、千年前に置いてきた。けれど、あまりに、いつだってあまりに嬉しそうに呼ぶものだから、何か伝える言葉があるのではないかと思ってしまう。

 けれど。

いつも自らのクビを推奨しながら浮かべる満面の笑顔のその下で、夜よりも深い闇がゆらりと揺れる。その影が自身の足元から伸びているのを見て、王は静かに口を閉ざした。



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