ニ十章 追躡

「わりぃな」


 謝罪の言葉は、森の暗がりに吸いこまれた。

 その男は、気絶させた厩番を木にもたせかけると、悪魔の牙のような大剣を背に担ぎなおした。

 やや興奮した三頭の驢馬をじっくりと眺め、やがて何かに気付いて、左端の一頭へ歩みよった。

 厩番を襲ったところを見ていた所為だろう、二頭は怯えて身をひいた。しかし選んだ一頭だけは、落ち着きこそないものの、逃げようとまではしなかった。耳をぱたぱた動かし、ゆっくりと瞬いた。


 俺の顔、憶えてるみてぇだな。


 驢馬の首を撫で親しげに叩くと、その男――ビルは笑った。


「いい子だ」


 和やかな光景を前に、他の二頭も幾分安堵したらしい。今度は近づいても逃げなかった。

 ビルは驢馬たちがどこへでも行かぬよう、木と驢馬を繋いだ。余った縄は腰に巻きつけ、最初に触れた一頭だけを連れて歩きだした。

 遺物堀が荒野へ行き来するための驢馬だった。用がない限りは、クルゲの里の厩舎で預かられているものだ。

 だが、驢馬たちには、とにかく大量の食糧が必要となる。一日になんども方々の草を喰い歩かせなければならない。ビルはその「散歩」を襲撃し、一頭の驢馬を手に入れたのだった。


 百と歩かぬ間に、ビルは立ちどまった。驢馬の目をじっと見つめ「待ってろ」と何度も首を撫でた。やがて、そのつぶらな瞳に落ち着きを見て取ると、灌木の群生した茂みの中へと入っていった。


 間もなくビルは一人の少年を見出した。

 少年は敷き詰められた枯れ葉を枕に寝息を立てていた。

 それだけで充分異様な眺めだが、何より奇異なのは、その風体だった。

 光に透かした蜂蜜のような金髪はともかく、そこから覗いた楔型の長い耳は、明らかに人族のそれではなかった。爪も異様に長く、体躯を抱いた落ち葉など毛皮のように見える所為で、一見すると横たわった獣のようだ。

 だがその顔立ちは、紛れもなく人のそれである。


「……ヴァニ」


 少年を拾ったのは、一月以上も前になる。

 オルディバルが崩壊したあの日だった。


 ビルは、ヴァニの身を案じ、独りオルディバルの許へ駆けつけていたのだ。


 そして見出したのが、満身創痍の体で、西へ向かう少年の姿だった。


 最初は、それがヴァニだとは気付かなかった。以前とは異なる姿をしていたから。

 それでも少年のあとを追ったのは、もはや理屈では説明しようのない衝動によるものだった。

 見逃してはいけない。見届けなければならない。

 強くそう思った。

 気付けば、長い道のりを歩いていた。

 時とともに、少年の足は軽やかになっていくようだった。ビルは疲労を蓄えていった。一方で、衝動の正しさが証明されていくような不可思議な感覚を味わっていた。


『おいッ!』


 やがて、その足が止まったのは、荒野へ辿り着く寸前だった。

 少年が突然、倒れたのだ。

 慌てて抱き起こすと、息はあった。どうやら気を失っているようだった。

 少年がヴァニだと気付いたのは、その時だった。

 顔立ちに面影があった。


 ビルは長い距離を、ヴァニを負って戻った。

 家にたどり着くと共に眠った。仕事にも行かず、献身的な介抱をつづけた。

 明日の生活を憂うことはなかった。ガンズに殴られる心配も過ぎらなかった。パイプを吹かしもせず、ただヴァニの身を案じた。


 なぜ目を覚まさないのか?

 そもそも目を覚ますのか?


 それだけを憂えていた。

 ヴァニを守らなければならなかった。

 そのように約束したからだ。

 スヴァルタールヘダを発った、あの日――に。


「お前は、俺が必ず守ってやる」


 ビルはヴァニを抱えあげ、驢馬の許へ戻った。

 驢馬の背中に少年を担ぎあげると、余った縄で驢馬と少年を固定した。


「よし、準備はできた。急ぐぜ」


 ビルは行進を再開した。

 何かから逃れようとするように。


 いや、実際に逃げているのだ。


 噂を耳にはさんだのは、昨夜。

 欠勤の続いたビルを心配し、遺物堀の仲間がやって来た。

 軒先で幾らか言葉を交わし、いよいよ話題も尽きかけた頃、ふいにこう訊ねられたのだ。


『そういえば近頃、ビルを捜してる連中がいるって聞いたけど、心当たりあるか?』


 あるに決まっていた。

 防区へ逃げこんでから今日に至るまで、ビルは里人以外との交流を一切断ってきた。

 繋がりのあるものなど、ログボザをおいて他にあるはずがなかった。


 そもそもこのビルという名自体が生来のものでない、特別な名なのだ。

 エズ・アントスと同じように。

 防区の外でそれを知る者は、ほんの一握りに限られる。

 それが洩れたということは、おそらく。


「……クソが」


 その一握りが粛清された事を意味していた。

 きっと惨たらしい拷問の末、口を割ってしまったに違いなかった。

 捕まれば、どんな目に遭うかは、想像に難くなかった。

 奴らは、神の意思を感じることさえできたなら、どんな非道にも罪悪を感じない。むしろ、嬉々として実行するだろう。無論、躊躇などあるはずもない。


 どんな手段をとってでも逃げなければ――。


 いきおいヴァニまで連れて来てしまったが、最悪、ヴァニの許にも魔手の及ぶ恐れはあった。いまさら誰かに介抱を依頼する時間も惜しかった。こうするしかなかったのだ。


 ビルは人目を避けながら進んだ。街道から離れ、里人たちの足跡からも逃れるようにして、エブンジュナの森を突破しようとしていた。


「……」


 住み慣れた森は静かだった。幸い、獣の息遣いも痕跡もない。小鳥が囀り、時折、羽虫が視界を横切るばかりの、静謐な自然の胎の中。

 しかし驢馬がブフと鼻を鳴らし、ビルが根をまたいだとき、背後でパキと小枝の折れる音がした。

 濃厚な気配が立ちこめた。

 ビルは大剣の柄に手を回し、ゆっくりと振り返った。

 ガサガサと葉擦れの音が近づいてくる。


 一、二、三――。


 十と数える間もなく、灌木の茂みが割れた。


「……!」


 ビルは襲いかかろうとして、とっさに浮いた踵を留めた。


「……っは!」


 待ち構えていた偉丈夫に、息を呑んだのは小さな人影だった。

 子どもだった。

 さらに、その後ろから姿を現したのも、二つの矮躯だった。いずれも襤褸外套をまとい顔は見えないが、背丈が明らかに子どものそれだった。

 ビルは緊張を解かず、子どもたちを睥睨した。


「……ガキがこんなところで何してる?」


 問いには、純粋な疑問と殺意が同居した。

 子どもたちは一様に身をすくませ沈黙した。恐れている様子だった。演技には見えなかった。

 しかしビルは抜かりなく、伏兵の襲撃に警戒した。


「そ、その」


 最初に現れた子どもの顔に、薄らと木漏れ日がさしていた。頬にはらりとひと房の髪がこぼれた。泣き笑いめいた表情でこちらを見上げる、それは少女だった。


「あたしたちは、えっと……」


 少女の声は震えていた。やはり、演技には思えなかった。

 だがやがて、こう答えた。


「ビルって人を捜してるんです」


 と。


「……そうか」


 疑惑は確信へと変わった。

 ログボザのことだ。子どもを尖兵に差し向けてくるくらい、不思議はなかった。

 ビルは大剣を構えた。


 子どもだろうと、仕方がねぇ……。


 胸に冷たい焔が燃えた。それは、じわじわと肌に沁み渡った。

 すると、大剣が笑いだした。

 鋼の刃に、どろどろと。

 をまとわせながら。




                  第三部前編『神話遡行』〈了〉


                          後編へ続く

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昏き森のオルディバル 笹野にゃん吉 @nyankawa

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