十九章 卑怯者

 壮大な物語が語られた。

 人族以外の種族を知らず、鋼の叡智を知らず、東西の勢力も知らぬデボラには、まるで絵空事めいた作り話のように感じられた。

 だがこのミズィガオロスの大地は、今なお続く人々の営みは、その信じがたい物語の上に築かれているのだと、その時代を実際に生きてきたガラクタどもは語る。


『……神の決断により、彼のヨトゥミリスは滅ぼされた。ドワーフ族の叡智は、〝機械の化神ゴッデス・マキナ〟の力を確固たるものとし、その後の東西の争いに大きく貢献した。ところが、ついにログボザを捕らえることは叶わなかった』


 オルディバルは勝てなかった、と元枢会は言った。

 彼の神の勝利とは、東の勢力の制圧を意味しなかった。

 ログボザという諸悪の根源を絶ち、人々が、自らの意思で築いていく未来。

 それがオルディバルの求めた勝利だった。

 つまりログボザは――。


「死んだのね……」

『その通りだ』


 その首肯がなにを意味するのかは、もう充分に理解できた。

 ようやく元枢会が〝古の時代〟について語った意味を悟った。

 彼らが人の肉体を捨ててまで、生き延びようとした理由も。

 ドワーフ捜索隊を結成した理由も、おそらく。


「そして」


 神に死という概念はない。死なぬわけではないが、神にとっての死とは永遠を意味しない。冥府の女神に抱かれることはない。

 滅びた魂は永い眠りを経て、


「今、その時がやって来ようとしてる?」


 蘇るのだから。


『……』


 返答までには、やや長い沈黙があった。問われた意味を解しかねたようにも、逡巡したようにも感じられた。

 デボラは、胃の腑を炙られるような焦燥を覚えながら待った。

 やがて返されたのは、『……おそらく』という曖昧な答えだった。

 その意味を問い詰めようとすると、静粛な広間が、突如、重い唸りをあげ始めた。


「なにっ?」


 無論、生物の声ではなかった。元枢会と同じ絡繰りの駆動だった。

 間もなく、それは現れた。

 三つの棺に囲まれた広間の中央の床が割れ、ゆっくりとせり上がってきた、


「……台座?」


 腰の高さほどの台座だ。しかしただの台座ではない。支柱から小さな機械の腕のようなものが無数に伸びて、それらが天板の上に置かれた書物を撫ぜていた。

 デボラは、不思議とその書物に既視感を覚えた。開かれたままのそれに近づいて覗きこんでみれば、頁は白紙だった。


「まさか、これは神書?」

『そのまさかだ。運命の女神。中でも未来を司るとされる、スクラーダ様の神書だ』


 スクラーダ。

 たしかログボザからオルディバルに渡された神書が、そのような名前だった。


『我々はログボザの復活を、スクラーダ様の予言によって知った』

「予言?」

『スクラーダ様は神書に封じられた後も、度々予言をくださるのだ。封印されている以上、そう多くを語られることはないがな』


 デボラは瞠目した。

 このような書物となってなお力を発揮し続けるとは、神とはなんと深遠な存在だろうと。

 一方で、デボラの推測は確信へと変わりつつあった。


「……任務も予言に従ったということね」

『うむ』


 スクラーダは知っていたのだろう。

 デボラが〝陰〟へ赴くことで、異形の力を手にすることを。

 そして不可欠だったのだろう、この力は。今一度ミズィガオロスを脅かそうとする、邪神と対抗するためには。


『これが真実だ』


 元枢会は抑揚もなく結んだ。

 そこには、あえて感情を殺すような気配が滲んでいた。

 デボラは唇を噛みしめた。


 憎かった。憎かった。ただただ憎かった。

 元枢会が。

 予言をもたらしたスクラーダが。

 残酷な運命そのものが。

 壊したかった。

 何もかも。


「……卑怯者」

『そうだ、我々は卑劣だ。だからこそ、君の選択を受け入れよう』

「それが卑怯だって言うのよッ!」


 デボラは棺に拳を叩きつけた。

 ゴォンと鈍い音が、広間の隅々に虚しく拡がった。

 しかし、それが棺を破壊せしめることはなかった。


「そんなものは、救済でも贖罪でもないわ……。あんたたちは、この期に及んで私を傷つけようとしてるだけよ。だって、そうじゃない……? 運命の言いなりになっても、復讐に爪をたてても、どっちを選んだって辛いだけじゃない。救いなんてどこにもないじゃない。みんなはもう……死んじゃったんだもの」


 喉の奥ががさがさと痙攣した。

 涸れ果てたはずの涙があふれ出た。

 デボラが歩みたかった未来は、こんなものではなかった。


 英雄になるつもりはない。

 復讐を果たしたいわけでもない。

 化け物になんかなりたくなかった。

 願いは一つ。一つだけだった。


「あんたたち、最低よ……。最低の卑怯者よ……」


 救われたかったのだ。

 仲間たちのいる世界で。

 特別なことなど要らなかった。

 安い酒を呷り「まずい!」と嘆くばかりのありふれた日常があればよかったのだ。


 だが、そんなものは、この世のどこにもないことを。

 改めて突きつけられたような気がした。


 異形の力を手にしようと、復讐を果たそうと、あるいは英雄になったとしても。

 彼女が望むものを手にすることは、永遠にない。


 デボラは泣きながら立ちあがった。双翼から、ガコンと黒い皮膜が落ちた。


「私は行くわ……」

『どこへ?』

「わからない……」


 向かうべきところなどなかった。

 当初は元枢会を滅ぼし、スヴァルタールヘダへ向かうつもりだったが、その気も失せた。何もかも意味のないことのように思えた。


『我々を殺さないのか?』


 今度は壊すとは言わなかった。元枢会には、やはり命があるのだと確信できた。

 一度は無意味だと断じた復讐心が頭をもたげた。とぐろを巻き、ドロドロと毒を吐くそれは醜悪だった。

 その時、思い出されたのは、


『――自分の中に悪を見たとき、躊躇できなくなっちまった奴は、もう人なんかじゃねぇ』


 薄汚い老爺だった。

 この街で生きている人々の顔だった。


『あぁ、ぃ、がと、……』


 散っていった者への哀惜だった。

 元枢会を殺せば、多くの人々が路頭に迷うのは目に見えていた。

 デボラ自身がそうであったように、自ら考えず、与えられためいを恃みに生きている者たちは、きっと多い。

 それは弱い人々なのかもしれない。「甘えるな!」と非難されるような態度かもしれない。


 しかしデボラはこの時、豁然と思い知らされた気がした。

 そもそも人という生き物は弱いのだと。

 人は心のなかに、鋼の如く揺るぎない芯を見出すべきだ。だが、誰もが芯を見出せるわけではない。それを外に求めなければ生きていけぬ者たちも大勢いるのだ。


 命を殺すということは、つまり、そういう事だった。

 一人を殺せば、一人が殺されるとは限らない。誰かの命綱さえ奪いかねない。連鎖する非道なのだ。


「私は……」


 そんな非道をやってのけた元枢会と同じ高さに、立ってやるつもりはなかった。


「この心が動く場所に生きるわ。あんたたちを処刑台に立たせても、私の心は動かない」


 デボラは三つの棺に踵を返した。

 その間にも、何度も、殺してしまえと誰かが訴えた。

 そうすれば溜飲も下がるだろうと。


「……」


 しかし聞かなかった。

 ここに傷を癒すものはない。穴を埋めるものもない。

 それがどこにあるかは分からない。どこにもないかもしれない。


 だがあるとすれば、きっと。


 こんな醜い化け物の手でも、救える命のある場所だ。

 デボラはいつかの恐怖を胸に抱きながら、遠い東の地に思いを馳せた。

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