小説なんか読んで分かるもんじゃないよ

小稲荷一照

ボクはキミと違うものだ

 なにが書いてあるのかわからない。

 風景が頭に浮かばない。

 書き方が気に入らない。

 そもそも、面白くない。

 有り体に、よくあることだ。

 はっきり言えば、それは読者が悪い。

 というよりも、相性が悪い。

 しかしそれは、読者の頭が悪い、知性が疑われている、というわけではない。

 単純に書かれた文章と読みたい気分が合わない。

 なにが悪いかと云えば、出会いが悪い。


 論文と小説は読み方が異なる。

 小説はなにが書いてあるか、わかったつもりになってはいけない。

 よくできた小説は完全に分かることはありえない。

 完全な小説を完全に理解することは、あってはいけない。

 そんな読者はこの世にいてはいけない。


 言い方、いや、書き方を変えよう。

 どれほどに文法が破綻し、論理上の接続がなくとも、作品が完結すれば、小説は成立する。

 いや、完結すら本来的には些細な事だ。

 わかりやすい風景を読者が鮮明に脳裏に描いたとして、それが作者の描いた主題とかけ離れているかもしれない。

 そうであったとして、読者は気にする必要がない。

 読者が主題を理解できないとして、筆者は気にする必要がない。

 それがしばしば問題になるのは、小説を商品として考えるときに、宣伝をするための論評を整えるときだ。

 読者が小説作品を二次創作する筆者になる瞬間に問題が起こる。

 そして、理解できないものに時間と期待とを投資した読者が、ついうっかり損失を打算的に計上する、という娯楽にあるまじき貧相な感情に苛まれたときだ。

 ぶちまけてしまえば、感想文教育と煽り文を準備する出版社がいないなら、あらゆる小説は理解を求めない。

 そして、読者は全く好きに感想を抱けばいい。

 それはもちろん、ムダだった、という感想も或いは当然にありえる。

 一方で出会いが良ければ、同じ作品から宇宙の真理へ至る階が見える事もありえる。

 それは筆者が描きたいと望んだ主題と全く異なる、元来の小説作品の主題からかけ離れたものを、読者の内面に挿し拓くかもしれない。


 読者は小説作品からいかなる感想を抱くとして作品を理解する必要はない。

 同様に、小説作品の作家筆者も読者の感想内面を気にする必要はない。

 なにをどうやっても、作家の表現したい内容は読者には伝わらない。

 それは発見体験を共有する研究報告論文であれば問題になる。

 だが、物語創作小説であれば全く問題にする必要がない。

 細心の注意を払いあらゆる努力を投じても、創作作品が完璧な形で読者の内面に届けられることはありえない。

 そのようなことは期待してはいけない。

 故に、作家は読者の内面に或いはそこから居出る様々な感想を気にする必要は全くない。

 それは創作にかける努力が無意味ということではない。

 ありとあらゆる努力を投じても無になるとして、無限の無理解があるとして、それを嘆く必要はまったくない。

 そもそもに創作は創作者にとって創作することが第一義であるべきだ。

 ということである。

 もちろん、職人としての活計を必要とする貧しいものにとっては、全く別の考え方も存在するわけだが、創作などという最先鋭の開拓者が荒野に倒れることを恐れるようなら、奴隷に繋がれることを選ぶことをオススメする。


 カネになることのないネット小説に他人の理解を求める必要はまったくない。

 ネット小説の唯一の敵は表現規制なる偏狭な悪意だけだ。

 ボクとキミは違うものだ。

 皆各自、好きに書き好きに読むのだよ。

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