禁じられた遊び

シメサバ

禁じられた遊び


「その店には殺し屋がいるんだよ」

 その噂を聞いて向かったのは喫茶店だった。

 どこにでもあるような、それでいてないような、赤い屋根をした、レトロで小さな喫茶店。

 十人も入れば満員になってしまうような狭い店内のカウンターの、一番奥。

「彼だよ」

 という囁きに導かれ紹介をされたのは、オレンジ色のキャスケットを被った少年だった。




 少年の名前は葵という。

 苗字はない、というか、紹介はしない主義らしい。

「僕のことは皆名前で呼びます。もしよかったら、あなたも名前で」

 その挨拶に習い、私もまた彼を葵と呼ぶことに決める。

 葵はどこにでもいるような少年だった。

 黒い髪に黒い瞳。水色のパーカーにグレイのジーンズ、そしてスニーカー。年頃の少年特有の伸びきった手足と、それに追いついていない細い体。

 曰く

「義務教育は終わってますよ」

 という程度の年齢。だからといって、決して成人しているようには見えなかったが。

 私の依頼はただひとつ、娘の命を奪った殺人鬼を殺すこと。

 オレンジ色のキャスケットの下、涼し気な瞳を陰らすこともなく、彼は茶封筒を受け取った。

 動揺はしないのか?

 私の質問に、封筒の中の現金を数えながら彼は答えた。

「珍しいことじゃありませんから。むしろ、きちんと金を払ってくれるほうが珍しい。あなたのようにね」


 店を出て、明るい太陽の下、キャスケットに続いて歩く。

「危ないですよ」

 という忠告に首を振り、私は鞄を抱えなおした。

 私はどうしても見たかった。

 花よ蝶よと育てたはずの娘の体を弄び、残忍な方法で殺した男の最後を。

「別にいいですけど……そんなに面白いものじゃないと思いますよ」

 構わない。私はこの目で、あの卑劣な殺人鬼の最後が見たいのだ。

「ならいいですけど……ああ、そうだ」

 ふいに足を止めて彼が振り向いたその瞬間、彼がごく自然な動作で放った銃弾が私の頬すれすれを通り過ぎた。一秒遅れて聞こえてきたのは誰かの悲鳴。自身の血の気が引いていく様を感じながら首を回すと、頭に風穴の空いた男が血を流して倒れていた。

「僕の後ろを歩くのはよくないかもしれません。前は見えるけど、後ろは見えませんから」

 私は彼の後ろを歩くことをやめた。



 殺人鬼はすぐに見つかった。

 高いビルと高いビルの間にある、狭い路地だった。

 ゴミ箱とビール瓶、ホームレスの屎尿、野良猫の死骸ばかりが集まっているようなその場所にいた。

 刺青の入ったスキンヘッドと右耳の髑髏のピアス、そしてナイフ。それらは、目撃情報と同じもの。ただし、わたしの知っている情報の中に、焦点の合わない瞳、開ききった唇、そこからとめどなく流れ出る唾液は入っていなかった。

「薬をやるとこうなるんですよ。やったことありますか? 薬」

 あるわけがない。

 逆流する胃液ごと口を押え、首を振る。私はそこで久方ぶりに、彼の後ろに後退した。

 男は左右飛び散った視点で私を――私の前にいるオレンジ色を見つけると、呪文とも思えるような奇妙な言葉を叫びながら、葵に襲い掛かった。銀色のナイフが太陽の光を反射した。恐怖に震える私の目には、男の動きがとても早く見えた。もしもこれが私なら、勿論まだ二十歳にもなっていない殺されてしまった私の愛娘だったなら、もしくは小さな子供なら、あっという間に殺されてしまっていただろう。


 葵の動きは早かった。


 男が葵の肉を断つよりも早くナイフを取り出し、一直線に喉を切る。


 それだけだ。


 葵が取り出したナイフは美しい弧を描き――殺人鬼の首に非常に綺麗な線を浮かび上がらせ――そこから噴水のようにして深紅の血液が溢れ出した。


 それは非常に大胆なスポーツのようで、もしくは繊細な芸術ようですらあった。


 秒針の速さで倒れ行く男の体を見送り、私はその場に座り込んだ。血飛沫を浴びたオレンジ色のキャスケットと水色のパーカーに水玉模様ができている。

 大きく刺青の入った男の体が血の海に沈んで、ぴくぴくと痙攣し、次第に動かなくなる。遠くから聞こえてきたサイレンの音で我に返り、私は立ち上がった。

 この男が、この男が娘を、梨穂子を殺したのだ。梨穂子はまだ十八だったのに、彼氏もいなかった、大学生ですらなかった、免許だって持っていなかったのに。

 泥のついた私の革靴が血で真っ赤に染まっていく。お父さんは綺麗好きだからね、といいながら娘が磨いてくれていたの革靴で、蝶の刺青が入ったスキンヘッドを蹴飛ばし、踏みつけ、汚していく。

 ひどく憎たらしく、悲しくて、それでいて気持ちがよく、むなしかった。

 男の頭の形が変わるまで蹴り続け、私はまた、へたりとその場に座り込んだ。

 葵は、まだそこにいた。

「気が済みましたか?」

 彼の声はひどく淡々としていた。まるで子供のわがままにでも付き合っているかのような、そんな声色だった。


――もう、気は済んだか?


 いつだかったか、梨穂子がまだ幼稚園だった頃。あの頃はまだ、妻も健康で、病気の一つすら知らなくて、三人で遊園地に行ったことがあった。

 太陽が沈むころになっても帰りたくない、まだ遊びたいと駄々をこねて、私と妻を困らせたものだ。

 気は済んだ。

 梨穂子を死に至らしめた殺人鬼はもういない。

 梨穂子は喜んでいるはずだ。

 きっと梨穂子は天国で、妻と――母の千代美と共にいるだろう。

 そう、梨穂子は千代美と。

 私は、一人で。


「……ありがとう」

 わたしの言葉に、葵は何も言わなかった。オレンジ色のキャスケットの後ろ、太陽が沈もうとしている。同じ色だ――葵のキャスケットも、悲しくなるほどに美しい太陽も。

「……殺人鬼は死んだ……娘を殺したおぞましい殺人鬼は……娘は……娘を殺した殺人鬼は……娘の苦しみを一かけらも味わうことなく……一瞬で……」

「……人は皆、いつか死にます」

「ああ、そうだ……人はいつか死ぬ……娘も……妻も……娘を殺したこの男も……妻は病気で死んだ……娘もひどく辱めを受けて……私は……まだ生きている……娘も妻も、誰もいなくなってしまった世界で……たった一人……」

 夕焼けが消えていく。

 あの日、三人で見たはずの夕焼けが、千代美と梨穂子と、三人で手を繋いでいたはずのあの一日が、帰るはずの家が、消えてしまう。

「私は、一人だ――この広い世界で、誰もいない――たったひとりだ――」

 赤い夕焼け。オレンジ色のキャスケット。水色のパーカーの後ろから漏れる光が、ビルの谷間に落ちていく

 それがあまりにも美しく、眩しくて、切なくて、思わず吸い込まれそうで、私はそっと手を伸ばした。今すぐにでも届いてしまいそうな距離の中で、わたしは、天使の歌声を聞いた。それはまさしく、ファンファーレであり、扉が開く音ですらあった。


 おとうさん、わたしたち、ずっといっしょよ。


 遠いどこか、そう私を呼ぶ娘たちの声が聞こえたのだ。






*****






 目の前に転がった二体の遺体を前に、葵は思わず顔を顰めた。

 一つは若い男の死体。

 スキンヘッドに蝶の刺青の入った薬物中毒のこの男は、葵たち殺し屋の間でも評判になるほど太刀の悪い人間であった。

 見目麗しい若い女を襲い、散々辱めたあとかなり残忍な手口で殺すことに定評があると。

 もう一体はスーツ姿の中年男性の死体。

 最近の依頼人にしてはなかなかよくできた人間であるというのが、葵の感想であった。

 依頼人の中には、依頼するだけしておいて代金を払わないというような人間も決して少ないわけではない。そういった輩には勿論『体』で返してもらうはずなのだが、ピン札で支払いを済ませたところからすると、そこそこまともな人生を送ってきたはずの人間なのだろう。

 けれどそれも、今の一瞬で消えてしまった。

 葵は顔についた血飛沫をパーカーの裾でぬぐい、顔を上げた。

「瑠璃」

 瑠璃は正しく、葵と同じ顔だった。誰が見ても振り返るくらい、血の繋がりを決して否定できない程度には。

 彼女は風に靡くロングヘアーを手で押さえると、いくらか鬱陶し気に顔を顰めた。それから持った拳銃にキスを送り、悪戯な瞳を葵に向けた。

「なぁに?」

「なんで殺したんだよ。僕の客だぞ」

「いいでしょ。この人、気が済んだ、って言ってたもの。それに、一人じゃかわいそうよ」

「だからって、勝手に殺すなよ。死体処理、どうするんだよ。二体も大変だろ」

「うちの研究所の人にやってもらうからいいもん」

 まるで子供が菓子をねだるかのようなその口調に、葵は小さくため息を漏らした。

「それが目的じゃないだろ」

 葵の呟きに、瑠璃の目がにたり、と細められる。

「さっすがぁー」

 にこにこと笑みを浮かべる彼女は、まさしく天使だった。容赦なく向けられる銃口は、決して友好の証には見えないだろうが。

「大好きなオニイチャン。殺しあいっこしよ? 時間無制限で、先に死んだほうが負けね」

 ギラギラと輝く瞳の向こう、真っ赤な太陽はとうの昔に姿を隠し、藍色の空が広がっていた。


fin.


2016.10.16 執筆

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